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アッサム(2)【Assam(2)】

 あら?

 いらっしゃいませ。

 ごめんなさいね、今日はマスターお休みなの。

 私のいれる紅茶はいかがかしら? ちょっとレアよ?(笑)

 火を落とすとかすかな音をたてていたポットがしん、とその音を止める。 洗い物も終わってテーブルもきれいに片付けた。 閉店時間まではまだ少しあるけれど今日はもう誰も来ないだろう、と彼女はカウンター内で点検に入る。 いつもはマスターがこなす仕事だが、今日ばかりはこれも彼女の責任だ。 明日はお休みだからガスや電気、その他の後片付けはいつもよりも慎重に。 そんなことを考えてふと、気づく。


「・・・そういえば・・・」


 キッチンの奥に置いてある冷蔵庫を開けてため息ひとつ。 思った通り、そこには未開封の牛乳パックが一本だけ残っていた。


「賞味期限は・・・ん~・・・」


 二日後の日付の刻印を確認して一度、ドアを閉める。 思わず、沈思黙考。

 休業日を明けてからでも一日は使えるが、それでもぎりぎり、というのがいただけない気がする。 ミルクは紅茶の味と香りを左右する重要な要素だからあの特有のミルク臭さが出てしまってはなんにもならない。 だからこそ、この店では紅茶の葉と同じく、ミルクも市販品の中で吟味していて、近所の地方酪農家が出しているローカルブランドのそれなりに高い品質でコストパフォーマンスのよいものを使っているのだ。


「明日もやってるならだいじょうぶなんだけど・・・どうしようかしら・・・」


 春らしくなってくるこの季節、冬の定番だったミルクティーのオーダーは目に見えて減っている。 またしばらくすれば復活するのだが、傾向がはっきりしている以上、あまり冒険はできないし、と首を傾げる。 だいたい、休業日明けにはまた新しい牛乳が届くのだ。

 そこまで考えて・・・急に浮かび上がってきた言葉。


『ほら・・・できたじゃありませんか。 とてもおいしいですよ』


 思わず笑ってしまう。

 そういえば、そんなこともあった。 まだ覚えていたなんて、と笑いつつ、どこかで忘れるわけがない、と知っていて。

 もう三年くらいになるだろうか、一生懸命にミルクティーを入れる練習をした時があった。 ただのミルクティーでは、ない。 ミルクの中では開きにくい紅茶の葉という特性をおして、一滴も水を使わないで入れる、究極のミルクティーだ。 それがおいしく入れられることにたったひとつの願いを賭けていた。 この店を始めるマスターについていくことを自分に許可するという願いを。 期限はその年のマスターの誕生日。 それがマスターへの誕生日プレゼントでもあったから。

 一人、笑みを含んで目を伏せる。 まだまだ未完成だったけれど、これ以上ないほどに気合を入れてコンロに向かったあの日。 たった一杯のために選んだ紅茶はアッサム・フルリーフ。 鮮やかな色と豊かな香りでミルクと最高の相性を誇る紅茶。 そしてミルクを使うことでより微妙になる繊細な香りや色の変化を逃さないように体調も整えて。 そこまでして臨んだ日、だった。


「なのに失敗したのよね~、みごとに」


 くすくす、と笑う。

 出来上がったのは薄く色づいただけのホットミルクだった。 わずかに茶色がかったように見える、香りも味もただのミルク。 チャイナボーンの白いカップに注いでもミルクティーには見えない、それ。 賭けに負けてしまったという事実に時間までが止まったように感じた。


『いっしょに考えてみましょう。 だからもう一度、入れてくれませんか?』


 茫然自失状態に届いたその声が頭に染みるまで少しかかったのを鮮明に思い出す。 あの言葉がなければきっと今の自分はいなかっただろう、と微笑む。


『アッサムなのは悪くないと思いますよ。 とすると問題なのは茶葉の種類ですね』


 そっと後押ししてくれる彼の言葉に失敗に萎縮する自分を叱咤してもう一度、挑戦した。

 品種は、いい。 ならばフルリーフよりも開きやすく、けれどフルリーフに匹敵するほどの個性を持ったアッサムはどの形だろう、と二人で考えた。 そして、選び直した同じアッサムでもCTCという種類の違う茶葉を使って再度コンロに向かって。 緊張に震えるスプーンから茶葉が零れないようにそっと添えられた大きな手はとても暖かだった。

 ゆっくりと対流を始める小鍋の中がわずかに香り立ち、淡く色が広がっていくのを固唾を飲んで見守って。 ぷつ、ぷつ、と小さな泡が立ち始める頃には両手をきつく組んで祈るような気持ちだった。 そして沸騰直前で火を止めた時、そこにはやさしい色に染まった、普通のアッサムよりも甘い香りのミルクティーがふわふわと揺れていた。 深呼吸して震えを押さえ、暖めた淡い象牙色のカップに注いで彼に差し出して。

 色も香りも思い描いた通りになったそれだったけれど、一口目を味わってもらうまではどうしても緊張が解けずにいた、最後の数瞬。 にっこり、と笑顔を向けられてほっとしたあまり、へなへなと力が抜け、不覚にも涙ぐんでしまった。 思えば、あまりにも純粋だった自分に苦笑する。


「でも・・・うまく誘導されちゃったわよね~・・・」


 つぶやいて、くすくす笑う。 こうしてあの時のことを我ながら微笑ましい、と思うくらいには余裕を持ってみられるようになると、わかる。 彼は失敗の原因と解決法を知っていたのに、彼女の決意と意地を優先させてくれたのだ、と。 そのためにその場で考えるかのようにうまく気持ちと知識を誘導してくれた。 素知らぬ顔でとんでもなく食えない男だ。 お人好しにも見えるおだやかで淡々とした外見と口調に騙されちゃだめよね、と思うものの、唇に浮かんだ笑みは押さえようがない。


「そんなところも好きなんだからしょうがない、っと・・・」


 照れ隠しのように言ってみて、勢いよく立ち上がる。 気づけばもう閉店時間。 表の戸締まりをしてもう一度ガスや電気を確認してから冷蔵庫の牛乳パックを取り出す。


「今日と明日はミルクティー漬けにしましょ♪」


 持帰り用の手提げにパックを入れて店を出て鍵をかけ、とっぷりと暮れた道を小さく歌など口ずさみながら歩く。

 マスターのいない一日。 ふとした拍子に思い出した、大切な想い出。 二人でならきっとどうにかなる、だからいっしょに歩いて欲しい、と言ってもらった、日。 きらきらと流れていく記憶に手提げの中のパックが心地よい重みで揺れる。

 二人分のミルクティーならパック一本くらいすぐ消費できる。 開店記念パーティーの後、風邪で寝込んでしまった彼にあの時のロイヤル・ミルクティーを入れてあげたら、どんな顔をするだろう。 ちょっと驚いた表情を見せてから笑ってくれるだろうか。

 そうしたら。

 悪戯っ気たっぷりにウインクして言ってあげよう。


「二人でいっしょにやろうって約束したのに、一人で頑張り過ぎよ、ってね♪」


 見上げた空には優しい色の朔の月。

 休業日明けにはまたいろいろな人が来てくれるだろう。 今度は彼といっしょに迎えましょう、と彼女は足を速めたのだった。

 (2)と銘打ってますが、今回はセイロンとは違って仕上げ方の違う茶葉をあえて、アッサムで(笑)

 いやまぁ、ミルクに合う紅茶ならどれでもいいんですけど。

 私としてはこの紅茶が一番、このいれ方に合っていると思っています。 好みの問題ですねっ♪


【アッサムCTC】

 種類自体はアッサム。 ただ、茶葉の仕上げ方が違う。

 茶葉を押しつぶし、ちぎってから丸め直す、という製法で、通常のリーフティーよりも強く濃い風味の紅茶を短時間で入れることを目的としている。 このため、紅茶の風味が出にくいミルクメインのミルクティーやアレンジティーとの相性がよい。


【ロイヤル・ミルクティー】

 ミルクで入れる紅茶。 イギリスでは午後のお茶としてもポピュラー。

 ミルクだけでは茶葉はうまく開かず、煮出し過ぎて苦みが出ることもある。 そのためか、水とミルクを四対六、ほとんどがミルクでもあらかじめ茶葉を熱湯少しで開かせておく、などさまざまなレシピがある。 一滴の水も使わず、ミルクだけで煮出したロイヤル・ミルクティーは究極、と言えるだろう。

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