〔魅-mi〕① ばけもの
――――終業式が終わったので、思う存分テニスコートで汗をかきたかった。ガットを張り替えたばかりのラケットでボールを打ち、あの独特の打球感を全身で味わいたかった。
教室を飛び出した古城ミチヒデは、親友・葦原タクの背中を追いかけた。彼とは一年生のころに同じクラスだったが、二年に上がると離れてしまった。テニス部で親睦を深め、ダブルスではペアも組んでいる間柄だ。
葦原は優秀な男で、定期テストでは学年総合順位の上位に名を連ねるのは当たり前、テニスの腕も中々のものだし、何より好青年だ。義理堅く、それでいて豪放磊落、誰にでも分け隔てなく接することができる広い心の持ち主だ。
以前、他の部員と話していると、自分達の代での部長は誰だろうかという話題になり、皆が口を揃えて彼の名前を挙げていたほどだ。ミチヒデにとってはそれが友として誇らしかった。
何より羨ましかったのは、恋人がいることだ。二人いるテニス部のマネージャーの一人で、茶髪が目立つ明るい女子、樋野アスミだ。
ミチヒデはアスミに興味があるわけではなかった。ただ単純に、“恋人”という甘酸っぱい青春の香り漂う存在に憧れを覚えて止まなかったのだ。
『タク!』
廊下を駆け抜けて階段の踊り場まで達したとき、そんな彼女の声が飛んだ。
彼氏は一目見るや顔をほころばせた。鼻の下が伸びていると言ってもいいだろう。互いにゾッコンラヴといった具合で、ミチヒデとしては羨望と同時に、爆発しろ地獄へ落ちろ永久に眠って二度と起きてくるなと思ってしまうほど目に余るイチャつきぶりだった。
ミチヒデの白い目にようやく気付いたのか、二人は急に気恥ずかしそうに身なりを整えた。それでも繋いだ手は決して離さず、このまま結婚を宣言されても何ら驚かないような幸せオーラで、彼らを中心とした半径二メートルほどの空間をピンク色に歪めていた。
『ミチ、すまん』
『あぁ』
『先に行っとって』
『あぁ』
『彼女を置いて行けへん』
『あぁ、そのままそこで暮らしてろ』
『俺はもう、アカン……』
『あぁ、お前は絶望的にダメ人間だ。オレの憧れを返せ』
『なぁ、ミチ。この世界って、めっちゃ輝いてるやんなぁ』
『あぁ、お前の頭の中のお花畑は確かにキラキラしてるよ。オレの心の中も観測史上最も激しい雷雨でキラキラしてるよ』
『古城君に嫉妬されちゃったぁ~。タクぅー、怖いよぉ~』
『大丈夫やで、アスミン。たとえミチが敵になったとしても、俺がお前を守ったるから』
『タク!』
『アスミン!』
バカップルは互いに両手を広げるや、映画の感動のワンシーンのようにきつく抱きしめ合った。ちらとミチヒデのほうを窺ったが、彼の姿はすでにそこにはなかった。
葦原達が小首を傾げているころ、ミチヒデは一人階段を下りていた。彼には少々刺激が強く、また羨ましい一方で自分にはないものを大切に育んでいる彼らに嫉妬のような感情を覚えてしまっていた。
あんな風に恋人と指を絡めたり、相手と心と温もりを分け合ったり、きっと最後には愛を伝えるために唇を重ねたり、そんなことを羨ましく思わない高校生がこの世にいるだろうか。あんなものを堂々と見せつけられて毅然としていられる高校生が、どこに。
ミチヒデも健全な男子高校生だ。寝る前には異性とそのように楽しく過ごす様子を妄想して悶々とするくらいに、普通の男子だ。いつだって来宮ユウミの手に触れる感触を、自慢話に聞き入って白い歯を見せてくれる笑顔を、テニスの大会で優勝する自分に向けてくれるハート型の瞳を想像してきた。もっと恥ずかしい話をすれば、学校にテロリストが侵入してきたり、天災で危機的状況に陥ったりしたとき、自分が彼女を救い出す姿を脳裏に描き続けてきた。主役・古城ミチヒデ、ヒロイン・来宮ユウミという傍から見ればひたすらに気色悪い、フィクションにもほどがある妄想を何度も何度も。
しかし現実はそうそう上手くいくものではない。特に妄想上の自分が絵に描いた餅、もといヒーローとして肥大化していくにつれ、現実の彼女と向き合ったときに何もできないほど矮小になっていくのだ。
先程の教室での一幕なんてまさにそれだった。何故、来宮の手を取らなかったのか。何故、来宮の誘いに応じなかったのか。
失敗したな。あとで〈リンカ〉で自分からメッセージを……、そんなフランクなことを自分にできるだろうか。それに来宮が自分を好いてくれているという確信もないのに。
でもと微かに希望を覚えたのは、彼女の最後の言葉だ。もしかしてアレは、オレの夏休みの予定を聞きだそうとしていたんじゃないのか。何かのイベントごとにかこつけて、二人きりで遊びに行こうと誘っていたんじゃないだろうか。
待て待て、来宮はそんなに大胆な女だったか? 熱でもあるんじゃないのか?
ミチヒデは一つ溜め息をついた。校舎の二階、渡り廊下へ通じるガラス扉の前まで来ていた。取っ手を握り、少し重い扉を押し開いた。
生温い熱気が全身を撫でた。今の今まで遮断されていた蝉の鳴き声が一斉に耳を劈いた。
夏だ。あの、おしとやかの代名詞のような来宮の頭さえも熱暴走させる夏なのだ。
後で葦原にでも相談しようとミチヒデは思った。恥も外聞も気にしていられない、何故なら安井の言うとおり、高二の夏が青春の正念場なのだから。
ミチヒデは渡り廊下へ踏み出した。直上から照りつける日の光に殺気を覚え、右手を庇代わりにして小走りで渡った。
廊下の角張ったS字の最初の角を曲がったとき、向かいから誰かが駆けてくることに気付いた。道の真ん中を通っていたミチヒデは正面から来る相手のために左へ寄った。すると相手も同じほう――相手から見て右へと爪先を向け、一歩踏み出した。
相対距離はおそらく三メートル。ミチヒデはまだ右手の庇を額につけたままだった。すみませんなどと笑って、今度は右へ舵を切った。相手も同様の仕草でついてきた。
お見合いが二度続くことなどままある。こうした場合は自分から立ち止まるとミチヒデは決めていた。相手に道を譲る、もとい選ばせるのである。
『『どうぞ、先に』』
ミチヒデは違和感を覚えた。今、自分の声が二重に聞こえたのだ。気のせいか。思考がそちらへ傾く間も、相手はその場から動かなかった。
不思議に思い、相手の足下をしっかりと見た。この高校が採用している上履きは塩化ビニール製のサンダルで、学年で色分けがされている。相手も自分と同じ緑色だったので、すぐに同級生だと判った。
続けて黒のスラックスに視点を移した。左の膝辺りにくすんだ赤い斑点が付着していた。それには見覚えがあり、知り合いの誰かだと思った。
ベルトには驚いた。先日、テニス部の数人と梅田に買い物に行ったときに買ったばかりのベルトと同じ物を、相手も腰に巻いていたのだ。
趣味が合うヤツなのか、それとも間の悪いヤツなのか。複雑な面持ちで第二ボタンまで開けた白い半袖シャツに目を向けた。胸元から覗くのは黒いVネックのTシャツで、それも自分が今現在身に着ている物と酷似していた。
視線をさらに上へスクロールして、言葉を失った。
目の前に、古城ミチヒデがいた。瓜二つ、クローンや生き写し、そんな同位体的な何か。まさしく古城ミチヒデそのもの、その人が、唖然としている自分そのままに佇んでいた。
左肩にかけていたテニスバッグの肩紐がずれ落ち、鈍い音を立てて倒れた。ミチヒデは一つ瞬きした。相手の目蓋もそのように動いたようで、彼が何か問いたげに口を開閉していることさえも、猿真似なんて馬鹿にできない、まるで彼の思考をリアルタイムに読んでいるように全く同時に、全く同様に行なっていた。
一挙手一投足、全てが同じ。自然、ミチヒデは右手で作っていた庇も解き、一歩足を引いた。何かのドッキリか、縁のない全身鏡が立っているのか、そうした疑問を挟む余地は彼に与えられなかった。
何故なら、もう一人のミチヒデが微笑んだからだ。本物のミチヒデは半身を開いた格好で固まって動けなかった。
初めて体感する金縛り状態に両目を見開いていた。額から溢れ首筋を伝う汗は茹だるような日差しによるものか、はたまた言い知れぬ恐怖によるものかは明々白々だった。
危険だ。そう思いついた頃には遅かった。遅すぎた。
偽者はずいっと一息に距離を詰め、ミチヒデの両腕を力一杯に掴んで離さなかった。目の前に偽者の顔があったが、その表情はミチヒデが故意にできるものなどではなかった。大きく開かれた目は赤黒く血走っていて、口は耳まで大きく裂け、絶え間なく涎を垂れ流していた。
危険? いや、違う。黄色信号なんて点る間もなく赤信号がサイレンを鳴らしている。
死ぬ。殺される。
筋肉が凝り固まって立つことしかできないミチヒデは抵抗する力さえも奪われていた。哀れな彼に偽者は言った。
『いただきます』
名状しがたいほど惨たらしく残忍な笑顔でそう告げた。
偽者はミチヒデの胸元に額をつけた。ぐりぐりと捩じ込むように押しつけた。ミチヒデはそれを瞳だけを下に向けて眺めていた。途端、偽者の頭がミチヒデの細い身体にめり込んだ。
しかしミチヒデは吐血などしなかった。胸元を見ても皮膚を貫かれたわけではないようだった。では何だというのだろう。偽者の首から先は、どうなっているのだろう。全身に迸るこの不快感は、一体なんだというのだ。
次第にミチヒデの意識は乱れていった。混濁し、前後不覚になった。
最中、脳裏にイメージが流れ込んできた。体内に頭を突っ込む偽者が見ているらしい光景がサブリミナル効果を齎すような一瞬の静止画として、一定のリズムで挿入されてきた。
白く輝く光の帯を見つめ、剥き出しの牙でそっと触れた。少し弾かれたが、接触できたことを確認したらしく、次には飢えた獣のようにその光を貪った。食い千切り、啜り、咀嚼して、堪能していた。その度に無数の粒子がふわりと浮き上がって、ミチヒデの意識は薄れていった。光が消えるまで、偽者は、化物は、食事を続けた。
最期に視神経を刺激したのは、絵の具を零したようにのっぺりとした空の色だった――――。