marine*snow
『溶けない雪があるって、知ってる?』
すっかり暗くなった田んぼの一本道を、一人で黙々と歩く静香の脳裏に、そんな声が蘇った。きっと、先程から舞い始めた粉雪のせいだと思う。それらは、静香が履いている黒い皮靴や制服のプリーツスカートに吸いついて、音もなく消えていく。それを見ながら、緩み始めていたマフラーを巻き直し、傘の代わりにフードをかぶった。高校三年生の、一番大切な時期に体を冷やしてはいけない。
空中に向かって、はぁっと息を吐いた。白い綿のような湯気が、溶けて消える。吸う息が冷たい。
静香には、どうしてもその手で掴みたい夢があった。それは、国立の難関大学への進学。そこへ入って、海洋生物学への道に進みたい。
その夢へのきっかけとなったのが、「溶けない雪」の話だ。小学校五年生の夏休み、ちょうど盆の時期だったろうか。窓辺に張られたニガウリのグリーンカーテン、そこから洩れる夏の日差し、作りかけの自由工作と絵具の匂い。全てを鮮明に記憶している。
『溶けない雪?そんなのがあるの?』
静香は、机の隅に転がっていたうさぎの消しゴムをいじりながら答えた。
『そう思うだろ?でも、本当に溶けないんだ。マリンスノーって言ってさ、海の底に降る雪だよ。』
当時大学院生だった従兄の正彦は、得意げな顔で言った。算数が苦手だった静香のところへ、宿題のドリルを教えに来てくれたのだ。彼は小さい頃から頭が良くて、有名大学で一番の成績だった。親戚なのに、どうしてこんなに出来が違うのか、いつも不思議だった。
「マリンスノー…。」
静香が白い息を吐きながらそう呟いた時、道の右側に広がる田の向こうに、青い光が点滅しているのが見えた。ぎょっとしたけれど、目を凝らせば、青色灯つけた防犯車両が、のろのろと国道を走っているだけだった。
(早く帰ろう…。)
この道は、昔から明かりが少ない。街灯は、この長い道を歩き切った先に、たった一つあるだけだ。それを過ぎると踏み切りがあるけれど、電車が通るのは1時間に一回程度。静香はうっすらとした気味悪さを隠そうと、再び夏の日の記憶を手繰り寄せる。
『海の中に雪が降るの?雪って空の上で水滴が冷えて、それが凍って…。』
静香は小学校で習った知識を、得意になって正彦に話した。今思えば、雪が出来る仕組みなんて大した知識じゃない。でも当時は、大人と難しい話をしている気がして嬉しかった。彼もまた、静香の話を最後まで黙って聞き、そして誉めてくれた。妹のように可愛がっていた従兄の少女を喜ばせるために。
『よく理解してるな、すごいじゃないか。ちゃんと理科を勉強してるんだな。でも、マリンスノーの正体は、実は雪じゃない。プランクトンの死骸なんだよ。』
その説明に、静香はまた食いついた。
『プランクトンて知ってる。水の中にいる、すごく小さな生き物だよね。』
『そうそう、その通り。』
正彦はまた大きく頷いた。その知識は、どこで得たものだっただろう。学校で習ったのか、それとも本で読んだのか、思い出せない。
『マリンスノーは白くて小さいんだ。それが海の底にゆっくり落ちて行く様子が、雪そっくりなんだよ。名付け親は日本人。雪国出身の学者さんだ。』
静香は、そこで夜空を見上げてみる。先ほどチラつき始めたばかりと思っていたのに、その量は明らかに増えている。この分だと、明日の朝には積もるだろう。白くて小さいものが、暗くて寒い海に降りつもる…その様子はきっと、今静香が見ている風景と似ているのだろう。
『俺はね、静香。』
母がおやつに出してくれた麦茶と果物ゼリーを食べながら、正彦が言った。
『そのマリンスノーを、この目でどうしても見てみたいんだよ。』
『え?だって、それって…海の底に行かなきゃ見られないんでしょ。』
『だから、今一生懸命勉強しているんだろ。潜水艇に乗って海の底へ行くには、数学や理科や英語、化学のことを一生懸命勉強して、海の研究員にならないと…。』
小学校の算数で手一杯だった自分にとって、その話は想像しきれないものであり、遠い世界のことだった。でも、その時静香は強く強く、惹かれたのだ。自分の夢にまっすぐに生きている、正彦の表情に。
カンカンカン…。
遠くの方で、突然乾いた音がした。顔を上げると、街灯の向こうで踏切の信号機が点滅している。その丸い光が残像となって、静香の目の中に赤く残った。それはまるで、深海を漂う奇妙なタコのようだった。瞬きを繰り返すうちに視界をさまよい、輪郭が闇に溶け、やがて拡散し、消えてしまった。そのうちに、誰も乗っていない回送電車が、夜闇を切り裂くようにして走り去る。
「あれ…?」
その時、ようやくあることに気が付いた。もう随分とこの道を歩いてきたはずなのに、ちっとも街灯に近づいていない気がする。
(そんな、まさか…。)
静香は首をかしげつつ、一層歩みを速めた。早く、帰らなければ風邪をひく。上半身はコートを着ているが、プリーツスカートとハイソックスの間には素肌が露出していて、寒い。校則では冬場に黒いタイツを履くことを許されているけれど、みんな履かない。これは女子高生の意地だ。
正彦が、念願叶って国の海洋研究機関に採用されたのは、静香が中学に上がった頃のことだった。それを機に、正彦が静香の勉強を見る回数は、大幅に減った。本人の仕事が忙しくなったことや、静香がテニス部の練習に夢中だったことがその理由だ。そして静香が中学三年に上がった初夏、とうとう彼の深海探査艇への搭乗が決まった。
静香は自分の足元だけを見つめて、どんどん歩く。しばらくすると、道は一層白くなり、革靴の底が埋まるほど積もってきた。その時、目の端に何かが映り込む。顔を上げると、田園のあぜ道を、縫うように白い光が移動していくのが見えた。糸のような、触手のような、白い残像を残しながら…。
(何なの?自転車?)
目を凝らしても、通り過ぎて行く光の正体は分からなかった。仕方なくそのまま正面に向き直ったところで、綾香は思わず大きな声を上げた。
「え、なんで!?」
やはり、自分と街灯との距離が、全く縮んでいない。どうして、こんなに長く歩いているのに前に進まないの?それとも、夜の雪道が時間や距離の感覚を鈍らせている?試しに後ろを振り返ると、道の入り口はずっと遠くにあった。静香の感じている時間と距離の感覚は正確だ。
「じゃあ、どうして…。」
再び、道の先にある街灯に目を向ける。すると、そのスポットライトに似た光の中に、いつの間にか見覚えのある後ろ姿があった。
「うそ…。」
正彦を含む研究員数名を乗せた潜水艇は、深度200mまで潜ったきり、二度と浮上することはなかった。船体に何らかの欠陥があったとか、操作ミスだとか、いろいろ騒がれたように思う。しかし静香の頭は真っ白で、何の情報も入って来なかった。潜水艇は残骸として引き上げられ、収容された遺体の中に正彦の姿はなかった…。
静香はその後、周囲を取り巻く事故の騒ぎが落ち着くと、志望校の変更を申し出た。それも、中レベルだった高校から、一番偏差値が高い進学校へ。両親も先生友人も、みんな止めた。でも、静香は聞き入れなかった。
私が、彼の代わりにマリンスノーを見に行く。絶対に…。
翌年の春、体を壊すほどの勉強と努力の末、その高校に合格した。
「………。」
静香は、その場からぴくりとも動けなかった。光の中にいる人物は、着ている服も髪形も、その背格好も…どれをとっても間違いなく、静香の知っている正彦だった。彼は何も言わず、振り返ることもなかった。しかし静香には、彼が何を伝えに来たのか痛いほどよくわかった。
頑張れ、静香。
そして、俺に会いにこい。
のどから何かがこみ上げてきて、口や鼻を詰まらせた。それはやがて瞳から溢れ、冷えて乾いた頬を濡らした。静香はその背中に触れたい衝動に襲われ、再び歩き始める。今度は確実に街灯の光が近づいてくる。しかし、やっとその場所に辿り着いた時、そこにはもう、誰の姿もなかった。静香は正彦の代わりに、その光の中に入って立つ。膝に手をついて、体をくの字に曲げる。流れてくる涙が、音もなく落ちて 雪に吸い込まれる。
白く、儚く、美しいマリンスノー。
彼は今、それが止むことなく降り続ける場所にいるのだろう。赤く漂うタコや、白く発光しながら糸を引くクラゲたちに囲まれて。
必ず行く。会いに行く。そして伝えるんだ。私に夢をくれてありがとうって。
静香は、光りの中から一歩前に出た。涙を拭きながら踏切を渡る。一歩一歩、確実に前に進む。
その足取りは、とても力強かった。