[Arrange] Sweet Spring
たまにはこんなあまぁい紅茶もいかが?
例年よりも冷え込んだ冬もお日様の勢力に負け始めたと見えてようやく春めいてきた定休日。
春メニューの準備に合わせての買出しから戻って『CLOSED』の札が下がった店の扉を開けると、そこは甘い香りが充満していた。
「あ、おかえりなさい」
おや、と思う間もなく飛んでくる明るい声。 カウンター向こうで何かしているらしい彼女。 どうやら甘い香りはそこから立ち上っているようだ。
「ただいま戻りました。 よい香りですが・・・どうしました?」
「いちごをたくさんもらったの。 あんまりたくさんだから今、ジャムにしてるわ」
問いかけに返された応えに添えられたすぐ近所の植物園スタッフの名前。 そういえばあの植物園の計画には彼も助言を求められて少しばかり口を出した覚えがある。 年齢問わずのお客さまと日々接する中から得られる嗜好や要求の情報と、専門家としてのアドバイスを、と請われたのだった。 彼の元々の専門は植物を中心とする生物学なのだ。
「まだ公開していない一角でオーナーのお子さんが育てたいちごがとんでもなく豊作なんですって」
キッチンの向こうに隠れた鍋に視線を戻した彼女がくすくすと笑いながら言葉を継ぐ。
「なんでも『かわいそうだから』って間引きしなかったらしくて。 ちーっちゃいいちごがジャングルよろしい緑の中にごろごろごろ、らしいわよ?」
古い友人でもある植物園のオーナーが熱のこもった口調で語った、『誰にとっても憩いの場で、ハーブやスパイス、フルーツなどを中心とするコーナーを作ってその収穫で健康と娯楽にも貢献してしまおう』というコンセプトに妙に受けてしまって楽しくいろいろと案を出した。 そういえばそのオーナーの、幼稚園にも満たない子どもがいちごいちご、と言ってヒートアップする会議の席ではしゃいでいたのもその時だった、とくすくす笑う。 町では見かけないくらい小さくて真っ赤な実にさぞかし喜んだことだろう。 そんなことを考えながら荷物を抱えてひょい、とキッチンを覗く。 甘い香りの発生源である大きな鍋の中は予想違わずみごとな深紅。
「ああ、これは・・・すごいですね」
思わず声が漏れる。 深紅に、ではなく鍋の大きさに。
「これでもいっぱいいっぱいなのよ。それで、まだ十分の一も収穫できてないって言うんだからもう、常識はずれったらないわ」
深さにして三十センチを優に超える特大の寸胴鍋から丁寧に灰汁をすくいながら彼女があきれたように、それでも楽しそうに肩をすくめる。 かなり火が通ったと見える鍋の中身は八分目ほど。 これでは最初はきっと縁ぎりぎりまで実があったことだろう。 それだけの量、収穫するのもたいへんだったろうが、彼が不在の間に全部下処理をしてここまできれいに煮詰めている彼女もたいしたものだ。
「こんなにたくさん入る空きビンは・・・ないですねぇ。 果実酒用の密封ビンでも探してこないと」
どこかずれた感想をもらすと彼女が楽しそうに笑う。 それをBGMに荷物を片付けていてふ、とみつけた物。 それでちょっとしたメニューを思いついてさっそく実行してみることにする。
「ジャムの上澄み、少し分けていただいてもいいですか?」
さりげなく手にした物を奥のコンロのほうへ置いて振り返るとすぐにどれくらい、と聞く声が戻ってくる。
「そうですね、大さじ三杯くらい・・・ああ、それで充分です。ありがとう」
煮込み鍋に比べたらおもちゃのようなホーローの片手鍋に真っ赤なシロップを分けてもらって。 別にお湯を沸かしながら早速作業に入る。
「何か思いついた?」
「せっかくのお届け物ですからね。一人で重労働させてしまったお詫びにいいもの、ごちそうしますよ」
苦労してジャムを作ってくれるあなたに、と笑うとお詫びってなによ、と笑顔とともにツッコミが入って。 軽い会話を楽しみながらとろ火にかけた鍋にさっきみつけたビンの中身を少しだけ注ぐ。
きらきらと輝くような透明の液体はかなり強い北方産のスピリッツ。 真っ赤ないちごの色を損なうことなくすっと溶け込んでしまう。 鍋をそのままにしてスピリッツのように透明なガラスのティーセットを用意してかすかに泡の立ったジャムをカップに注ぎ分ける。 ちょうど湧いたお湯で入れるブレンドティーもガラスのポットで。
鮮やかな色を底にたゆたわせたガラスのカップをカウンターに置き、紅茶をゆっくりとジャムの上から注いで。
ふわり、と。
柔らかくなったジャムが紅茶に不思議な模様を描き出す。
紅茶の紅、いちごの赤、種の濃茶。
一瞬きらり、と弾ける光がまるでいちご摘みにはしゃぐ子どもたちの笑顔のよう。 ゆらゆらと立ち上るいちごの香りと紅茶の淡さが小さな作り手の優しい想いを映しているようで。
「さ、どうぞ。 鍋は見ていますから、よく混ぜて飲んでくださいね」
「あら・・・ロシアン・ティーね? ジャムがいいと格別の香りだわ」
入れた人の腕がいいのももちろんね、とウインクしてみせる彼女に、やられました、と降参する。
甘い香り、甘い紅茶。
ふわふわと漂うのは楽しい情景ばかり。 春になったらハーブを摘んで。 花見もできるかな。 夏の炎天下には木陰がいい避難場所になるだろう。 秋にはきっと珍しいフルーツもたくさん生って。 そして冬にはまたこうやって春の香りいっぱいの紅茶を入れて次の季節の予定を話そうか。
「このほんのりな甘さが最高よね。 はいはい、それじゃ実がつぶれちゃうわ」
ほんの少しの時間でさらっと取り返されてしまった特大へらで再び鍋に対峙した彼女にカウンター向こうへ追い出され。 ふ、と思い出したような言葉が追いかけてくる。
「そういえば。 『次に来る時は最高の品、お届けします』って伝言があったわ」
思わず、ぎくり、と動きを止める。
そして一瞬向けられるおもしろがっているような視線。
「それで? なにを約束したの?」
あ、バレましたか、とにっこり笑顔に苦笑を返す。 こんなところからバレるなんて、隠し事はできないらしい。 だが、まだ夢の段階だから話していなかったささやかな計画を打ち明けるのにいい機会なのかもしれない。
「植物園のハーブを分けていただくことになってるんですよ。 そろそろ新メニューの研究に入ろうかな、と思いまして」
満足のいく品質のものが手に入らず、ずっと躊躇していたハーブ・ティー。 いつかメニューに載せられたら、といろいろと調べてはいた。 熱心に請われたからとはいえ、植物園の件で口出ししたのも実はその願いを叶えてくれる、という条件がついていたからだったのだ。
今度はどんな笑顔が見られるだろうか。
新しい出会いもあるかもしれない。
そんな風に考えるのはとても楽しい時間、だった。
「やっとハーブ・ティーにも進出? 楽しみだわ」
カップ片手に鍋の様子を見ながらの言葉。 思わずまじまじと見返してしまう。
「やっと、って・・・」
「あら、知ってたわよ。 あなたがハーブ・ティーの研究してたのなんて」
何年いっしょにいると思ってるの、ととびきりの微笑を向けられて小さく苦笑する。 どうがんばっても上手なのは彼女のほうらしい。
「それでは・・・これからハーブ・ティー用のポットやカップ、サーブの仕方を研究しなければならないんですが、ご協力願えますか?」
「そうね。 最初の一杯の優先権、くれるなら考えてあげる」
茶目っ気たっぷりの応えに思わず吹き出してカウンター越しに彼女の肩を軽く抱き締めて、当然じゃないですか、と笑う。
最初のハーブ・ティーはスタンダードなものから。 オリジナルは徐々に増やしていけばいい。
それでもどのメニューも最初の一杯は彼女のもの、なのだ。 彼にとってそれは譲ることのできない新メニューの条件。
彼女に気に行ってもらえない一杯がメニューに載ることは絶対に、ない。
楽しみにしてるわ、と返される笑顔に揺れる深紅の紅茶はまだ見えない未来をおぼろに映しているようだった。
古都鎌倉にロシア料理の専門店がありまして。 その店がお食事の後に出してくれるロシアン・ティーが大好きでした。 残念ながらそのお店はもう閉店してしまって、今はその店の味を伝える持ち帰り専門のピロシキ屋さんになってしまいましたが。 当時のロシアン・ティーに使われていたジャムも扱ってらっしゃいます。 好みの紅茶に洋酒でといた甘いジャムをひとさじ、それだけでほっこりした気分になれますね。
茶・夢のロシアン・ティーには北欧の水の名を持つスピリッツが使われていますが、これもお好みですよv
【ロシアン・ティー】
アレンジ・ティーの中ではスタンダード。 洋酒で溶いたフルーツジャムを濃い目に入れた紅茶に落としてホットで味わう。 寒い季節の定番だが、洋酒とジャムの甘さでそこはかとなくデザートのような充実感があってファンの多いアレンジでもある。