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[Arrange] Citrus Heart

Happy valentine !

 静かな店内、どこか必死の面持ちの女子大生を前に彼女は首を傾げる。 マスターは植物園にハーブの注文に出かけているし、他にお客さんもいない寒い日の午後。 カウンター定位置で自分用のマグを片手にのんびりおしゃべりしていたら急に、だった。 かなり煮詰まってるわねー、と小さく笑って。


「・・・一週間。 ここじゃないけれど、三十分でいいから明日から毎朝、通える? もちろん、彼にもマスターにも内緒、よ?」


 あまりの必死さに提案してみた。 子犬のような視線を向けてくるこのお嬢さんにちょっとだけ手を貸してもいいかな、と思ったから。


「通います」


 即決きっぱりの返答にもう一度笑って。


「OK。 そうしたらね・・・」


 さらさら、と簡単な地図を描いて説明とともに渡す。 女だけの秘密プロジェクトの始まり、だった。




「珍しいですね、あなたがこの時間に来たがるなんて」


 朝の冷たい空気の中、店の鍵を開けながらマスターが穏やかに笑う。 いつもなら彼がエアコンを入れたり湯を沸かしたりの作業を終わる頃に来て開店準備を手伝うのだが、今日は少々早起きしていっしょに来たのだ。


「今日は特別なのよ。 さくっと準備しちゃいましょ」


 さらりと流して先に中へ入り、キッチン直行。 後ろからまだ寒いですよ、と慌てるマスターの声が聞こえてくるのには小さく笑うだけでしんとしたキッチンの片隅に隠すように持ってきた包みを置く。 それからこれ見よがしに抱えていた小さな花束をカウンターに置いて。 そこまでやったところで低い機械音がしてエアコンの入る音が響く。 給湯器と連動だからこれがつかないと掃除にお湯も使えない。 くすくす笑いながらまだ冷たい水で雑巾を絞って、マスターがやってくるのと入れ違いに客席の掃除。 いつも以上のスピードで動き回るのを追ってくる不思議そうな視線には敢えて気づかない振りでてきぱきといつもの仕事を片付ける。

 そう、今日は特別なのだ。 いつも店に着く時間には朝の仕事は全部終わっていなければならない。 その時間には一大イベントが始まるんだもの、と考えながら笑って花を小さな一輪挿しに活けてはテーブルへと置いていく。 説明は、なし。 びっくりさせてこそ、だから。

 そしてテーブルセッティングが終わり、キッチンではお湯が沸く頃。 開店時間よりも一時間早く準備の整った店の外から微妙に賑やかな声にあらあら、と笑って扉へと向かう。


「おいっ! まだ開店前じゃないか、やっぱりぃっ!」

「いいのっ! 今日は特別なのっ!」


 近所迷惑でない程度、扉を通して辛うじて聞こえるくらいの若い声二つにおや、とマスターが首を傾げるのを視界の端に映しながら扉を開ける。 からん、と鳴ったプレートはもちろん、『準備中』のまま。


「おはよう。 時間どおりね?」

「おはようございます! よろしくお願いします!」

「お、おはようございます、すみません、開店前・・・って、え?」


 どこか緊張した面持ちの女子大生と、その彼女に引っ張られる青年は店の常連さん。 近くの大学に通う大学生で同じゼミに所属し、ちょっとした行き違いの後、この店で気持ちが通じ合った、普段はこんな時間に現れるはずもない二人組み。 もっとも彼女のほうはここ一週間、毎朝会っていたけれど、と胸の中でだけつぶやいてにっこりと笑みかける。


「どうぞ。 私が開店前に、って指定したのよ。 お入りください?」


 そう言って二人を招き入れ、自分も中に戻ったところでおもしろそうに笑っているマスターと目が合った。


「なにか秘密のイベントですね? 私も混ぜていただけるんでしょうか?」


 思わず、首をすくめて小さく舌を出す。 あら、ばれちゃった、が正直なところ。 でもメインイベントはきっとまだ想像の段階のはず、とことさら艶やかに笑みかけて。


「もちろん? 主賓の一人だもの」


 ねー、とまだ緊張の残る彼女とわざとらしくうなづきあって男二人をテーブル席に座らせる。 そして。


「ということで、今から開店までの時間、キッチンジャックさせていただきます」


 厳かに宣言して彼女をキッチンへと追いやって。 慌ててあたふたしている青年をマスターがまぁまぁ、こうなるとあの人は絶対に譲りませんからおとなしく待ちましょう、などとなだめているのを背中で聞き流してキッチンへ。 どうやらなにが起こるのか、うすうす感づかれてるわねー、とちょっとため息などついてから気合を入れる。 ここからが彼女たちの正念場。

 ソーサーを出して銀色の細いスプーンをセット。 カップはお湯で暖めて。 今日だけは紅茶は彼女でもマスターでもなく、緊張の面持ちでスプーンを握る女子大生の分担。 暖めたポットに入れる茶葉の量を横で見ながら、来た時に隠し置いてあった包みからガラスビンを取り出して。 彼女が持ってきた同じようなビンと並べて置く。


「これでいいですか?」

「ん、よさそうよ」


 しゅんしゅんといい音を立てるお湯をポットに注いで蓋をし、二人してそれぞれのビンからとろり、とした濃いお日様色の液体をスプーンですくって暖めたカップに入れ、ほどよく葉の開いた紅茶をゆっくりと上から注ぐ。 ふわり、と立ち上る、爽やかな暖かい香り。


「あ・・・」


 紅茶を注いだ本人がびっくりしたように小さな声を漏らすのにくすっとウインクして一人分用のトレイを差し出す。


「冷めないうちにサーブしちゃいましょ♪」

「は、はいっ!」


 慌ててトレイを持つ彼女のどことなく不慣れな様子を注意して見ながら、こちらは慣れた手つきでカップをソーサーごとトレイに載せて。 くすくす笑いながらこちらを見ているマスターと今だおろおろしている青年のところへと進む。


「それじゃあなたから」


 どうぞ、と場所を譲って軽く背を押す。 勇気づけるように。 彼女がすぅ、と息を吸ってぎこちなくソーサーを彼の前に置く。


「お待たせしました。 本日、この時間限りのスペシャル・ティーです」


 硬い声で言って一歩を退く彼女と入れ替わりにマスターの前へ同じようにカップを置いて。


「よろしければテイスティングしていただけるかしら?」


 事態を把握しきれずにおろおろとカップと彼女を交互に見ている青年と穏やかにカップを見つめるマスター。 そしてマスターがゆっくりとカップに手をかける。


「喜んで。 せっかくの紅茶ですから暖かいうちにいただきましょう」


 ほら、と混乱している青年を促してカップを傾けるマスターに小さく笑う。 さて、どんな評価がくだされるか。 神妙にカップを取り上げる青年に真剣な視線を注いでいる彼女と同じくらい緊張する一瞬。


「あ・・・? うまい・・・」

「・・・なるほど」


 意表を突かれたような表情で手にしたカップを見つめる青年に二口目を味わうマスター。


「オレンジ、かな・・・?」

「夏みかん、でしょう。 でもジュースを使ったのではこうはいかない。 シロップ漬けかなにか、でしょうか」


 二人が紅茶を味わいながらつぶやくのに笑ってトレイを両手で抱える。


「夏みかんでオレンジピールを作ったの。 そのシロップを使ってアレンジしてみたわ」


 オレンジピール。

 これを作るのはやたらと手間がかかる。 少しづつ濃度を上げたシロップに毎日漬け替えることで柑橘類特有の苦味を抜き、甘さを染み込ませる。 最初のシロップはまだほんのり甘い程度。 香りは強いけれど、苦味も最高。 それを丁寧に取り出して毎日、少しづつ砂糖を足して糖度を上げていく。 鮮やかな香りを残したままの上品なシロップはオレンジピール同様、決して手抜きを許さない時間と労力の結晶なのだ。


「お願いして、この一週間かけていっしょに作らせてもらったんです。 どうしても・・・どうしても、今日に間に合わせたくて」


 どこか必死の面持ちの彼女に訳がわからなくてきょとんとする青年。 マスターが柔らかく笑って助けるように言う。


「オレンジピールを作るのはとても手間がかかる。 ただのひとつも手抜きを許さない。その手間をかけても渡したかったのは・・・ヴァレンタインだから、ですね?」

「え・・・っ・・・」


 そう、今日はヴァレンタイン。 年に一度、女性から想いの丈を素直に口にできる、日。 一週間前のあの日、彼女から相談を受けた。 『いつも憎まれ口をきいてしまって誤解されているような気がする、なんとか想いを伝えるにはどうしたらいいか』と。 あまりに必死な顔にそれなら、と提案した。 おそろしく手間はかかるけれどいっしょに準備してみましょう、と。


「あのね。 この一杯のために想いを込めたのよ、彼女は。 あなたに伝えるためだけ、に」


 真っ赤になってそっぽを向いている彼女に柔らかい微笑みを向けて言う。 途端に青年の表情が固まり、見る見るうちに真っ赤になっていく。 その初々しさに思わず笑ってしまって。


「きちんと味わって受け止めてあげて。 どんな応えでもいいの。 あなたが真剣に考えた結果なら、ね」


 いつでもいいのよ、と笑うと青年が赤くなったまま、それでもまっすぐに彼女を見て口を開く。


「俺、最初から言ってる。 パートナーは君がいい、って」


 続くのは本当にうれしそうな、笑顔。


「だから。 ありがとう。 すごく嬉しい」


 視線と同じ、まっすぐな言葉に彼女が一瞬顔を上げて真っ赤になったまま小さくどういたしまして、とつぶやくように返すのを、心持ちマスターの傍に寄って微笑ましく見守る。 ほんの一瞬、軽く握られた手はきっとマスターからの、返事。 どうやら紅茶は合格らしい。


「さ、それじゃお茶請けもお出ししましょ。 そのオレンジピールをチョコレートでコーティングしてみたの。 おいしさは折り紙つきよ」


 茶目っ気たっぷりに言ってカウンターに載せてあった小皿を二人の前へ置く。

 大切な誰かのためだけにどんな手間も惜しみたくはない、ヴァレンタイン。 けれど、それに込められた想いを汲んでくれる相手はとても少ないのも事実。 ここまでがんばったのをきちんと受け止めて重さをわかってくれる相手に恵まれた自分たちはきっと幸せなのだ、と思う。

 特別な日の特別な、時間。 たまにはこんなヴァレンタインもいいものね、といつものように憎まれ口を叩き合っている二人を見て、大切な人とひっそり微笑み交わしたのだった。

 ヴァレンタインは基本、手作りです。

 というか、この季節しかお菓子、作りません(笑)

 でもオレンジ・ピールはあんまり作らないかなー。 最近、無農薬夏ミカンが入手できなくって・・・実家の夏ミカンも切られちゃったしなー。

 またいつか、夏ミカンが手に入ったら作ってみたいものです。


【シトラス・ティー】

 オレンジに限らず、柑橘類のピールはおいしく作るのに手間がかかる。その最大限の手間をかけた結果として生まれる薫り高いシロップはそのままお湯で割ってもいいけれど、紅茶との相性が抜群。手作りでなくては手に入らないものだけに大切に味わいたい。

 おまけのオレンジ・チョコはピールができていればあとは溶かしたチョコをからめるだけ、という簡単さ。その割りにやはりチョコとの相性抜群のオレンジの香りが上品なお勧めレシピである。

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