ラプサンスーチョン【Lapsang Souchong】
いらっしゃいませ。
おや、お疲れですね?
それでは淀んだ気分を吹き飛ばす、こんな紅茶はいかがでしょう?
「はぁぁぁ~・・・」
「あらら・・・お疲れ?」
座席につくなりぺたーっとテーブルに突っ伏す。 頭上から聞こえるウエイトレスさんの声にも突っ伏したままひらひらと片手を振ることで応えるのがせいいっぱい。 今日もさんざんだった。
「いつものブレンドになさいますか?」
突っ伏して起き上がれないところにマスターの柔らかい声がカウンター向こうと思しき距離感で届く。 ウエイトレスさんが水のコップやおしぼりを置いてくれる空気の動きといい、安心するマスターの声といい。 あー。 癒される。
「んー・・・マスターのお勧めでなにかいいのあるー? こう、なんかすかっとするよーなきょーれつなの」
突っ伏したところから目線だけ上げて訴えてみる。 普通の喫茶店なら間違いなく嫌な顔されるような無茶な注文。 でも、ここならかなえてくれる、という絶対の信頼がある。 それもきっと、良い意味で斜め上の方向に期待を裏切って。
「おや・・・だいぶ参っておられますね。 では、おまかせいただきましょうか」
ほら、やっぱり。
応えるマスターの声には負の感情の色はない。 むしろ、おもしろがっている、に近い笑みが含まれている。
「へーい、おまかせー・・・」
再びぱたり、と突っ伏してひらひらっと頭上で片手を振る。 テーブルセットを終えたウエイトレスさんが静かにカウンターの方に離れていく気配。 あー。 今日は静かだなー。 閉店まで三十分くらいしかない時間とはいえ、いつもならまだ近所の学生やら仕事帰りの連中がたむろしてるような時間だ。 ま、これが連休中じゃなきゃな、と自嘲気味に唇の端を上げる。
本日、花のゴールデンウィークまっただ中、連休中日。 天気も申し分なく、観光地もにぎわっていると聞く。
そんな中、昨日も今日も明日もお仕事っと。
口の中だけでぼそっと呟く。
別に直近の締切が控えてるわけでも、仕事が溜まってるわけでもない。
単に・・・
「単に、分裂しちまうのが見えちまってるだけっての」
小さな会社だが、一部専門業界ではそれなりに知られたソフトウェア開発の企業がオレの職場だ。 そこにこの春入社した新人連中の教育担当が現在進行中の業務だ。
この教育担当は毎年、業歴五年から十年くらいの中堅に片足つっこみかけてるレベルが持ち回りで担当する。 ベテランも当然協力してくれるが、メイン業務として入社直後から夏前くらいまでべったり関わるのはその連中だ。 で、今年はそれがオレともう一人の担当。 八人の新入社員を半々で受け持っている。
まぁ、ね。
基礎研修を合同でやってる間は順調だったんだ。
それが妙な方向に軋轢が出てきたのは、班を分けて実務研修に入ってからだった。 研修としてやらせているのは架空の依頼を設定してその依頼に見合った製品をグループで仕上げること。 基本的な作業方法やグループでの進め方は基礎研修でやったから、その実践、ってやつだ。
架空とはいえ、それなりにでかいシステムを想定した管理プログラムの開発だから当然、やり方ってものがある。 全員がそれぞれ全体を作ってみてどれかいいものを、なんて方法が通用するわけがない。 なんで、グループの中で話し合って方向性を決め、それに基づいてパート分けして、と最初の方はお手本通りに進んでいた。 それがおかしな雰囲気になってきたのは、最初のブリーフィングの時。
「なんなんだろーなぁ、あの・・・」
あの『差』は、とこぼれかけた声を飲み込む。
担当分けして仕上げてきたそれぞれのモジュール。 たかが新卒が作ってくる最初の練習用依頼だ。 出来上がりよりもそれぞれの適正や方向性といった今後への指標、また、個性やクセといった少なからず製品に影響するものを見極めるための材料としての役割が大きい。 そんなところも製品に影響を与えてしまうのは、うちが少人数の小さな会社だからだ。 だが、その中の一人が仕上げてきたモジュールは。
「・・・はぁぁぁぁぁ・・・」
漏れでそうになる言葉をごまかすようにわざとらしく溜息をつく。
あれは・・・マジでぶっとぶような出来だった。
そして、その出来はまだ素人に毛がはえた程度の他の新人たちにもわかるようなもので、しかも、他の三人が作ってきたモジュールとではバランスが悪すぎてリンクできないくらいの。 それが結果として軋轢を生んだ。
突出した能力の一人に、レベルが違いすぎて合わせられない、と拗ねる三人。 別にそいつらが出来ないってわけじゃない。 一人がぶっ飛んでるだけだ。 そしてその一人は周りに合わせる、ということがわからないらしい。 学校で一人天才でぶっ飛んでるならいざ知らず、仕事じゃそうはいかない。 一人でなんでも出来るほど甘くはないんだ。 拗ねてるやつらも問題だが、突き抜けてるやつも妥協点をみつけて合わせる努力をしないと社会の中では孤立するだけだ。
まぁ、それはともかく。
「天才ってな、いるもんだねぃ・・・」
ほとんど音にならない、つぶやき。
だが、それはちょうど紅茶を持ってきたマスターには拾われてしまったらしい。
「天才なんて、ただの不器用者ですよ」
ほへ、と顔を上げて・・・違和感。
ウエイトレスさんはくすくす笑いながらカウンター前の定位置。
なんで、マスターがここに、いる?
「さめないうちにどうぞ。 リクエストにお答えできているといいのですが」
そんな違和感もするっと通り抜けた穏やかな声に体を起して置かれたカップにそそがれる紅茶を見やる。 ふわり、と広がる独特な香りに瞬きひとつ。
「ん・・・? なんだ、この香り・・・?」
紅茶の香りってのは個性的ではあるがどちらかというと淡い感じのものが多いと思う。 強烈なところでアールグレイか。 だが、今立ち上っている香りはそのアールグレイが裸足で逃げ出しそうなしろものだった。
まず届くのは煙臭ささえ想起させる燻香。
一瞬、せき込みそうになるほどのその香りを追いかけてくるのはどこかフルーティな東洋の甘い香り。
・・・なんだ、これ・・・?
おそるおそるカップを手にしてためつすがめつ。 そしてゆっくりと口に含む。 途端に襲ってくる強烈な燻し臭と、その真逆とも言える果物臭。
目が、覚めた。
その一言に尽きる、飲み込んだのに脳天に突き抜けるような香り。
自慢じゃないが、この店に通い始めてからは長い。 たぶん、開店したその日から通ってるヘビーユーザー数人のうちの一人だ、と自負するくらいには通った。 その間、気分にまかせてマスターお勧めをとっかえひっかえ味あわせてもらってきた。 気に入ってるのはマスター特製ブレンドだが、それでもここに通ってる中では一番メニューを制覇している自信がある。
だが、その経験を持ってしても、初めての味と香り。 あまりのインパクトに二口目を一口目よりさらに慎重に含み・・・また違和感。
いや・・・?
オレ、この香り知ってるぞ・・・?
どこで・・・?
必死に記憶を手繰り寄せる。 あまりにも強烈なこの紅茶。 出会っていれば忘れるわけが、ない。
それなのに出てこない。 オレはいったいどこで『これ』に出会っている?
「いかがですか?」
たぶん、無言で百面相をしていただろうところに再び穏やかな声がかかる。 カップから視線を上げた先には声同様に穏やかにこちらを見ているマスター。
「マスター・・・これ、何? こんな強烈な紅茶、知らない。 知らないはず、なんだ・・・」
自然と白旗を揚げてマスターに縋る視線を向ける。 くすり、とマスターが笑った。
「ラプサンスーチョン、という中国の高山地帯で作られる紅茶ですよ」
らぷさんすーちょん、と繰り返しながらマスターが教えてくれる漢字を頭の中で構築する。
『正山小種』。 正山、って確か中国の奥地にあったような?
そんなあいまいな知識は浮かんではきたものの、放置。 今はこの紅茶だ。
「味わっていただいた通りの強烈な香りは茶葉を松で燻しているところからきています。 この燻し方を間違うとただの煙くさいお茶ですが、これはラプサンスーチョンの中でも量の少ない原産地ものです。 燻した強い香りの中に別の香りも感じませんか?」
マスターの言葉にこくこくとうなづく。
「その追いかけてくる香りは干した竜眼の香り、と言われていますよ」
ただの竜眼じゃなくって干した竜眼。 マニアックだな。 だが、オレが一番聞きたいのはそこじゃない。
「マスター。 オレ、どこでこれに会ってるんだ?」
普段よりもかなり饒舌なマスター。 いっさい口を挟まないウエイトレスさん。
もう、確信だ。
マスターはどこかでオレがこれを味わっている、と知っている。
「・・・答えは・・・」
もう一度、小さく笑ったマスターがウエイトレスさんを振り返る。 それにウエイトレスさんがトレイを手に立ち上がる。
「はい、解答」
流れるようないつもの動作で目の前に置かれる、カップ。 淡い色の紅茶にすぅっと新たな香りを吸い込む。 これは。
「・・・マスターの特製ブレンド・・・?」
呟いて、一口。
うん、オレの好きなあのブレンドだ。
だけど・・・『解答』?
このブレンドは確かに香りがいい。
だけど、ついさっきの強烈な香りはどこにも、ない。
ふんわりとした花の香りをベースに華やかな柑橘系の香りが広がる紅茶をもう一口。 慎重に口の中で転がして、飲み込み・・・今まで気づかなかったごくわずかな香りに、茫然とブレンドのカップを見やる。
「マスター・・・これ・・・ブレンド・・・これに混じってる・・・?」
そう。
これまでにないほど神経を研ぎ澄ませて飲み込んだブレンドは柔らかい花と華やかな柑橘の絶妙な加減の香りの影に独特とも言える燻香を隠していたのだ。
「当たり、です。 私のブレンドには欠かせない香りなんですよ」
そうしてマスターはにこにこと言葉を継いで、オレの疑問に答えてくれた。
「ラプサンスーチョンはその強烈とも言える個性的な香りで好き嫌いが分かれます。 ですがこの独特な香りは不器用なさびしがり屋さんなんですよ」
・・・へ?
「ストレートでもいいのですが、実はブレンドに加えるとそのブレンドの持つメインの香りの良さを目いっぱいまで引きだすんです」
・・・ありえねーだろ? この強烈さでどうやって周りを引き立てるってんだ?
疑問符いっぱいの顔してたんだろう。 マスターが苦笑する。
「もちろん、量を間違えると今度は目いっぱい主張してすべてを凌駕してしまうわがままさんですけどね」
わがまま、って。
どんな喩だよ、と呆けていたらウエイトレスさんからダメ押しがくる。
「少なすぎたらいない振り、ちょっとでも多すぎたら大主張。 もう、なんなのこのツンデレっぷりは、って感じよねー」
・・・だーかーらー。
『わがまま』も『ツンデレ』も紅茶に対する形容詞じゃないと思うんですがー?
もはや呆けるも通り越して達観しそうな逃避をかますオレに、マスターとウエイトレスさんの謎な掛け合いは続く。
「いったいどこがご満悦になれる比率なんですか、って苦労してたわよねー?」
「そうですね。 不器用すぎてなかなか教えてくれないものですから」
えーと。
紅茶ってもの言わないよなー。
不器用、って・・・
遠い目でさらに逃避しようとしたところで。
「だから手を変え品を変え、ついでに常套手段も変えて有名どころもマイナーどころもオーソドックスな子たちもその能力最大限使って手伝ってもらって、天才ラプサンスーチョンの最大の能力を引っ張り出す努力をしたのも懐かしいですねぇ」
引き戻される、思考。
逃避なんてしてる場合じゃないことを、さらり、とマスターが口にした。
「マスター・・・」
たぶん食いつきそうになってるオレの視線をいつものようになんの抵抗もなく受け止めてマスターが笑う。
「天才なんてね、不器用なだけなんですよ。 突出した力を持っていても、それを周囲に合わせて最大限に発揮する術を持っていない、他に合わせたくとも合わせ方がわからない。 けれど、ひとたびそれを見つけてしまえば嬉々として惜しげもなくその能力を発揮し、周りすらもどんどん引き上げていく。 ラプサンスーチョンもそんな紅茶なんですよ」
まぁ、なんでも一人でやってしまう天才さんもいらっしゃいますが、と笑うマスターにウエイトレスさんがツッコミを入れる。
「ツンデレ天才さんの不器用さを引っ張っていくのはオトナの仕事、とか言ってたじゃない?」
それって・・・
フラッシュバックする、研修中の言い争い。
ラプサンスーチョンみたいに突き抜けて個性的な一人のモジュール。 それに噛みつく、よくいえば常識的、正確には没個性的で教科書的な出来の他のモジュール。
それを前にして、オトナなんだからいがみあってないで、建設的に前に進むことを考えろ、と言ったオレ。
微妙にずれまくってぎくしゃくする連中に、かたやガキみたいなこと言うな、と言い。 かたや周りを見て調整してみろ、と言い。 そんなことを言いつつもオレは迷っていた。 いや、迷ってるんじゃない。 袋小路に入り込んだみたいに方向が見えなくなって途方に暮れて足踏みしていた。 どうやったら双方を歩み寄らせることができのか、と関わってきたプロジェクトの過程を振り返って試行錯誤してきた。 突出したモジュールの効率を落としてでも他と融合させるには。 ぶっとんだ出来のそれから学ぶことをさせるには。
そうやってお互いが何かを抑えて妥協点をみつける努力をさせるには、って。
違う。
オレが『オトナ』としてやらなきゃいけなかったことは。
衝突や軋轢や、いや、連中自身の力量まで抑え込んで妥協させるんではなく。
荒削りで経験値不足な連中が全員最大限の能力を発揮できる『比率』を見つける努力だったんじゃ、ないか?
今度こそ、完全に目が覚めた。
いや、覚醒した。
方向性を間違ってたのは連中だけじゃない。
指導者であるオレも、だ。
誰しも得意分野はある。 その差が大きいか小さいかだけのことであって、その能力差が生む軋轢や衝突なんて日常茶飯事だ。
そうだ、オレたちの代だって通った道なのに。
目を閉じて深呼吸。
まだまだ強烈なラプサンスーチョンストレートの香りがブレンドが放つ香りにわずかに和らぐ。
オレがしなくちゃならないのは、衝突を回避することじゃなくって、その衝突があったからこそ、最大の結果を出せるように方向づけること。 注意深く見守ってその比率を見つける、こと。 天才が天才のまま、周りも自分を卑下することなくその力を発揮できるように。 そして、結果として最良のものを生み出せるように。
納得してしまえば、簡単ではないけれど、単純なこと。
飛び出た杭を打ってひっこめるほうがよほど簡単だが、それではそれなりの結果しか望めない。
「マスター・・・ありがとっ! アイシてるっ!」
突然のオレの戯言にマスターが鳩が豆鉄砲な表情を見せる。
ウエイトレスさんがこらえきれずに爆笑している。
ほんとにもう。 天才ってな意外とごろごろいるもんだな。
なんでか、なんて知らない。 けどマスターは煮詰まって右往左往しているオレの状況を正確に把握し、的確な助言を紅茶に載せて示してくれた。 それこそ、反発する気も起らないくらいなんの抵抗もなくすんなりと浸みこんできちまうような笑顔で。 これを天才と言わずしてなんだというんだ。
こうしちゃ、いられない。 とにかくまずは睡眠。 せっかく疲弊して淀んでいた頭をラプサンスーチョンがすっきりさせてくれたんだ。 休息をとって完全復活した頭でもう一度、考え直さなくちゃ。 目指すべき通過点をさりげなく示してもらったんだ、ここは拗ねたり卑下したりしてないで、素直にそれに甘えるのが『オトナ』ってもんだろう?
カップに残っているラプサンスーチョンを一気に、けど大事にその強烈さを甘受しながら飲み干す。
「閉店まで粘ってごめんねっ! また来るわっ!」
いつものノリでおちゃらかに宣言するとマスターが笑って、ウエイトレスさんがまたのおこしをー、とかおどけてひらひら手を振ってくれる。
「おっしゃー、ノッてきたぞー!」
見上げた空は満天の星。
もういくらでもぶつかってみろ。 その先に何があるのか・・・それを見せるのがオレのしなくちゃならないことだ。
突き抜けて個性的なラプサンスーチョンの能力を最大限に引き出しているのは、そこまで個性的でない普通の紅茶たち。
天才だって一人じゃそこまでなんだ、って思えるほどの、究極ともいうべき完成度のあのブレンドのように。
そこまで、行きついてみろよ、ひよっこども。
通過点を通り越して、その先の到達点をも見据えてオレは家に向かって走り出した。
この紅茶に初めて出会った時はまぁ、驚いたのなんの。
こんなにぶっ飛んでてなんなの、とか混乱したものです(笑)
でもねー。
ブレンドするとこれがまた・・・化けます。 あの唯我独尊な個性はどこへ、というくらい。
もう、ツンデレさんですねっ(違)
【正山小種】
『最初の紅茶』とも伝承される中国原産の紅茶。 松で燻した独特の香り、味を誇る紅茶だが、その独特さに得手不得手がみごとに分かれる紅茶でもある。 本物は中国高山地帯である武夷の岩山で栽培され、茶葉の段階から厳選されいる。 他の地域で同じ製法で作られた紅茶は正山小種に対し、外山小種と呼ばれているようである。