〔魅-mi〕④ 魄
「ふぅーん、ドッペルゲンガーねぇ」
昼前時アカネは例によって“叡智の楼”こと本でできた事務所のリビングで椅子に腰かけている。味覚破壊のゲテモノ飲料で満たされたコップを片手に来訪者と面会している。
今朝方の、某世界一の探偵も舌を巻くほどの糖質MAX飲料とは打って変わり、昼は夏バテ防止をテーマに酸っぱい物縛りらしい。コップ一杯分のお酢をメインに――まずここが大きな間違いだが――ヨーグルトや梅干、レモンやグレープフルーツなどの柑橘系の果物を一通り丸々一個ずつ、パイナップルやアセロラなんかも入れてミキサーにかけ、マグカップに注いだそれにもう充分に充分が過ぎるというのに粉末のクエン酸を山のように振りかけ、仕上げに酢昆布をトッピングした、涙ちょちょぎれる一品である。
多分に命の危険性が丸出しで、生きているうちはこのような物は絶対に飲んではいけない、というか作ることを法で禁止するべき代物なので、絶対に真似しないでいただきたい――と、来訪者である日吉ヒヨコや、主の命とは言えこのようなおぞましい化学兵器を生み出してしまった井出ランゾウは鼻を抓みながら心底思った。
「ん、どったの、ピヨちゃん」
「いや、それ美味いのか。つーかピヨちゃん言うな、殺すぞ」
「良薬口に酸っぱしって感じ。でももういいや。いいじゃんピヨちゃん、可愛いじゃん」
「一口しか飲んでねーじゃねぇか。やめろつってんだろ、テメー知ってて言ってんだろ。マジで殺すぞ」
「うん、でももういいの。あとはランゾウっちが飲んでくれるから。知ってたとしてもピヨちゃん自身、昔のことなんてそんなに気にかけちゃいないでしょ?」
「おい、ランゾウっち泣いてんじゃねぇか。怖くて震えてんじゃねぇか。だとしてもだ、不愉快だからやめろ」
えー、と不服そうに頬を膨らませるアカネの傍らで、執事のごとく佇立するランゾウが白目を剥いて痙攣している。彼は彼女に渡されたマグカップを両手で持ち、そこから漂う鼻を突く臭いに失神してしまったようだ。
ヒヨコは眉間を揉み、ランゾウからマグカップを取り上げ、どこへともなく抛った。アカネが勿体ないと叫ぶ一方、正気を戻したランゾウは大粒の涙を流し、怖かっただ何だのとヒヨコの足にしがみついて子供のように泣きじゃくった。そんな彼を武士なら武士らしく毅然としてろと足蹴にしたヒヨコは、話を繰り戻した。
「それでだ、アカネ。ドッペルゲンガーについての情報は何かあるのか」
「んー、ゲーテちゃんの話は面白いよ」
「ドイツの詩人だか文豪だかか。つーか相変わらずよくもまぁちゃん付けできるな」
「ドイツ連邦の天界で実際に会ってみたら、中々キュートな人だったよ。私が感銘を受けたのは、“生きているあいだは、いきいきとしていなさい”って名言を晩年に残していたことかな。死んでも尚意識があるこの状態に複雑な思いが消えないとか、〈ファウスト〉みたく天使も悪魔もいなくてショックだって愚痴ってたよ」
「〈ファウスト〉って何だ」
「ベンキョーブソクだよ、ピヨちゃん」
「生憎おベンキョーは小学生低学年でやめちまったよ」
「義務教育って知ってる?」
「ガキを厄介払いするための大人の口実だろ」
「じゃあ学校は?」
「ガキを日中だけ収監する檻のことだろ」
「授業参観と運動会」
「見世物小屋とサーカス」
「さっすがピヨちゃん、荒んでるね♪」
「当然だ」
天皇制の観点から、現存する国家で最古の歴史を持つとされる日本とは違い、多くの国が幾度も領土を奪い奪われ、名をはじめとした国家体制を変えてきた。ドイツもその一つで、ヨハン・ヴォルフガング・ゲーテは一七四九年に神聖ローマ帝国に生まれて以後、ヴァイマル公国を経て、晩年はドイツ連邦に属している。
誕生した国家の数だけ天界はあり、獄界においてはその秘密主義から不明とされている。ゲーテの場合は死去した都市ヴァイマルが|ドイツ連邦《Deutscher Bund》に属していたことから、ドイツ連邦の天界で今現在も暮らしているようだ。ちなみに現在のドイツの正式名称は|ドイツ連邦共和国《Bundesrepublik Deutschland》であるので、ゲーテが生きていた時分の国家とは体制が一線を画している。
〈ファウスト〉はゲーテが手がけた戯曲の一つで、一六世紀前後にドイツに実在したとされる錬金術師ファウストの民間伝承をモチーフにした作品である。
一八〇八年に刊行された第一部では、悪魔メフィストフェレスと契約した初老の学者ファウストの壮絶な半生が綴られる。第二部は一八三三年に発表された。それはゲーテの死の翌年であり、アカネ曰くゲーテはこの遺作の発行を奇妙な面持ちで天顕疆界から見届けていたという。
それもそのはずだ。二〇代前半から六〇年間書き続けた大作が死後に発表され、直接の賞賛も受けられず、またそれに対する何らかの思いも言葉にして返せないのだ。これほど居心地の悪いこともないだろう。
しかも死んでみたら死んでみたで、周囲はただの死人の集り、どこを探してみても美しい女神ヘーレナーや、聖なるものを忌み嫌う虚無主義のおしゃべり悪魔メフィストフェレスの姿もない。同じく〈ファウスト〉に登場する主人公の恋人となる女性グレートヒェン、彼女は実在の人物をモデルとしていて名前もそのまま拝借したゲーテの初恋の相手であったが、死後に再会するとただのお婆さん。あれほど脳裏に描き続けてきた美しい姿はすっかり過去のもので、死人の外見は死んだときに最も記憶に残っている姿――死の直前までの健全な姿で形作られるというから、かつての可憐な容姿は二度と見られないときた。世の不条理は、死して尚も継続していることに嘆かざるを得なかった。
しかし最も彼を追い込んだのは、彼よりも一六年も前に他界した妻、クリスティアーネ・ヴルピウスだった。彼女は自身と結婚していながらも、二人のうら若き乙女に恋心を覚えいた彼に死にながら胃をキリキリさせていたらしく、さらには自身の死からおよそ七年後にまた一〇代の少女に恋をして、挙句振られるというみっともない姿に呆れ果てていたらしい。
死後、光を頼って天顕疆界を彷徨っていたゲーテを迎えに来たのはそんな妻クリスティアーネだった。彼女はあの言葉は嘘だったのと、死の淵で彼に叫ばれた、『私を置いて逝かないでくれ』という熱い愛の言葉を蒸し返すや、彼の恋愛遍歴をのべつ幕なしに吐き捨てて、彼の頬に平手打ちを見舞ったという。それからというもの、“ゲーテの赤い頬”という格言がドイツの天界に笑い種として定着している。余計な約束はするものではない、老いらくの恋はほどほどに、などの意味らしい。
「ゲーテちゃんは死ぬ前から天界の有名人だったんだよ。著作の〈若きウェルテルの悩み〉って知ってるかな。主人公ウェルテルによる、ある女性への恋心と失恋、自殺までを綴った作品なんだけど、それが若い子達の心を鷲掴みにし過ぎちゃってね、ウェルテルを真似た自殺者を大量に出しちゃったのよ。各天界の間でこれが物議を醸してね、たかが小説程度で人心を惑わすなんてどんな化物なんだって話題になってたんだぁ」
「へぇ……って、おい、それがドッペルゲンガーと何の関係があんだよ!」
アカネはハッとして目を見開くと、「えへへ」と頬を掻いた。
「お前のその脱線癖と飽き性はどうにかならないのか」
「死物にその手の話はナンセンスだよ、ピヨちゃん」
大息をつくヒヨコとは対極に目を細めた彼女は、記憶を探るようにして語りだした。
「彼が二一歳の頃、石畳の道路を馬車に乗っていたときのことらしいよ。夢現で、あまりハッキリと覚えていないらしいけど、向かいからすれ違った馬車の中に自分の姿を見たらしいの。でもその服装に彼は見覚えがなかった。八年後、彼は同じ道を馬車に乗って移動していた。そのときにようやく以前に見たもう一人の自分と同じ姿を今まさにしているのだと気付いたんだってさ」
「……それだけか?」
「そうだよー」
「ゲーテはいくつで死んだ」
「八二ちゃい」
しばしの沈黙の間、次第に深くうな垂れていくヒヨコにアカネは笑みを絶やさなかった。
「なぁ、アカネ。私はドッペルゲンガーの話を聞きたいんだよ。未来の自分目撃情報なんて知ったことじゃねぇんだ」
「ピヨちゃんとしては、芥川の龍ちゃんや、ロシアの女帝エカチェリーナ二世の逸話みたいなのを期待したんだろうけど、私はそういう分かりやすいのに興味はないの」
「あのなぁ」
「同意が欲しいの? 自分の意見に太鼓判を押してほしいの?」
たまに。稀に。全くもって滅多にないことだが、アカネはこんな風に見透かしたような言葉で人を圧倒する。
ヒヨコは虚を突かれた思いで顎を引いた。
「見た者に死を与えるばかりがドッペルゲンガーじゃないと私は思うんだよ。〈異物〉であるかどうかでさえ私には判断できない。まぁ、ハナちゃんをけしかける理由としては上等だったみたいだけど」
また痛いところを……。
ヒヨコは説教されている気分になって目を逸らした。
そんな彼女のガラにもない態度を背に、アカネは椅子から立ち上がった。不可視の階段を上がっていき、無造作に積まれた本の壁から一冊を引き出した。それは都市伝説を纏めた書籍で、ドッペルゲンガーについても詳細に記載されていた。
「でもピヨちゃんが考えたように、ドッペルゲンガーという都市伝説上の怪物が、その男の子を殺した“何か”の正体を掴む糸口になるのは確かだろうね。私としては、その男の子の死に方に興味があるけど。正しくは、“何か”による人の、生物の殺し方、かな」
アカネは先程までとは異質の不敵な笑みを浮かべた。ヒヨコも席を立ち、彼女がいる上空一五メートルほどまで軽く飛び上がった。
「ねぇ、ピヨちゃん。生物はどうして死ぬと思う?」
「それはお前、寿命とか事故とか事件とか、ほとんどが病気だろ。あとは戦死、戦病死、餓死か」
「そんな顕界のジョーシキを得意気に披露されても挨拶に困っちゃうよ」
「……魄か」
「そう、魄。魂と並ぶ幽体の一つ。魂は常に死界の重力に引かれ、上に向かう性質がある。魄はそんな魂を肉体に留める膜として機能している」
幽体は非常に都合の良い、顕界では未発見の素粒子で構成されていると言われている。その性質は光子と似通っており質量はゼロ、常時電磁波に類似した波動を全方位に輻射している。波動は魄よりも魂のほうがはるかに強い。生物には接触はおろか目視すら困難であるが、魄は確かに生物の体内と癒着でき、魂からのエネルギーを肉体へ送る機能を有する。
魂はある状況下ではその性質が大きく変わり、生物にも目視および接触が可能となる。その状況とはつまり、霊である。魄から抜け出し、一度死界に昇った魂が再び顕界へ戻った際、大量のエネルギーを消費しておきながら何故か質量を得るのだとされている。質量を得たその幽体は電磁波や磁場、音波を引き起こす。つまり、それが霊障であり、カメラやビデオカメラで撮影される実在しないような像や発光体を、幽霊やお化け、オーブと人は呼ぶのである。
質量保存の法則から逸脱した、四次元より外へ行き来できる素粒子。それが幽体なのである。
「魂は精神と記憶を保有し、かつ生命エネルギーの源。対して魄は肉体に癒着し、魂が放つエネルギーを肉体へ供給する役割を持つ。不滅である魂とは違い、魄は生命の誕生から徐々に崩壊していく。それは魂の強いエネルギー波を常に浴び続けているために、次第に耐久力が失われていくためだとされている。それが魄の寿命――だったか」
ヒヨコが続いた。
アカネは本棚から図鑑のように分厚い書籍を抜き出した。これは顕界で焼失した、あるいは人為的にお焚き上げされた本ではない。それこそ死物となった紙やペンを使い、天界で書かれた本である。そこには天界で研究された幽体の情報が事細かに記されている。
「例えば全く同じ種類、性別、遺伝子を持つ生物が二匹いて、どちらもが同じ時間、同じ理由で瀕死の重傷を負ったとする。そのとき片方は死に、片方は生還した場合、人はそれを単純に不運と奇跡に分けてしまうよね。両者を治療する二人の医師の存在があったとしても、それは全く本質とはかけ離れている」
「魄は肉体の損傷によって体外へ漏れ出す場合があるんだったな。魄の分量が失われると、魂の膜としての機能が衰え、結果的に魂の肉体からの離脱を許してしまう。全ては魄が正しく機能しているか、ということだな」
「そう、前者の死因は魄を体外に流出させすぎたか、あるいは潜在的に魄の強度が脆かったかのどちらか。どれだけの怪我、病気をしても、魄が丈夫なら死ぬことはない。それが、生命の真実」
ヒヨコは左首を押さえた。あの日受けた傷口から血液だけでなく魄が漏れ出したのだと思うと、どうにも疼いて仕方なかった。
「そんな生命の機能を利用した霊による生物の殺し方の一つが、憑依。これは霊が生物に接近するだけで彼らの任意で開始される。魄は生物だけでなく霊にも触れられない特徴があるけど、波動は別。魂の膜として、魂やそれが放つ波動さえもなるべく外へ漏らさないようにする機能を持つ魄は、外からの波動の防壁としての役割を担っている。内と外、ジレンマを抱える魄の弱味に漬け込んで、霊は外から魄を壊そうと波動を送り、やがて魄から魂が漏れ出すよう仕向けるの。酷い場合は、魄に空いた小さな穴を頼りに波動を魂へと注ぎ、その生物の意識に干渉して操ったり、魂と自身を魄の中で同居させることで意識の主導権を則る場合もある」
幽体離脱という現象がある。
これは魄から魂の一部がうっかり飛び出してしまった状態である。もしも魄から全てが飛び出してしまったら戻ることはできない。死界の重力に引かれ、意思に拘らず次元を超えて天顕疆界、あるいは罪咎疆界へ転送されてしまう。
魂を失った魄は時間をかけて崩壊する。それが肉体の腐敗へと繋がる。
「聞くところによると、その男の子は無傷のまま死んだんだよね。ドッペルゲンガーがその子のお腹に頭を突っ込んで、何かをした。いただきますと、何かを食す挨拶まで残した。何を食べたんだろう。何を食べられたから、何を失ったから、その子は死んでしまったんだろう」
ヒヨコは顔を擡げると口元に手をやり、両の瞳をそろって左右に振った。
彼女が何かに気付き始めたと知るや、アカネは言を継いだ。
「つまりね、ピヨちゃん。魄とはすなわち命のことを示すんだよ」
「……“魄を喰らう異物”ってのはドッペルゲンガーのことだって言いたいのか」
「喫茶店でその話をしたときに伏せていたことがあるの」
「何だよ」
「そもそも今朝の喫茶店での内容は、先日あった異物対策委員会の定例会議に出席したときの話でね、参列した異物被害者の中にドッペルゲンガーに殺された女性がいたの」
「おい、てことは何だ。まさかドッペルゲンガーが生物の魄を喰らう異物だって可能性がそこで提示されていたってことか?」
「まさに私がそう意見した。魄に触れるなんて不可能だって突っぱねられたけどね」
そりゃそうだと思いつつもヒヨコがそれを口にできなかったのは、ミチヒデやその女性が何故死んでしまったのかを改めて考えたからだ。不可能だと思われていることをドッペルゲンガーが可能にしているとしたらどうだろうと。
「他にまだ伏せていることがあるんじゃないか?」
アカネは白々しく、「そんなことないよぉ?」と鼻を鳴らすばかりだった。
さしものドッペルゲンガーも魄は喰えても、コイツの魂だけは何があっても喰えないだろうとヒヨコは苦笑した。