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ドッペル!  作者: 吹岡龍
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〔魅-mi〕② 死人たれ

 母の嗚咽(おえつ)がミチヒデの魂を揺さぶっている。神野ハナは立ち尽くす彼の背中にそっと手を当てて、彼の気が済むまで傍にいることにした。

 二人は日吉ヒヨコ達と別れた後、あのコウジという巨漢が亡くなったマンションから五キロメートルほど北上した場所にある大学の法医学教室の地下――霊安室を訪れている。ミチヒデの遺体は警察による検案の結果、事件性が認められないことが判ると、即日詳しい死因を特定するために行政解剖に回された。

 行政解剖には遺族の承諾は必要とされない。もう動くことのない、それでもまるで無傷で綺麗とさえ呼べる息子の身体にメスを入れられる両親の気持ちを思うと、ハナは少しばかり目を逸らしたくなった。しかし心のどこかで、自分よりはマシなんだよと古城家の皆々に伝えたい気持ちがしゃしゃり出ようとしていた。

 解剖の結果、死因は心不全とされた。(ちまた)の新聞では勇み足から、クーラー病が死因と書きたてられているが、自律神経がやや疲弊している形跡はあったものの、内臓疾患を発症していたり、毒物の摂取、カビや菌などの感染も一切認められなかった。仰向けに倒れた際に臀部(でんぶ)や肩甲骨、そして後頭部にわずかな打撲痕が見られたが、それが脳や脊椎(せきつい)に損傷を与えるほどのものではなかったので致命傷とは考えられなかった。

 監察医曰く、比較的穏やかに心臓が止まったのではないかとのことだ。


「あんなに元気だったのに……」

「そうだな」


 灰色の納体袋に包まれたミチヒデの輪郭を見下ろしながら、彼の両親は言葉を搾り出していた。

 ハナはテーブルに置かれた検案書を見た。両の二の腕に薄い圧迫痕が確認されているらしい。おそらく、ドッペルゲンガーに掴まれたときに付けられたものだろうと推測できるが、医師にはそれが何なのか分からなかったはずだ。

 そう、ドッペルゲンガー。

 その都市伝説でのみ語られる怪物の名を口にしたのは日吉ヒヨコだった。




『――――ドッフルギャンガフフフフフフフフだってぇ!?』


 巨漢のコウジは過剰な反応を示していた。お前何言ってんだとヒヨコが冷たい視線を向けると、苦し紛れに彼は重力語云々と答えていたが、誰もそれを理解できなかった。


『ドイツ語で“二重に出歩くもの”、医学的には“自己像幻視”という脳機能障害の一種。“霊的な生き写し”、“自意識を持った影”、スコットランドでは“共歩き(Co-Walker)”という妖精が酷似した特徴を持っている。ちなみに日本でも、“影の病”、“離魂病”なんて呼ばれていたらしい』


 まるで専門家のように彼女は語る。しかしそのほとんどは昼前時(ちゅうぜんじ)アカネからの受け売りだった。


『ドッペルゲンガーを見た者は死ぬ。世間でそう言われているのは知っているな?』


 ミチヒデは頷いた。だが所詮は都市伝説、御伽噺(おとぎばなし)、夏の夜を少しばかり震わせる他愛のない怪談。鵜呑(うの)みになどできなかった。アレが、ドッペルゲンガーなどと。

 何故なら、アレは化物だったからだ。自分の皮を被った、怪物だったからだ。生き写しなどでは決してない。


『バイロケーションなんてヤツもいるらしいが、アレは“第二の自分”を自ら作り出すという点でドッペルゲンガーとは異なる』


 コレは違うとミチヒデは断言できた。“第二の自分”――しかもあんな化物を自発的に生み出した覚えなどない。


『テメーに自覚がないという点から鑑みれば、テメーを殺したのはドッペルゲンガーに違いないはずだ』

『霊、じゃないのか。いるのか、そんな怪物が』

『いるよなぁ、ハナ。生物でも死物でも、ましてや霊でもない、魑魅魍魎(ちみもうりょう)悪鬼羅刹(あっきらせつ)妖怪変化(ようかいへんげ)に類する異形の存在――〈異物(いぶつ)〉ってのはな?』


 ハナは黙って俯いていた。眉間にシワを寄せ、足下を睨むように見つめていた。


『なぁ、古城ミチヒデ。この馬鹿娘があのデブの霊落を阻止するために何をしようとしていたか分かるか?』


 ばつが悪そうに一同に背を向ける彼女を窘めるためか、いや単純に意地悪したかったのか、ヒヨコは薄い唇を楽しげに弾ませた。


『私がテメーとデブにやったことと同じだよ。魂の波動を使って、デブの魂に過去の記憶を流し込もうとしたんだ。もっとも、ハナのそれは私のなんて足下にも及ばないくらいイカれてるけどな』


 左の首筋に、またあの痛みが想起された。ミチヒデだけでなく、コウジもまた、左の首筋に触れるような仕草をしていた。ヒヨコは何もしていない。おそらくあの記憶を受けた両名の魂が、痛みをフラッシュバックさせているのだ。

 ミチヒデは愕然とした。ヒヨコの記憶は、今まで――人生で受けたどの痛みよりも強烈で、死に至るのは無理もないと思えるほどの激痛を伝えていた。それなのに、ハナの死の記憶はそれ以上だとヒヨコは言った。つまり彼女もまた、誰かに殺された、あるいは苦しんで死んだということだろうか。

 ミチヒデはハナの背中に目をやった。小さな背中がわずかに震えているように見えた。しかしそんな彼女がハッと正気を戻し、(きびす)を返したのは、ヒヨコが誉れ高き天界送迎センター・ガイドにあるまじき失言をしたからだ。


『古城ミチヒデ、私はお前が求める“復讐”ってのに興味がある』

『日吉ちゃん、何を言っているの』

『先輩! まさかこの子を野放しにするつもりじゃあ!?』


 先輩後輩の制止も聞かず、『そのまさかだ』とヒヨコは笑った。

 御重永(みえなが)アサコは呆れ果ててしまって眉間を押さえた。ハナは目の色を変えてヒヨコの腕を掴み、何度も首を横に振った。


『アカン、アカンよ先輩! そんなことしたらこの子、霊になってまう! 復讐なんてもんにとり()かせたら、この子も“彼女”みたいに獄界に連れてかれてまう!!』


 誰の話をしているんだ。ミチヒデはハナの焦りに幾ばくかの不安を募らせた。


『ハナ、私はずっとお前に言いたかったことがある。お前と出逢った一〇年前のあの日から今日までずっと言う機会がなかったことだ。別に怖かったわけじゃない、お前が私の傍から離れようが、そんなことは気にも留めちゃいない。ただ、気付いてほしかったんだ、自分でさぁ』

『何の、話です……?』


 ハナは怯える瞳でヒヨコを仰ぎ見た。


『お前は異常だよ、ハナ。お前は普通じゃない、死物としてあまりに欠落している』


 ヒヨコの腕からゆっくりと離れたハナは、徐々に後退し、やがてその場に力なく座り込んでしまった。そんな彼女を見かねたのか、ミチヒデが擁護したことにはアサコはもちろんのことヒヨコも不意を突かれた思いだった。


『あの、言い過ぎじゃないですか……?』

『あん?』

『オレ、コイツがどんなヤツか、アナタほど知ってるわけじゃありませんけど、それでもコイツは命、いや魂を懸けて仕事をしているんだってことはオレにも分かります。それなのにそんな言い草、酷すぎるんじゃないんですか』


 ヤンキー女の眼光が鋭さを増した。その切れ味抜群、名刀さながらの冷徹なひと睨みに、少年は息を呑むことすら忘れてしまった。


『何だよお前、ただの構ってちゃんか』

『何ですって?』

『だってそうだろ。私はお前の肩を持ってやってるんだぞ。お前も感情を否定するコイツの物言いに嫌気が差していたんじゃねぇのか。お前、本当は復讐なんてする気ないんじゃないのか。誰かに止めてもらおうとしてるんじゃないのか。わざわざ都会の真ん中でビルの屋上から飛び降りようとしてる奴みたいに』


 脳裏にあの凄惨な笑みが去来する。鼓膜に“いただきます”の一言が蘇る。失った肉体の代わりに、魂がそれらを余すことなく記憶している。

 昨日覚えた怒りと絶望はポーズなどではない。今だって、憎しみで(はらわた)が煮えくり返っているのだから。


『そうだよ、その目だよ。殺された奴はそういう目をするのが普通だ。理不尽に命を奪われた奴はその怒りと憎しみを瞳に湛えて、心に(くら)い炎を滾らせるもんだ。だけどハナは、それをしなかった。少しもしなかった。現実から目を背けたんだ。ダチが霊落すると未練を拒む想いがいっとう強くなった。霊はイケナイもの、悪だと決めつけるようになった。そうさせたのは私が原因かもしれないが……』

『“死せずして、生を知るに及ばず”。先輩が教えてくれたんやないですか。私はその言葉どおりに、“生きたありがたみを忘れんよう”に死物を天界へ連れて行きました』

『違う。私はそんな風に教えちゃいない。答えは自分で見つけろとは言ったが、どうしてそう額面通りにしか考えられない。ガイドは何のためにある、何故存在している。よく考えたことがあるのか、ハナ』

『考えましたよ。そうとしか考えられへんやないですか』

『そんなことだからお前はコイツらのことを理解できないんだ。何でそうやってこんな場所で生き生きとしていやがる』

『せやから私は異常やって言うんですか』

『私の最大の過ちは、私がお前を送迎したことだよ、ハナ』

『そんな、ひどい……!』


 怖かったろう。でも、もう大丈夫だ。

 死んだばかりのハナは今のように座り込み、自分の腕を抱きながら身体を震わせていた。歯をガチガチと鳴らし、見開かれた目蓋は閉じることを知らず、止め処なく零れる涙は膝枕の上に落ちるや、跡形もなく消えていた。

 ヒヨコはそんな彼女に慰めの言葉をかけてやり、白いスカジャンで包んでやった。かつて肉体があった頃、そのような行為で相手に齎すものといえば、確かな温もりと、漠然とした優しさや気遣いだけだった。死人となった今では温もりを与えることができない一方、魂の波動を通じて気持ちを存分に伝えてやることができる。

 ハナは彼女の優しさを魂に刻んだ。彼女を心底から尊敬し、先を歩く女性として誇りに思ってきた。

 それなのに……。


『何でそないなこと言うんですか! 私は先輩に救われたんですよ!? それやのにその先輩が未練を肯定するようなこと言うやなんて!』

『何とでも言え。だがな、お前に妙な希望を抱かせちまったせいで未練が絶対悪だと考えるようになったんなら、それは間違いなく私の責任だ』

『せやかて未練はダメやないですかぁっ!! 霊は顕界で人を、生物を苦しめるんですよ! 殺すことやってあるんです! それは許されるはずやないのに復讐なんて未練の苗床を許すやなんて、先輩のほうがよっぽど異常やないですか!』


 そうだ。しかしハナこそが狂っている。死の直後から気が触れている。ヒヨコはそのことに一分の疑いの余地ももたなかった。

 しかし同時に、この後輩にもそれなりの信念があることを、死して尚流し続ける涙と、空間を満たすほどの魂の波動からひしひしと感じ取ることができた。

 ヒヨコは彼女から視線を外し、少年に戻した。


『ミチヒデっつったな、テメーは本当に復讐したいのか』

『したいに、決まってるでしょ』

『それはどうしてだ』

『殺されたから、全てを奪われたから復讐するんです』

『その果てに、霊になったとしてもか』


 ミチヒデは手拍子で答えられなかった。ヒヨコの真っ直ぐな視線に耐えきれず、俯いてしまった。


『どうして黙る。まさか今更、霊になって罪のない誰かを不幸にするだなんて当たり前の想像をしたんじゃないだろうな』

『お、オレは、ならない』

『なる。生への未練がある以上、お前は霊になる。お前にエゴがある限り、お前は必ず霊になる』

『だったら、エゴを捨ててやる。霊にはならないし、獄界にも行かない、人殺しなんて絶対にしない。オレはただ、あの化物――ドッペルゲンガーを、死ぬほど後悔させてやりたい、それだけだ!』

『子供の議論だな。できやしないさ』

『何とでも言え。オレの気持ちは変わらない』

『後の祭りを楽しませてもらうぞ』

『オレは泣き寝入りして後悔なんてしたくない』


 ミチヒデの肩を掴み、『二言は無いな?』と彼女は問うた。

 少しの緊張、そして瞬きの後、『あんな奴を野放しにしておくわけにはいかない』

 ヒヨコは右手首に巻いた時計を見やり、『……古城ミチヒデ、お前のリミットは三七時間だ。それまでに結果を出せ』


『先輩!』

『ハナ、前に進め。死人でもやれることがある、そう思ったからこの職に就いたんだろ』


 アサコは暴走するヒヨコに苦言を呈した。


『日吉ちゃん。言いたいことは解るけれど、アナタが彼女に課そうとしていることは明確な職務規定違反よ。死人に復讐を煽るだけでなく、部下にその手伝いまでさせるだなんて前代未聞だわ』

『外野は黙っていてくださいよ。つーかアサコさん、アンタもさっきコイツを使って違反を犯していやがったじゃないですか。何ですか、アサコさん。アンタはジャイ○ンの親戚か何かですか』


 苦虫を噛み潰したような顔をするアサコは、先の自分の浅はかさに眩暈を覚えてしまった。当時のガイドが自分とハナの二人だけ、いや他のガイドがいたとしても、それが日吉ヒヨコでさえなければ、あのような違反行為という名の慈善行為――コウジの母に美少女フィギュアを燃やすよう告げたこと――に及んだとしても黙認してくれたに違いない。

 コウジが霊落しかかったとき、一瞬でもヒヨコを歓迎したことを後悔してならない。彼女の毒牙にかかり、弱みを握られた今、自分には彼女の為そうとしていることを見過ごすほかに道はない。

 完全にお手上げ。何十年もこの仕事に従事していながら、今もって愚かで、まるで新入社員のように甘さが抜けない自分に心底落胆してしまった。

 図星を突かれて轟沈する地区長を一瞥もくれずに、ヒヨコはハナの頭を撫でた。


『コイツをサポートしてやれ。お前に足りないものも見つかるはずだ』

『納得できません』

『死人になれ。お前はまだ、死にきれちゃあいないんだ――――』




 霊安室。泣き伏せる両親の傍にミチヒデの姿はある。

 彼は母の肩に手を伸ばした。触れようとしたが空を掴むばかりで、彼らに見えない何かの存在を気付かせることはできなかった。


「親父。今日、仕事はいいのかよ」


 現実から目を背けるように固く目蓋を閉じる彼に問う。


「母さん。成績表持って帰れなかった、ゴメン」


 少女のように嘆く彼女に頭を垂れる。


「オレ、ここにいるよ。傍にいるんだ。見てくれよ、なぁ」


 何でこんなことに。

 (くずお)れる彼から、また不穏な気配が立ち込めていた。ハナはハリセンで彼の頭を後ろから軽く小突いて、「もう、行こう」と促した。

 正気に戻ったミチヒデは涙を拭い、おもむろに立ち上がった。一七年、それぞれの愛情をもって自分を育ててくれた両親に背を向け、「さようなら、またな」と搾り出した。

 そう、いつかまた会える。人は必ず死ぬのだから。

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