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ドッペル!  作者: 吹岡龍
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〔除幕‐jomaku〕①

 友に捧ぐ。



 吹岡龍(旧名T・F)

 高校生活の只中。

 担任の安井ツトム先生が教壇に立ち、明日からの注意事項について説明している。

 この学校、このクラスも例に漏れず、節電、地球温暖化防止、人体の健康維持、古びた法による制限、諸説から定められた冷房の設定温度――二八度を守っている。それでも窓から差し込む陽光は厳しく、若く代謝の良い生徒らの額や首筋に汗を滲ませていた。

 ある意味、彼らにとって今日は特別な日だ。先日あった前期第二中間考査の結果が出揃ってしばらく経ち、今し方それにともなう成績表が手渡された。努力が報われた者、泣きを見た者、放心する者、現実から目を背ける者が机の数だけ座っている。

 古城(ふるき)ミチヒデはいずれかと言えば報われた部類だ。親に尻を叩かれて仕方なく励んだことで、思いのほか良い成績を残すことができていた。それでも上の下がいいところで、苦手科目ともなると赤点ギリギリだった。

 窓際の机に頬杖(ほおづえ)をつき、空を眺めた。遠くに入道雲が浮かぶ、実に夏らしく澄みきった青が広がっている。視線を落とすと広いグラウンドがあり、あと小一時間もしないうちにその面積の半分をサッカー部が、半分を野球部が占拠することになる。もしかすると端ではハンドボール部も他の部活動部員と同じように息を切らしているかもしれない。

 左に見えるグラウンドから視線を転じると、左後方――北の雛壇(ひなだん)状の階段を上がった先に高いフェンスが見える。日々の雨風で剥げた、薄緑のその隔たりの奥には、ミチヒデにとっての天国(ユートピア)が存在している。

 彼の担任で、体育教師、そして生徒指導顧問も務める厳めしい中年男がニュートラルな関西弁で告げた。ここは大阪府にある普通科の府立高校である。


「――せやからな、頼むからアホな真似はすんなよ。楽しむんはエエ、思い出を残すんも結構。ただし、あくまで未成年、学生として健全に、そして勉強も忘れんなよ」


 安井教諭は嫌な笑みを浮かべた。生徒一同四〇名の顔が引きつるが、各々の視線はすぐに黒板の右上にかけられた時計に向けられた。

 あと一分。皆が生唾を飲み下す。中には腰を浮かしている者までいる。バカの田山ソウスケだ。ミチヒデの気のいい友人の一人で、考えよりも先に行動で示すタイプだ。だから今の欲求が正直に表れ、それが安井の目にも留まっている。


「どうした田山、(なん)か発表したいことでもあるんか?」

「えぇっ、ないッス、ないッス!」

「ええんやで、遠慮せんでも。もしかしてアレか、夏休みの抱負か? みんな悪いなぁ、ちょっとだけ田山の話に付き合ってくれや」

「えぇっ、ないッス、ないッスよぉ!」


 担任のイジワルに苛立(いらだ)つ生徒らだったが、その矛先は田山に向けられた。それを知って田山は涙目になった。

 あと三〇秒。安井が手招きする。仕方なく田山は起立し、教壇まで足を運んだ。安井は彼に教卓を譲るが、彼はそこには立たず、安井に対して深々と(こうべ)を垂れた。「先生っ、サーセンっしたぁっ!」と大声で告げる田山は野球部だ。頭はすこぶる悪いが、礼儀の面ではしっかりと教育されてきている。


「これからはしっかり先生の話聞きますっ! せやから、俺達に夏休みをくださいっ! おなしゃッス!!」


 残り五秒。いよいよミチヒデも平静を装えなくなっていた。汗ばんだ右手にはテニスバッグの肩紐が握られていて、田山ほどではないにしても足腰はほとんど力んで、すぐにでもスタートダッシュを切れる姿勢に入っていた。

 安井が動いた。と同時にチャイムが鳴った。しかしこのクラス二年二組の生徒達は、ここ数ヶ月の間に生徒指導の彼にすっかり(しつ)けられていて、彼の許可――“以上や”、という言葉なしで教室から出ようものなら、そんな己の無分別を自戒する反省文を一〇枚書いても足らないことをよく知っている。今のご時勢、これが世間に漏れればどこからどんなモンスターが殴りこんでくるかは分からないが、生徒としてみれば安井の側に立ってしまうのだ。それはきっと、己を律することの大切さを教わったからに違いない。

 だからチャイムが鳴る中、安井がその大きな身体で田山を包み込む間も、ミチヒデ達生徒一同はその行く末を、ヤマタノオロチのもとへ生贄(いけにえ)を差し出す民衆のような心境でただただ見守ることしかできなかった。

 (せき)を切ったように聞こえる談笑と足音から、周囲のクラスから生徒達が解放されたのが判る。人の気も知らないでそれぞれに部活動か、帰路に着こうとしているだ。ミチヒデも早くその一人に混じって、コートでサーブ練習をしたいと思っていた。

 先週の練習では、全日本選手権出場経験がある顧問の先生相手にサービスエースを決めて褒められ、武器として伸ばすべきだと助言されたのだ。それだというのに、今ではご馳走を前にお預けを食らっているイヌの気分だ。余計に田山が憎たらしく思えてきた。


「お前の気持ちはよぉ分かった。お前ら、行け! 高二の夏は一度きりや! 遊べっ、走れっ、学べっ、青春を謳歌(おうか)しろ!! そんで元気な顔で、二学期に会おう! 以上や!!」


 ついに許可が出た。


「きりっつっ、きょおつけっ、れいっ!!」


 大蛇(オロチ)、もとい安井が顧問を務めるバスケットボール部員であり、このクラスの委員長である村木レンが声を高らかに張り上げた。

 まず先陣を切ったのはクシナダヒメのようには救われなかった田山と同じ野球部の厚木トオルだった。彼は安井に抱擁という名のベアハッグ、さらにはコブラツイストまで受ける田山を捨て置き、次々に廊下を駆けていく同胞達と合流、ハイタッチを交わすやグラウンドへ向かった。「この人でなしぃ!」という田山の断末魔の叫びが虚しく響いていた。

 続き、村木達バスケットボール部、サッカー部が教室を飛び出すと、寸秒遅れてテニス部員のミチヒデも椅子から立ち上がり、一歩踏み出した。しかしそこで机の足に右の爪先が引っかかり、あわや隣の席に頭をぶつけそうになった。


「だ、大丈夫!? 古城君!」


 声を上げたのは真後ろの席の来宮(きのみや)ユウミだ。ミチヒデと同じ中学校の出身で、今時珍しく裏表も打算もないたおやかな性格の女生徒である。

 彼女は耳もとの長い髪を小指でかき上げながら、彼と同じように膝をついた。手を差し伸べ、「立てる?」周りの男女と同じ関西弁で、京都のそれでもなく、ここ大阪の方言ではあったが、彼女の言葉遣い、あるいは息遣いはとても気品に満ちていた。

 その様子を、同級生やその担任が、青春だなぁとほくそ笑んだ。初心(うぶ)なミチヒデは平静を装い、彼女の手ではなく隣席の机の天板を借りて立ち上がった。


「へ、平気だから」

「アカンで、気ぃつけな。これから夏休みやねんから」

「そうだよな、はは」

「それで、さ。その、せっかくの夏休みやから、今度、どこかに――」

「ミチ!」


 俯きがちに頬を赤らめながら、来宮は何かを言おうとしていた。彼女の頼りない声を、開け放たれた教室のドアから飛来した男の声が塗り潰してしまった。声の主はミチヒデと同じくテニスバッグを担いだ、彼女も知る隣のクラスの男子生徒だった。

「空気読めや!」と安井先生を含めたクラス一同が彼にツッコんだ。予期せぬ顰蹙(ひんしゅく)を買った彼は腰を引かせると、すんませんと条件反射的に謝り、すぐにミチヒデに告げた。


「何しとんねん、はよコート行こ! みんなに取られてまうで!」

「あ、あぁ! じゃ、じゃあな来宮!」


 ミチヒデは彼女に軽く手を振ると、先生にも会釈し、素早く机の間隙を縫って教室を出た。取り残された来宮のそばに、三人の友人が集まった。


「キノ、惜しかったなぁ」

「あの男子、マジで空気読めって感じ。誰、アイツ」

「四組の葦原(あしわら)くんやろ、めっちゃ頭エエねんで」

「知らんわ、そんなもん」

「結構有名やで、イケメンやし。まぁナミは知らんで当然か、だって頭わる……」


 宗田(そうだ)ナミと宇治原(うじはら)リエが取っ組み合いを始めるが、それは来宮の気分を和ませるためだった。しかし当の彼女の心はここに在らず、椅子に座ると深い溜め息をついて足もとを見つめていた。その視線は自然と自分の机、そしてその前方のミチヒデの席に注がれた。


「夏はまだこれからやで、ユウちゃん。今日の夜、〈リンカ〉でもしてみたら?」


 友人の一人岡田ハルコが、おっとりとした口調で助言する。〈リンカ〉とは、正式名称〈リンク・アプリケーション〉というスマートフォンまたはPC用のインスタントメッセンジャー型アプリケーションである。一つのウィンドウ上で短い会話をリアルタイムに連続して表示でき、それを複数人(グループ)で行なうこともできるというものだ。

 来宮はおもむろにスマートフォンを取り出して、その〈リンカ〉を起動させた。イメージキャラクターの〈リンカちゃん〉がウィンクすると、来宮の個人情報ページを表示した。

 内向的がゆえに口下手な彼女は、どんな文面を使えばいいのか分からなかった。何か共通の話題でもあればいいのだが、ミチヒデの興味を惹かせられる話題すらなかった。


「あ、そろそろ見えるんちゃう?」


 勝気な性格のナミが、教室左後方に小さく見える渡り廊下を指差した。一同がそこに注目し、来宮にいたっては誰よりも前で立ち上がって、窓ガラスに張りついて眺めた。

 近年(まれ)に見る真夏日である今日、冷房の効いた部屋と外気との温度差は摂氏一〇度近くあるはずで、屋根のない吹きさらしの渡り廊下に躍り出たミチヒデはきっと炎天下の日差しに眩暈を覚えたことだろう。強い太陽光を右手で遮っているのがいい証拠だ。

 熱中症にならんかったらええけど。来宮がぼんやりとそんなことを思いついた矢先、ミチヒデの動きが止まった。何やら向かいから来た生徒と話しているようだった。

 渡り廊下は角ばったS字になっている。それは校舎と図書室をつなぐもので、二階にある。図書室前の通路を北に向かうと木々とフェンスに囲まれたテニスコートがある。ミチヒデは渡り廊下のちょうど真ん中の辺りで、誰かと鉢合わせていた。


「ホンマ、男子って」


 ナミが失笑する。分からなくもない、男子生徒のやることは女子生徒には理解困難なものが多い。彼らは突然意味不明な言動を起こしては、面白そうに笑い合っているのだ。

 今もそう、ミチヒデの懐に男子生徒が顔を突っ込んで、じゃれ合っているように見える。男子の間では、それがきっと楽しいことなのだ。

 だが、来宮は違うと咄嗟に思った。頭の先から爪の先まで、名状しがたい悪寒が駆け巡った。気付いた頃には衝動が彼女を突き動かしていた。数々の活発な男子生徒達と同様に教室を飛び出し、友人達の驚きの声を背に、渡り廊下のある北に向かって走った。

 女子が全速力で廊下を駆ける。その様子はとても奇抜で、それがこと来宮ユウミとなれば皆何事かと振り向くのも必然だった。彼女はそこそこの有名人なのだ。学内の美人、あるいはカワイイ女子の名を五人挙げよとなったとき、男女ともから彼女の名前が挙げられる。いわゆる、万人から愛されるマスコットキャラクターのような存在である。

 そんなマスコットキャラクターが今、廊下の北端まで到達し、階段の踊り場に踏み入った。そこではミチヒデとともにコートへ向かったはずの葦原タクの姿があった。彼はテニス部の女子マネージャーと談笑していた。二人が付き合っていることは、ミチヒデから秘かに聞いていた。


「どうしたん、来宮さん?」


 来宮と目が合うや、葦原は彼女を呼び止めた。


「え、っと、その、分かんないの!」

「ぷはっ、何それ、チョーうける!」


 葦原の恋人(ステディ)が腹を抱えて吹き出す。おいと彼女を(たしな)めつつ、来宮の稀に見る剣幕に彼は真面目な顔で問うた。


「何かあったん?」

「急いで、ついてきて!」


 来宮はそう言って階段を駆け下りた。葦原は傍らに置いていたテニスバッグも忘れて彼女を追いかけた。

 四階から二階まで一息に下り、廊下の突き当たりのガラス扉を押し開けた。()せ返るような熱気が彼女らの足下から立ちこめて、二人の髪の毛を舞い上がらせた。朝の天気予報から覚悟はしていたが、直上から注がれる日の光の強さはまさに殺人的だった。

 渡り廊下には人の姿がないようだった。それがくだらない希望的観測だと思い知ったのは、S字の最初の角を曲がってからだった。

 人が、倒れていた。古城ミチヒデが、うつ伏せに倒れていた。

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