〔魅-mi〕③ 獄界の使者
予測不能な激しい水流のうねりに揉まれ、流れのまにまに暗闇へと吐き出された。
情報屋アリザリンに所属する“くの一”――イロは、等間隔に宙に灯る蝋燭の火を頼りに闇を歩む。足下は水浸し、進むたびに泥濘に嵌っていくのが解る。
イロは階段のように見えない足場を一段一段上がった。水面まで出れば、この面倒な水に絡め取られる心配はない。その様はまるで水面歩行、水蜘蛛の術だ。現実には、かんじきのような木製で薄い円形の道具を履いて水面を歩くことなど不可能で、彼女も生前にそれは身をもって知っている。
“死せずして、生を知るに及ばず”。アカネからはよく聞かされたもので、死んでできることなど全て虚構に過ぎないとも言われた。しかしこうして生きてできないことを可能にしている今、主の言葉が真実正しいのかと考えてしまう自分がいた。
それがいけなかったのか。まるで彼女のネガティブな思考を読み取ったように、足下の水が彼女の身体にしがみついた。
「ちぃっ」
腰に帯びていた短刀を抜いた。獰猛な水の触手を掻っ切り、大きく飛び上がった。水はそれでも自我を持ったように彼女を追いかけた。
もう一度足場を作ってさらに高く飛び上がった彼女だったが、頭頂部を強打してしまった。何事かと仰いで見ると、小舟の船底が宙に浮いていた。
イロは急いで舟の縁に掴まってそれに乗り込んだ。すると水は船底を何度か叩き、波飛沫を上げ、やがてさっきまでの暴挙が嘘のように静かな水面を視界全土に広げた。一息ついた彼女は、櫂のないそれが赴くままに暗黒の海を漂った。
水には触れるべきではないのだろうとイロは解釈した。ここを訪れたのはすでに百度を越えており、そのほとんどがはじめから小舟での移動だった。経験上、舟で移動していれば水は襲ってこない。おそらくこの水――この死物は、他の魂の自意識というものを嫌っているようだ。イロが自らの意思で獄界を目指すというのは気に入らず、水は自らの意思で彼女をどこかへ流したがっているのかもしれない。アリザリンの事務所近くの〈贔屓の海〉が、イロに何もさせぬほどの力で呑み込み、ここまで運んだように。
主、昼前時アカネが管理する〈贔屓の海〉。それは死界に流れる水源〈龍脈〉から九つに分かれた支流の一本が溜まった湖である。その名は中国の伝説の生物、竜生九子の一体になぞらえている。贔屓は亀に似た姿をしているとされ、重きを負う、つまり何かしらの土台、礎となることを好むとされている。古代中国の建造物においては、柱の土台の装飾などによく用いられている。かつて贔屓の海を管理していたアカネの先代はその名のとおり、死界、とりわけ天界で重要な役を担っていたとされている。風来坊のアカネが現在その役を全うしているかと言えば、真実そうだとは言えないが……。
〈贔屓の海〉に飛び込み、こうして獄界の入り口まで流されたイロは、突然小舟の上で赤い光に照らされた。長く深い闇を抜け出たその場所はまさに地獄の入り口、一本の太く赤黒い川と、両岸には地平線の果てまで続く河原が広がっている。
イロは舟から川を覗き込むような真似をしなかった。岸のほうを見るような真似もしなかった。それはこの血の川で溺れ続け、賽の河原さながらに積み石をしては自然と崩れ去るそれに嘆いている無数の罪深き魂達を挑発する行為に他ならないからだ。
ジッと前だけを見据える。しかしそれでも小舟に乗る者が罪人ではないと知っている者達は醜くも怒りや嫉妬に駆られ、舟に手を伸ばし、イロを川へ引きずり込もうとするのである。
手のいくつかが彼女の身体に触れた。その度に彼女は淡々と振り払い、冷たく言い放つ。
「触れないでほしいッス。セクハラで訴えるッスよ」
するといくつかの手が動きを止める。罪深き死人の中には、裁判にかけられ死刑に処された者も多いと聞く。訴訟などの言葉にトラウマを持っている者もまた、多いらしい。
三途の川、またの名を罪咎疆界は悲鳴と怒号、あわよくば仲間にしようという甘い誘いと怨嗟の念に満ち満ちていた。おそらく天界送迎センターの入社実技試験で落ちる程度の未練への耐性では、あっという間に霊落してしまうに違いない。それほどの強い負の感情が犇めいていた。
そんな赤黒く醜い世界はやがて失せ、世界は灰色から再び黒へと戻っていった。気付けば今の今まで乗っていた小舟は消え、足下の河水も何も無い、何も見えない虚無に突っ立っていた。
それは恒星瞬く宇宙とは似ても似つかぬ真の闇。入口に灯っていた蝋燭は皆無で、三途の川で魂を震え上がらせていた絶叫や形容しがたい死臭もない。ここが獄界の入り口であると知ったとき、恐怖と安堵を綯い交ぜにした複雑な気持ちになったことをイロは今でもよく覚えている。閻魔大王などいないのかという、落胆さえも。
確かに歩いているのか、そこに立ってさえいるのか。実視界でそれを認識できず、きっと気を抜けばこの果てない闇の底へまっしぐらに落ちてしまうに違いない。そんな深淵から高気圧のような熱波が全身を焼き、イロは足を止めた。
「ここは〈獄落門〉ぅ。天に誘われし流浪の者ぉぅ、即刻立ち去れぇぃ」
彼女の鼓膜に、どこからともなく野太い男の声が直接染み入った。
皮肉としか思えない名前の門に、本当に門としての形があるのだろうか。いや、外見など関係ないし、不要なのだろうと彼女は思った。何故なら至天門も囲いが無ければただの穴でしかない。目の前に聳えているのだろうそれも同じ、罪咎疆界と獄界を隔てるという、ただそれだけの役割を担っているに過ぎないのだから装飾など無用の長物なのだろうと。
「聞こえんかぁ。即刻立ち去れぇぃ」
「昼前時アカネの使いッス。〈獄界の使者〉なら誰でもいいッス。主からの書状を受け取ってほしいッス」
「贔屓の女か」
「ッス」
イロは懐から書状を取り出し、差し出した。何も見えない黒一色なので、どこに使者がいるのか目で判別するのは困難だった。
目を閉じた。魂の波動を蝙蝠が使う超音波による反響定位の要領で全方位に輻射した。すると返ってきた波動から、声の主の居場所を特定することができた。随分離れた前方に、四人ほどのシルエットがある。続いて波動そのものを視覚へ転じると、相手の容姿がハッキリとした。
顔を隠す仮面は竹を編んで作られた物のようで、それぞれ個性的なデザインをしている。死に装束と思しき白い着物を雨合羽のように頭から被っているからか、黒装束に顔面黒塗りのイロのほうがいくらか獄界の住人に相応しい格好をしているように見える。胴体の衣装も個性的で、ふんどし一丁や朱塗りの甲冑、薄汚れた着物、明治期の黒いラウンジ・スーツなどさまざまだ。そしてそれぞれに槍や刀、鎌、拳銃などを装備していて、いかにも門番に相応しい。
「“贔屓の引き倒し”とはよく言ったものだ。貴様らの話に一々耳を貸していては世の秩序が乱れてしまう」
「そんなことは主も百も承知ッス。しかしそれでもお願いしたいことがあると主は頭を下げているッス」
「しからば何故、あの女自ら出向かん」
「私が名代では不服ッスか」
「そう申しておるぅ」
イロは嘆息を漏らした。今回はいつになく頑固なのだ。いつもなら一言二言交わせば書状を読むくらいのことはしてくれるのだが。
使者達は口々に続ける。
「あの女の申すことぉ、用件ぅ、全て下らぬわぁ」
「そうだ。我々、獄界と罪咎疆界には関わりのないこと。ましてやあの忌々しい天界送迎センターと繋がりの深い女の戯言になど一分の興味も湧かん」
「もういいだろう、即刻立ち去れ。さもなくば、貴様をこの門の奥へ通し、永劫出られんよう投獄することになる」
「みだりにそんなことをしたら死界の法に触れるッスよ」
「死界全土に適される法などない。あるのは獄界とそれに属する罪咎疆界を治める法と、天界とそれに属する天顕疆界を治める法の二つのみ。我らの地に踏み入ったそのときから、貴様には前者の法が適される運びとなっておる」
かつてない脅しだ。これ以上長居すれば、本当に獄界へ落とされかねない。
イロは一考し、その場に腰を下ろした。頭巾を脱いで顔を晒すと正座し、三つ指そろえた両手を膝の前に置き、深々と頭を下げた。
どれだけの恐喝を受けようとも、何もせずにここで引き下がるわけにはいかなかった。
主の命は絶対だ。これまでのアカネの要望が彼らにとって下らぬことだったとしても、自分をここへ寄越す彼女の用件が冗談で済まされたことなど一つ足りともない。言い換えれば、大きな保険だ。転ばぬ先の杖、降らぬ先の傘。現代的に言えば、食事の後の歯磨きとか、四〇過ぎの人間ドックとか、防衛力を高めるための日米安全保障法制とか、そんな感じだ。
アレレ、何か違うッスか?
「貴様ら忍風情の土下座など信じるに値せぬわぁ。あの女にいくら積まれたのかは知らぬがぁ、そうまで仕える価値があるのかぁ?」
四人の中で最も偉ぶっているふんどしの男のセリフに一同が肩を揺らして笑った。そう一同、忍風情でさえもだ。
「フフ、おかしなことを仰るッス」
「何ぃ?」
「主と私は生前からの腐れ縁。金の繋がりなどありゃあせんッスよ。苦楽を共にし、抱き合って果てたほどッス。我らにあるは魂の繋がりただ一つ。“地獄の沙汰も金次第”とはよく言ったものッスが、まさかここまで使者の魂が穢れきっているとは思ってもみなかったッス。いくらッスか、いくらあれば私の、いや主の願いを聞き届けてくれるッスか」
「下賎な忍風情が、我らの不興を買ってタダで済むとは思うなよ」
「そうやってこんな昏い檻の中で果てるまで過ごしていればいいッスよ。いずれ近いうちに起きる世界の崩壊に気付いたとき、主の言葉に耳を貸さなかったことを悔悟すればいいッス」
「世界の崩壊だとぉぅ? 大仰な言葉で我らを惑わそうなど臍がくねるわぁ」
「嘘だと思うならこの書状を受け取るのも容易いッスよね。関わり合うのが面倒だと言って断っていたのなら、このような戯言に目を通すことなど造作もないはずッス」
イロは今一度書状を差し出した。すると甲冑を着た使者が、一つ瞬きしたうちに彼女の眼前まで近付き、書状を奪うように受け取った。
幽体でできた紙に触れると、書状に宿った記憶の波動が使者の中に流れ込んだ。開かれることない三つ折の書からオートでダウンロードされていく波動は、白と黒の点を生み、やがて線となって大きな点となった。斑模様から文字となり文となり、表された情景が三次元となって色がつくと音が鳴って言葉に代わり、一つの空間に佇む若い女の像を結んだ。
瞬間、くり抜かれた仮面の眼窩の奥で、瞳孔がさらに大きく開くのをイロは見逃さなかった。しかし、「呑めぬ」と使者は頑迷固陋なその態度を変えなかった。
「人の死界の歴史は四万年前にも遡る。しかしその永き歴史の中で、贔屓の女が危惧するような事態は一度たりとも起きた例がない」
「起こるはずのないことが起きてしまうのがこの世界。主はいつもそう言って、起こるはずのないことを起こらぬように務めてきたッス。今回もそう、アナタ方には――」
「話はここまでだ。即刻、立ち去るがよい」
「また来るッス」
使者は答えぬまま、その姿を完全に闇へと隠した。
イロはしばらく立ち尽くしたが、気持ちを切り替えて踵を返した。仕事が山積みだった。