三崎小春の長い一日 後
はあはあ、と息を切らして小春が戻ったものだから、柏木がちょっと驚いたような顔をして小春を見た。
「どうしたんだよ。廊下は走るなって教わらなかった?」
「どうしたもこうしたも……」
言いかけて小春は止まる。いやいやこんな秘め事的な事、言いふらしてどうすんだ。いや更に言うならば、戻ってきてどうするんだ。あそこは毅然とした態度で翔人を止めるべきだったんじゃないだろうか。病人相手に何してるんですか! と。
戻って止めてこようかどうしようかと迷う小春の様子をしばらく眺めてから柏木は興味なさそうに自分のポトフを一口すすった。
「何? 翔人さんキスでもしてた?」
「!!」
小春が大きく目を見開いたら、柏木もちょっと驚いた顔をした。
「マジかよ。冗談で言ってみただけなのに。……まさか翔人さんにそんな甲斐性があったとは」
「ちょっとふざけてないでよ! どうしよう。戻って止めてきた方がいかな……?」
「止めるって何を……ああ。大丈夫だよ。翔人さんにキス以上までする度胸ないって」
「ちょっと柏木君もし今の翔人さんに聞かれてたら肉切り包丁で内臓捌かれるよ」
「グロイ言い方すんな。そういう意味じゃなくてさ。俺だってきっと本当に好きな相手にはさ、意識ないのにイロイロできたりする度胸ないもん」
「へえ……。って、うん? 翔人さんってもしかして」
「うん。茉莉香さんのこと好きだと思うよ? 直接本人には聞いたりしたこと無いけど、結構ずっと一緒に働いてるしね、分かるよ」
「えー。気づいてなかった」
「三崎、そういうの鈍そうだから」
「いや。そうでもないけどさー」
(というか、素では私の事呼び捨てなのね……)
仕事中は忙しすぎて考えが及ばなかったけれど、改めてそう気づく。
「いやまあ茉莉香さんは美人だし優しいし可愛いし、もてない方がおかしいからいいんだけどさ……意識ない相手にあれってどうよ、っていう」
「熱で理性ふっとんだんじゃねえ? ……ったくそんなに心配かよ。しょうがねえなあ」
柏木は面倒くさそうに立ち上がって休憩室の方に歩き出す。なんとなく、小春もぱたぱたと後から従った。
休憩室に行くまでに、柏木はどすどすとわざとらしいくらい大きな音を立てて歩いて、がちゃと激しくドアを開けた。
「翔人さーん。夕飯できましたけど、どうします?」
いつもの猫かぶりの柏木の声だ。
「……食う。花咲さんの分も持ってきてくれ」
「分かりました。後で三崎さんに持ってきてもらいます」
がちゃりとドアをまた閉めて、柏木は小春を振り返る。
「大丈夫だ。茉莉香さんに着衣の乱れはない」
「……バカっ」
「馬鹿とはなんだ。お前があまりにも心配そうだから、安心させてやったのに。じゃあ、メシの配膳よろしくなー」
「えー。気まずい」
「見なかった事にしてやれって。お前結構そういうの得意だろ?」
「そういうのって?」
「猫かぶりでポーカーフェイス。内心隠してへらへら笑うの」
「……苦手とは言わないけどね。さすがに同類にはわかるんだね」
「お前なんかと一緒にすんな」
それはこっちの台詞だと心の中で舌を出して、小春は大人しく配膳係を引き受けた。
レストランの後片付けを手伝って、そのまま裏口から花屋に戻り、暗い屋内に電気をつける。大慌てで出て行ったから、雑然としている。はあ、と大きく疲れの混じったため息をついて、小春はよいしょと棚等の片付けにとりかかる。いつもは茉莉香と二人でやるから感じなかったけれど、結構大儀なものだ。特に、日中の重労働でくたくたになった今は。
(ああでも、柏木君のまかない美味しかったなあ。紺ちゃんのも美味しいけど。こんどランチタイムお客として行ってみようかな。あ、でもあの柏木ファンのお姉さまたちは恐いなあ。夜に行くお金ないし)
疲れすぎてくだらない事しか考えられない。そんなくだらない事をつらつらと考えながらの作業中、ふと顔を上げたら人影が目の前にあったので、驚いて動きが硬直する。悲鳴が出ないほど驚いた。時間も時間だし。だけど、すぐに人影が見慣れたものだと気づく。
「なんだあ。柏木君かあ。びっくりさせないでよ」
「びっくりは俺のほうだ。茉莉香さんと翔人さんと店長送って戻ってきたら店に明かりついてるから何事かと」
「あ。そっか。車で送ってきてくれたのか。お疲れ様」
「それについては店長から後々給料に色をつけてもらうとして」
(意外にセコイ! 金持ちの息子のくせに)
「何? 片付け?」
「そー。誰かさんが片付けさせてくれなかったからー」
「そりゃあすいませんねえ」
言って、柏木は店の中に入ってくる。
「何? この棚畳めばいいの?」
「へ!? 手伝ってくれるの?」
「当たり前だろ。お前はうちの店手伝って遅くなってんだから」
(へえ……猫被ってなくても、一応紳士は紳士なんだ)
などと、変なところで感心する。
「ありがと。うん。その棚畳んでくれる?」
「おう」
さすがに柏木は手際がいい。手伝ってもらったら見る間に店の中は片付いて行った。
「意外に花屋って重労働だな」
「でしょー」
裏口は内側から鍵を閉めて、自分たちは表から出て、鍵を閉める。
「あ。これ忘れてた」
ドアに貼った、自分作「本日11時までです」の画用紙もはがす。
「なんだそれ。そんなの都合よくあったんだ?」
「あったって言うか、描いたんだよ」
「三崎が?」
「なにその意外そうな顔。上手いでしょ? これでも私、実は美大生ですから」
「……初めて知った。それ、捨てんの?」
聞かれたのは小春がくるくるとそれをコンパクトに巻き始めたからだろう。
「うん」
「じゃあ俺が捨てといてやるよ」
「え。なんで。……もしかして柏木君、ファンシー好き? 心の中は実は乙女?」
この前の花束も、気を使われてもらってくれたと思ってたけど、案外本気で……?
思ったら「んなわけあるか」と頭を小突かれた。
「まあ、欲しいって言うならあげるけど」
「俺、捨てるって言わなかったっけ?」
小春が差し出したのを受取りながら、柏木は呆れた顔をする。
「で? お前の家どこだ?」
「ストーキング?」
「なんて自意識過剰な」
「……送ってくれるの?」
「察しが良い事で」
「でも私、自転車だよ?」
「ひいて歩けよ」
なんというか。
ところどころ、猫被っていなくても紳士な面は見え隠れするので感心してしまう。別にあんな風に猫被ってなくても普通にもてそうなのに。そう考えて、小春はふと気になる。
「柏木君って彼女いないの?」
「ごめん俺ぺッタンこな女の子はちょっと……」
「私じゃねーよ」
というか失礼な! どこが、とは敢えて言ってないけれどこれは……。
まあ、否定できないから反撃しても更に辛い目を見そうな気がしてさらっと流す。
「昼間、散々柏木君はみんなのものって聞かされたから、柏木君に彼女いたらその子今頃ミンチだなって思って」
「お前、ちょいちょい言葉にグロイワードが入るね」
「おっと失礼」
「思ってねーだろ」
「で、どうなのさ?」
「なんでお前なんかとこういう話しなきゃいけないんだよ」
「いるんだね?」
「残念ながら」
「うっそ。モテそうなのに。モテすぎて周りが逆に引いちゃうタイプ?」
「っていうか、何人と付き合っても、結局好きな人じゃないと満たされないって分かったから」
「……何その百戦錬磨の果てに辿り着いた結論的な発言」
「まあまあご想像の通り」
「結構な事で。……でも意外。じゃあ、柏木君、本気で好きな人がいるんだね」
「まあな」
「その人とは付き合わないの? 柏木君、優良物件だから高確率で付き合えそうなのに」
「人を不動産資産のように。……付き合えないよ。その人、すごく好きな人いるから」
「へー」
意外な気持ちで隣を歩く柏木の顔を見上げる。背の高い柏木の表情は下から見上げるだけじゃいまいちよく分からない。暗い夜道で、照らすものはところどころにある街頭の不必要に眩い明かりか月明かりのみだし。
(この人は、なんでも世の中思い通りに行ってるかと思ったのに)
柏木でも、どうにもならない事はあるらしい。
「切ないっすね」
「そうですね。やる気のないフォローありがとう」
「いやでも、他に好きな人いても柏木君がアタックすれば案外振り向いてくれるかもよ? 何しろ柏木君だし。あ、いつもの猫かぶりはやめてみるとか」
「は? 何でだよ」
「え? だって。人の好みにもよるかもだけど、私はいつもの王子様的柏木君ちょっと、結構かなり苦手だもん。胡散臭くて。猫かぶりで落とせない人は案外好みが違うかもだから、地で行っちゃった方が、とか」
「はあ!? お前、言うに事欠いて胡散臭いとか。この俺の完璧な演技を」
「いやいや、私は今の方がいいと思うよ?」
言ったら、肘で頭を小突かれた。
「お前の好みは奇特だ馬鹿者」
「えー。誉めたのに暴力ふるわれるし」
小春の非難に柏木は、はっと鼻で笑う。
(か、感じ悪ぅ~)
言った先から前言撤回したくなった。それでも、結局柏木は家の目の前まで送ってくれたのだけど……。