セイロン(3)【Ceylon(3)】
いらっしゃいませ。 ようこそ茶・夢へ。
こちらは紅茶の専門店になります。
おや、なにか良いことでも?
ではこちらの紅茶はいかがでしょうか。
その日、俺は上機嫌でいつものように扉を開けた。 真冬の一段と冷え込んだ日だというのに俺の周りだけは春でも来たような気分だ。
「マースターッ、いつものセイロン、一人分ねーっ!」
「おや、ご機嫌ですね。いらっしゃい」
週のど真ん中の平日、しかも店じまいも近い真夜中とあってさすがに客は誰もいない。 いつもいるウェイトレスさんも帰った後のようで、マスター自ら水とおしぼりを持ってきてくれる。 こんな時間、しかも酒の入った客なんて迷惑だろうに、嫌な顔ひとつしない。 で、俺ときたらそれがわかってるから図に乗ってからむ。 どうしようもない奴だよな。
「へっへっへー、聞いてよ、マスター♪」
「はいはい、どうなさいました?」
カウンターの向こうで紅茶の準備をしてくれるマスターにテーブルに懐いたままぺらぺらとしゃべりかける。 返ってくるのは安心できるような、穏やかなトーンの声と笑顔。 ますます調子にのってしまう。
「第一希望のしゅーしょくさきからさー、内定が出たんだー♪」
そう。
それが今の俺の状態を作る原因だった。
それはおめでとうございます、とにこやかに言ってくれるマスターにありがとー、と返しながら出された紅茶を楽しむ。 うん、あいっかーらずうまい。 酔って舞い上がってる気分がちょっと落ち着きを取り戻しながらもしみじみとした気分の良さに浸っていく。
はっきり言って今ごろ内定、なんてーのはかなり遅い。 今年はそんなに悪い状況じゃなかったし、俺の所属しているゼミは植物学じゃ有名なところで、昔っから折り紙付の就職率を誇る。 自然志向とやらがもてはやされる昨今、その手の専門家の需要は増えるばかりだ。 それなのになんでここまで遅くなったかといえば、理由は簡単。 俺がふんぎりをつけなかったからだ。
内定先は地方の小さな博物館。 そこの見習い研究員として採用するという通知が今日の朝、届いた。 俺の持ってる発表論文やゼミの研究成果からすると『もったいなさすぎる』といわれるだろう扱いだ。 実際、仲間たちの就職先を並べてみれば国家研究機関クラスの正式研究員やら、実績を誇る教育機関の助手以上がぞろぞろしている。 当然、ゼミの担当教授宛に来る求人も半端じゃない。
それなのに何故、と聞かれても実は答えに詰まる。 俺の就職先選定条件は都会ではなく地方の学術系施設、だった。 なんで、もどうして、もふっ飛ばして俺はその土地に行きたかったんだ。
「就職先さー、すっげぇ田舎の小さい博物館なんだー。 まだできたばっかりでさー」
二杯目の紅茶を堪能しながらぽつぽつとマスターに話し掛ける。 本当はもう、片付けに入っている時間だろうに、マスターは珍しくカウンター席に座って俺の話をにこにこと聞いてくれる。
「おや・・・それは寂しくなりますね」
「俺も寂しいよー。ここみたいな店、そうないもんなー」
ほんと、それだけは残念だな、と思う。 ここほど居心地のいい店、どこに行こうとみつけられないだろう。 そんなことを三杯目をカップに注ぎながら考える。 地元育ちのゼミ仲間からここを教えられて以来、ずっとお気に入りの店だったんだから。
「ですが、できたばかりでしたら色々とやりがいがありそうですね」
マスターの何気ない、柔らかい声。 カップを運びかけていた俺の手が止まる。
『そっかぁ、田舎かぁ』
『研究対象にはことかかねーな』
『できたて? じゃあやること、いろいろあるじゃん!』
『これから全部作っていくんだ、すげーやりがいだよ』
頭の中を流れていく、仲間たちの言葉。 内定祝いにかこつけての飲み会で本当に嬉しそうにそんなことを言われた。 お前ならだいじょうぶだ、きっと全力投球で取り組める仕事だ、と。 だけど。
ため息がもれる。 考えないようにしていた影の部分が浮かび上がってくる。 春に潜んだ寒の戻りが急に意識される。
あの言葉はみんなの本心だったんだろうか。
社会的には連中のほうがはるかに高い評価を受けるところに内定してる。
あれは俺に対する憐憫が含まれた激励だったんじゃないのか。
優越感が混じっていない、とどうして言える?
・・・ほんっとやな奴だよな、俺って。 友人たちの言葉すら素直に受け止められないなんて、さ。
どうしてこんなに地方の博物館に固執したかなんて俺自身がよくわかっちゃいないんだから誰にも言ってない。 それなのにみんな、『希望が叶ってよかったな』と言う。
これが俺の希望だったのかどうかなんてどうしてみんなにわかるんだろう・・・
「・・・価値基準は普段の言動に出るものですよ」
微かに笑みを含んだマスターの声に意識が引き戻される。 思わず視線を向けると声そのままの暖かい微笑が俺を見ていた。
「大概の方から見て価値が低いことでも人によっては何をおいても優先させる、譲ることなどできないことかも、しれない。 それは人それぞれのことで、その基準がはっきりしていればいるほど日常の判断や態度に滲むものです。 ご自分が気づいておられないことでも、より近くにいる友人たちから見れば一目瞭然、ということもありますよ」
静かな声、穏やかな笑顔。他人に言われたら反発を覚えそうな内容なのに、どうしてだろう、気分が落ち着いていく。 凝視する先でマスターがくす、と小さく笑うのさえ、ささくれた神経をなだめてくれるみたいだ。
「どんなものでもあるがままの姿で、というのがあなたの価値判断基準だとご友人たちに伺ったことがあります。 それをすべてに優先させられるあなたが心底うらやましい、と。きっとあなたは中央都市での就職など望まない、とね」
普通はできないものですから、と言われるに至って苦笑が込み上げてくる。 そんなことを言う奴らはそれこそ、今日の飲み会の首謀者たちしかいない。
そうだよ。 俺は専門の山の植物が普通に見られる環境に行きたかったんだ。 そこにあるのが当たり前の花や草が特別扱いされずに生きているところで研究したかったんだ。
なんてこった・・・連中を侮り過ぎてたな・・・
「マスター・・・紅茶、おかわりしていいかな・・・?」
うつむいたまま、頼む。 顔を上げたら不覚にも泣いてしまいそうだった。 まだ酔いが覚めてないらしい。
しばらくしてようやく感情を押え込む頃にマスターが新しいカップとポットを持ってきてくれる。 そして手ずから最初の一杯を注いでくれた。
眩しくはない程度の店の中でも鮮やかな紅色。 光でも含んでいるかのような煌きに立ち上る芳香。 おかわりを頼んだ先ほどの紅茶とは、違う。 思わず見上げるとマスターがにっこりと笑う。
「どうぞ。 私からのお祝いですよ。 きっとお気に召すと思います」
カップとマスターを見比べてから礼を言う。 ここに通い始めてもうずいぶん経つけど、初めての紅茶だ。 ゆっくりと一口含むと思ったよりもずっとまろやかで繊細な味が広がった。
「・・・うまい。 セイロンみたいなのに・・・なんていうか、こう・・・」
うまく言葉がでない。 もう一口、啜る。
「ヌワラエリヤという紅茶です。単独ではあまり知られていませんが、セイロン紅茶のシャンペンと称されるほどの香気と繊細な味わいを誇る紅茶なんです」
紅茶を楽しむ時間を決して邪魔しないマスターの穏やかな声に妙な納得がやってくる。
シャンペン、か。 めでたいことがある時に飲む、あれだよな。 そうか、だからマスター、これをいれてくれたのか。 それなら。
「マスター、今度は連中、みんな引っ張ってくるから・・・そしたらこれ、いれてくれないかな」
快諾の返事を聞きながら二杯目を注ぐ。 俺を祝ってくれたみんな。 口は悪いし、乱暴だし、人も悪い奴らだけど誰よりも近くにいた連中。 得難い悪友たちに今度は俺から乾杯してやりたい。 よくもまぁ、これほどひねくれ者が集まった、と。 そして、俺にとって身近にいた賢者の好意に感謝して。
最近はけっこう有名になってるみたいですね、ヌワラエリヤ。
紅茶屋さんで「セイロン紅茶の女王と言われている」なんて一文を目にして思わず「・・・どんだけ成り上がってるんだぃ・・」とかつぶやいちゃったのはナイショです(笑)
【セイロン・ヌワラエリヤ】
数ある銘茶を産むスリランカで最も標高の高い紅茶の産地ヌワラエリヤ。そこで取れる煌くように鮮やかな色合いとデリケートで優しい味の紅茶はその香り高さでも有名で、『セイロン紅茶のシャンペン』と評される逸品。それだけに茶葉の開くタイミングを見計らうのが難しいが、ぜひストレートで丁寧に味わいたい紅茶である。