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ケニア【Kenya】

 いらっしゃいませ。

 どなたかお探しですか? あぁ、いらっしゃっていますよ。

 謝りたいのでしたら、気付けにこんな紅茶はいかがでしょう?

 昨日までの雪混じりの雨が止んで薄曇りになっていた空は昼を待たずに再びどんよりと重い雲をまとって雨を降らせ始めた。 ああもう、傘持ってないってのにっ!

 まだそんなに降り始めだし、本格的になる前に避難って走り出した途端。 前方から走ってきた車がまだ乾く気配も見せていなかった大きな水たまりであげた飛沫をまともにかぶってしまった。

 さいってー!

 かりかりとささくれる感情は、それでも外に出ることはない。 走る気力も一気に萎え、腹立たしいのを我慢してとぼとぼとよく行く喫茶店へ向かう。 繁華街から離れた小さな紅茶の専門店だけど、ここからなら近いし、おいしい紅茶が飲める。 それに席さえ空いていれば、好きなだけぼんやりさせてもらえる。 静かなお気に入りの場所で暖かい紅茶を飲んでぼーっとしてたらきっとこの嫌なむかむか気分も薄れるに違いない。 そんなこと考えながら着く頃にはしっとり感は全身に行き渡っていた。


「あらあらあら、たいへん、ほら、こっちに来て」


 珍しくお客さんのいない店内、入ると同時にウェイトレスさんが慌てて私の手を引く。 そんなにひどい格好になってるのかしら、それとも店の中、濡れちゃうから? そんな後ろ向きの感情が湧いてくるくらい、テンションが低い。


「あ、だいじょぶです~。 ハンカチ、敷いておけば椅子も濡れませんよね」


 ぽそぽそと応えると、ウェイトレスさんとマスターの両方が同時に怒る。


「椅子なんてどうでもいいの! そのままじゃ風邪、ひいちゃうわ」

「そうですよ。 早く奥で乾かしてきてくださいね」


 あ、心配されてる? ちょっとうれしい、かも。 引っ張られるにまかせながら単純にもほんのちょっと浮上。


「はい、着替え。 濡れた服はハンガーにかけてね。 帰るまでに少しは乾くから」


 ぽん、とトレーナーとスウェット出してからタオル取ってくるわ、とウェイトレスさんはその場を離れる。 ぼ~っと見送ってしまってからはっと我に返り、いけないいけない、と頭を振ってありがたく着替えさせてもらった。

 ほこほこの服、ふんわりとせっけんのいい匂いにもう一段、気分が浮上する。 こんなにしてもらうのはすごく悪い気がして当然なのに、ウェイトレスさんの優しい笑顔が気にしなくていいわよって言ってるようで。 理知的で最高に美人のウェイトレスさんだけど、笑顔は本当に優しくてついつい甘えまくってしまいたくなる。 怒られたってそれは私のことを思って言ってくれてるんだって素直に受け入れられる。


「・・・彼女みたいなら・・・もっとうまくいったのかしら・・・」


 それは、何気なく漏れたつぶやき。

 自分の声に、努めて思い出さないようにしていた状況が浮かび上がってきてしまう。

 今日はカリキュラムを終わって帰るところじゃ、ない。 共同研究の打ち合わせの最中、小さないさかいでグループの雰囲気が悪い方へ向かったところから逃げたんだった。


 発端は知識も実力もある、オピニオン・リーダー的な、彼。 斬新なアイデアと実行力、みんなを引っ張っていく統率力はグループの誰もが認めるところ。 ただよく夢と理想が先走って突拍子もないことを言い出したりも、する。 それが事態を打開することも多いけれど、あまりにも夢想が過ぎることもけっこうあって。 今日のはその典型だった。


『ちょっと待って! 無理よ、道具も場所も時間もないじゃない!』


 学生が行うには大掛かり過ぎる実験の提案。 スケールの大きさにすっかり浮かされてそれはすごい、やろう、と盛り上がるみんなに不安を覚えて思わず制止の言葉を投げた。 可能だったらそれはすごいことではあるけれど、それが出来るだけの場所も機材もお金も、ない。 ましてや、実験に協力してくれる、厳しい条件を満たす人を集めることもそれだけの人数でデータを取る時間を確保することだって絶望的に無理。 あまりにも無謀、もう少し現実的に考えないと、と言ったつもり、だった。

 でも、返ってきた反応は。


『ありきたりのこと、やってりゃ安全だろうけどオリジナリティ、ないぜ?』

『反対するばっかりじゃなくてたまにはやれるかどうか、って先に考えられないの?』

『カチコチのステレオタイプだとこれから先、人生厳しいと思う』


 一斉に向けられた非難の目、次々と浴びせられる否定の言葉。

 わかってはいた。

 いつも反対意見を言って彼の発案を練り直させるのは私。 うるさいことばっかり言う、頭の固い小姑って思われても仕方ない。

 でも、とどめのように言い放たれた、言葉は。


『こいつがいい案出すから嫉妬してるんじゃないの? 敵いっこないからってさ』


 煮詰まった研究、打開策が見えなくってみんないらついてたんだと、思う。 だからそんなひどい言葉が飛び出したんだって・・・思う。 それを言った仲間を彼自身が押し留めようとしてたのも、見えていた。 でも、我慢、できなかった。


『なら勝手にしなさいよっ! 具体的なこと、全部考えてみればいいわ! 私、もうやめる!』


 気づいた時にはそう怒鳴って・・・研究室を飛び出していた。 そして、降りだした雨に戻ることも出来ず、ここに来たんだった。


「バカみたい・・・今頃・・・」


 もう後悔している自分にぽつん、とつぶやいて自嘲に沈む。 その時、こん、と控えめなノックの音がしてドアが開いた。


「着替えた? はい、タオル。 髪、拭いておいて」


 ウェイトレスさんがにこり、と笑って差し出してくれたタオルを受け取る。 続いて出された、白いカップ。


「まず一杯どうぞ。 温まるわよ」

「・・・ありがとうございます」


 ほわほわと湯気の立つカップには鮮やかに赤の色が引き立つ、紅茶。 一口含んだら、初めて味わう香気が口の中に広がって、冷えた身体に暖かさが染みていく。

 おいしい。 これ、なんていう紅茶かしら。 後で聞いてみなくちゃ。 ああ、それよりもまずお礼を言って・・・

 紅茶片手にぼんやりとウェイトレスさんの動きをどこか麻痺してしまった感覚で追う。 とりあえずハンガーにかけただけの服をバスタオルではさんで軽くたたいてから空調の風が直接当たるところにかけて。 厚みのあるコートは特に念入りに。 そんな一連の作業をてきぱきと楽しそうに片付けていく。


 彼女くらい優しくなれたら。 相手のことを思いやれたら。

 そうしたら、意に染まない喧嘩なんてせずにすんだのかしら。

 こんなに惨めな想い、しなかったのかしら。


 つらつらと流れていく思考に気づいて、苦笑。

 無理、よね。

 彼女みたいに気が利くわけじゃないし、こんなに優しくも、穏やかにもなれない。 相手のことを思いやるにはそれだけ、心に余裕がいる。 そんなもの、目立った才能も能力もない、平凡そのものな私には望むべくもない。 現実の些末な障害が気になって、冒険する勇気も持てないもの。

 それに・・・

 私なんていないほうがきっと研究も進むわ。 足、引っ張って止めるの、他にいないから。

 止められない、マイナス思考。


 枠に囚われない、彼の自由な発想力が好きだった。 空を飛ぶような夢のある考え方を提案して、尻込みするみんなを明るく引っ張っていく彼を見ているのが好きだった。

 『常識』や『現実』から抜け出せない私にはできない、眩しいほどのきらめきは、傍で関わっていられるだけでうれしくて幸せだった。

 いくら学生と言ったってそれなりに成果を出してきた研究職、思いつきや夢想だけを優先することはできない。 それがわかっているから、時には小姑のように諌めたり、明らかに暴走だと思う時は真っ向から止めたりもしてきた。

 それでも。

 不安になるような提案も一生懸命考えて、先をシミュレーションして。

 なんとか許容できるリスクと思えたら止めないように、邪魔しないように自分を抑えて。


 ・・・小心者の私には精いっぱいの冒険、だった。

 彼がいるから。 彼ならきっと。

 そんな思いがなければ、きっと踏み出すことも結果を出すこともできなかった。


 でも。

 それでも私の言動は彼にとってもみんなにとっても、邪魔な障害でしかなかったんだ。


 目の奥が熱く、なる。

 溢れそうな嗚咽を唇を噛んで飲み込む。

 これ以上、ウェイトレスさんやマスターに心配なんてかけられない。

 

「物事にはバランスってものが、あるわよ?」


 際限なく沈んでいく感情を持て余して立ち尽くしている私を振り返ったウェイトレスさんの、突然の言葉。 びっくりして目と意識の焦点がぴたっと合う。 ころん、と目の端から水滴が落ちていく。

 な・・に・・? ばらんす?

 ・・・え?

 淀んだ思考回路では何を言われたのか、理解できない。

 でも、彼女の言葉の何かが、固まった思考の中にするっと入り込んだ。 それに縋るように感情がもがく。 捉えられない、暖かな何か。


「さ、行きましょ。 マスターが最高の紅茶、入れてくれてるから♪」


 先の言葉が聞き間違いだったのか、と錯覚するほどお茶目できれいなウインクにごまかされてその何か、が遠ざかる。 そして、それでも考えることをやめられない私の腕をお店のほうへ引っ張っていくウェイトレスさん。

 そこには。


 彼、がいた。


 目が合うなり無意識に逃げ出そうとする私の進路を立ち上がって塞ぎ、思い切り頭を下げて。

 その姿勢のまま、ほとんど叫ぶように言葉が響く。


「ごめんっ! お願いします、やめるなんて言わないでくださいっ!」


 投げかけられたのは、あの場の空気を最悪にして逃げ出した私を責める言葉ではなく、朴訥なまでにストレートな謝罪の言葉。

 なんで? 障害にしかなってなかった人間が自分から飛び出したのよ? もう誰もみんなのやる気を削いだりしない。 手間が省けたんじゃないの?

 そんな暗い思考が渦を巻く。

 でも、それを吹き飛ばすように彼は続ける。


「俺、すぐ暴走するから。 よくも悪くもお祭り人間だからシビアな現実、すぐに遠くに投げ捨てる。 まわりにかける迷惑考えずに夢想だけで突っ走ろうとする。 そんな俺のダメなところをちゃんと見て止めてくれるのって君しかいないんだ」


 私がブチ切れて飛び出したことで、みんな、頭が冷えたはず、と彼が言う。 すぐに私の後を追おうとした彼の足を一瞬止めたのは、決定的な蔑みの言葉を放った人が明らかな後悔の表情で頭を抱えてしゃがみこむ姿と、成り行きにパニックを起こしてどうしよう、どうしようと意味不明に混乱する場だったそう。 それをちゃんと収集つけておけ、と怒鳴りつけて彼は私を追いかけたらしい。 降りだした雨の中、傘を取りに戻ることもせず。

 改めて見たら借りたらしいタオルを片手にしてはいたけれど、彼はまだ濡れたままだった。 彼が、風邪ひいちゃう、と遠い思考が逃避を図る。


「発想は悪くないと思う。 でも『常識』や『伝統』を壊そうっていうんだ、無理はできない。 せいぜい背伸びして届くくらいにしとかないと破綻しちまう。 その手綱、取れるのは君だけだ」


 お祭り人間のまわりにはテンション高いお祭り人間が集まってくるんだ。 そう言って彼は真剣な目をまっすぐに向けてくる。 現実逃避をいっさい許さない、視線。


「みんな、わかってる。 君だけが夢想と現実を見てくれているって。 君がいつも厳しい現実とのバランスを保つために一番難しいしんどい役目、引き受けてくれてるから俺たちはテンション上げて突っ走れるんだって。 行きすぎる前に止めてくれるって頼り切ってるんだって」


 信じられないような言葉が続く。 自分にだけ都合のいい夢でも見ているんだろうか。

 頬をつねってみたい衝動にかられるほどなのに、彼の強い視線はそれを夢にすることを許してくれない。


「頼む、お願いします。 みんな待ってるから、戻ってきてください!」


 言葉が、出ない。

 いきおいよく頭を下げたまま、彼が返事を待っているのがわかるのに、頭も視界もぐるぐる回っているような感覚にしゃがみこみそうになる。

 どうしよう。 どうしたら、いいんだろう。 彼は私を認めていてくれたの? ほんとにみんな、待っていてくれるの? こんな石頭な小心者を?


「お待ちどうさま。 紅茶が入りましたよ」


 止まった時間に穏やかにかけられる声。 動き出した時間に振り向くとマスターがポットを手に笑いかけてくれた。 ぎくしゃくと向かい合わせの席に着く。 マスター自ら注いでくれた紅茶はやっぱり強烈ともいえる、赤。 さっきのと、同じ紅茶。 問い掛ける視線をつい、向けてしまう。


「ああ、初めてでしたか? ケニアという紅茶なんですよ」


 お気に入りですよね、と話を振られて彼が照れくさそうに頭をかく。 研究上がりによくみんなでもここにきていたけれど、その時は紅茶を指定しているのを見たことがない。 彼も、この店に一人で来ていた?


「アフリカで作ってる新しい紅茶なんだ。 気候の違いで育てるの、たいへんだったって」


 マスターの受け売りだけどね、と彼。 そのマスターがくす、と小さく笑って後を引き取る。


「紅茶は歴史が古いだけにまったく違う土地柄では育てにくいんですよ。 ケニアは新しいアイデアと伝統手法がうまくかみあったからこその紅茶なんです」


 斬新なだけでは『紅茶』ではなくなりますからね、と静かに言われて。


「新しいものを生み出すには斬新な発想は必要です。 けれど、それを伝統や『当たり前』となじませ、バランスを取らなければ結果は悲惨な失敗しか生まないものですよ」


 研究なんてものはそんな制限付きだから、おもしろいんですけどね、と柔らかく笑うマスター。

 一瞬呼吸が、とまる。 それ、紅茶だけのことじゃ・・・ない?


「あ・・そっか・・・マスターって前は研究者だったって・・・」


 同じように目を瞬いていた彼が思い出したようにつぶやく。 それを引き取るようにウェイトレスさんが笑った。


「そうよー。 先人の言うことは聞いたほうがいいわよ?」


 そして浮かんだ、珍しいまでに悪戯っぽい、どこか黒いものの混じった笑みにきれいな唇が弧を描く。 うわ、ウェイトレスさんてばこんな笑い方できたの、ってくらい・・・怖い。


「こら・・・そんなに脅してどうするんですか・・・」


 あきれたようなマスターの声に彼もぶるっと身震いするのが目に入る。 それにやっぱりどこか黒い笑顔でくすくす笑うウェイトレスさん。


「あら。 『唯一』な相手を泣かせるような男にはこれっくらいじゃ足りないんじゃない?」


 思いっきり芝居がかった棒読みなセリフ。 でも、声に含まれた色は『棒読み』なんてものじゃなくって。

 なぜか彼がそれに深呼吸して気合いを入れる。 それは彼が本気で何かに挑む時に繰り返される、行事。 そして見たことのないほど真剣な瞳が、私を射抜いた。


「え~っと・・・だから・・・ムシが良すぎるとは思うんだけど・・・」


 思わず真正面から受け止めてしまった視線に、入れた気合いも残念なほどに彼がぼそぼそと言いよどむ。 それをウェイトレスさんがしっかり、とつついて。 逸らされかけた彼の目がもう一度の深呼吸の後、私を見つめる。


「ケニアみたいな成果を出すためのパートナーは君がいいなぁ、なんて、さ・・・その、これからずっと・・・」


 紅茶の温かさといっしょに言葉の意味がじんわり染み込んで。 頬が熱くなって、いく。 きっと鮮やかな紅茶色。

 それは、今までとは違う彼との付き合いが始まった、瞬間だった。

 まぁ、長く生きているといろいろと起こるもので(笑)

 情熱や好奇心だけでは突っ走れなくなるのは年のせいですね。

 でも、突っ走れるだけのエネルギーは無謀であっても礼賛しますよ、えぇ。

 だって、それは『昔』の自分ですから。


【ケニア』

 アフリカを代表する紅茶。 生産国としては新興で、新しい技術が多く取り入れられていること、また、気候の特徴からクオリティ・シーズンが年二回ある。 市販されている茶葉のグレードに差があるのが少し難点だが、わずかに渋めのすっきりした味わい、明るく鮮やかな赤の色がきれいな、若々しい元気な、これからが楽しみな紅茶である。

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