ダージリン【Darjeeling】
紅茶が好きです。
リーフのお茶をのんびりとポットで淹れてお気に入りのカップで、なんて時間が大好き。
いろんなことを忘れそうに忙しい毎日、ほっとリラックスする時間はいつだって、なんてことのない日常。
そんな時間にとりとめもなく流れる想いを紅茶に託して、紅茶専門店での小さな風景にしてみました。
ちょっと立ち寄って休んでいってくださいね。
「な? 有名じゃなくてもうまいだろ? ダージリンなんて名前だけさ」
最近気に入って通っている紅茶専門店の片隅で、ぼくはさも紅茶に詳しいような顔してそう言う。 なにせ今日は連れがいて、しかもそれがかわいくてしかたない妹ときたらいいかっこ、してみたいわけだ。
素直に喜んでいる妹に上機嫌になってしまう。 友人たちと出かけるというのを少し早く出てここまで連れてきた甲斐があったというものだ。 実はそんなに紅茶に詳しいわけじゃあ、ない。 紅茶かぶれのゼミの女の子たちがそんなことを言っていたから、受売りしただけだ。 だいたい、ダージリンなんて、専門店だとどこでも桁が違って学生がおいそれと手を出せるもんじゃない。 ぼくとしては、妹が友人に自慢できる兄でいられればよかったんだ。
そして、それは迎えに来た友人連に妹が合流するのを見届けた後に起こった。
「妹思いの優しいおにいさん、どうぞ」
いつの間にきたのかすごい美人の女性がぼくの前に手にしたカップを置いた。
「あ、ありがとう・・・?」
店のウェイトレスさんだけど、いつも忙しそうで一人で来ているぼくが彼女にお茶を運んでもらうことは珍しい。 一人の客にはたいていマスターが入れたてを持ってきてくれるからだ。
なんだかよくわからなかったけど、紅茶一杯で結構長居してたし、機嫌もよいし、で大らかになっていたぼくはそう応えて置かれたカップに注意を向ける。 ほんわり、とえもいわれぬ香が漂っている。 これは・・・なんて、フルーティでさわやかなんだろう・・・ウンチクたらたらでさっきまで飲んでいた紅茶とは雲泥の差の香気だ。 こんな紅茶があったのか、と勉強不足なんざ棚に上げて尋いてみる。
「さっきあなたが名前だけ、と言った紅茶よ」
魅惑的な微笑みと共に返ってきた応えに伸ばしかけた手が止まる。
な・・・んだって・・・?
「ダージリン・ファーストフラッシュ。ダージリンの中でも最高の品よ」
そ、そんなことを平然と言わないでほしい。 ただのダージリンだって学生に手の出るもんじゃないんだぞ?!
完全に動きの止まったぼくをどう思ったか、女性が苦笑して言う。
「気楽に楽しんでくれればいいんだけど」
気楽って・・・気楽に飲める紅茶じゃないってば!
一体、いくらするんだ、そんな貴重品?
いくらだろうと、ぼくに払えるようなもんじゃないに違いない。 きっとぼくが不用意に『名前だけ』なんて言ったもんだから腹をたてたんだ。
ぐるぐる回り始めた思考に、気分はほとんど鏡の前のガマ、になった頃、もう一人、別の声がかかる。
「私からのプレゼントですよ。 支払いは気になさらず、飲んでください」
新たな声の主にぼくはようやく顔をあげてその人物を確かめる。 こっちを見て穏やかに微笑んでいたのは通っているうちに顔見知りになったこの店のマスターだった。
「だいじょうぶよ。 この人は見返りを期待するような人じゃないから」
くすくすと女性が笑う。 だが、こんなとんでもないプレゼントをもらういわれのないぼくは慎重に言葉を選ぶ。 と、言っても、他に選択肢はなかったけど。
「・・・どうして、ぼくに?」
その問いに女性がくすくすと実に魅惑的に笑って。 応えてくれたのはマスターの方。
「名前だけかどうか、ご自分で確かめていただきたかったんですよ」
それに続けて女性が言う。
「揺らがない名声なんて、本物にしかついてこないものよ」
・・・殴られたような、ショックだった。
そうだ。 この店は紅茶の専門店なんだ。 しかも、その紅茶の質の高さで通の間では有名だという・・・そんな店で名前だけの紅茶を置いている訳がない。 そんなプロの前でぼくは何を知ったかぶりして・・・
堂々巡りを始めたぼくにマスターがやっぱり穏やかに微笑む。
「本物のダージリンはけっして名前だけじゃないことを知っていただきたかったんです。 もちろん、好みはありますけど」
ああ・・・それで、ぼくに・・・こんな若造に本物の味を教えてくれようとして・・・
マスターは本当に紅茶を愛してるんだ。 素直にそう、思った。 だから今度はゆっくりと、慎重にカップに手を伸ばす。
淡い、金色の紅茶。
緊張さえときほぐしてしまう豊かな香気。
それを充分に味わってから、一口、含む。 広がる繊細な味わいと香りにくらくらしてしまう。
これが、ダージリン・・・
名前だけ、なんてとんでもない。これは、本物の・・・
「ふふっ。 おいしいでしょ?」
女性の言葉にただ、無言でうなづく。 おいしい、なんてもんじゃ、ない。 これが、同じ紅茶なんて信じられないくらいだ。
「普通に販売されているダージリンはブレンドされたものがほとんどです。 そういうのは確かに名前だけの紅茶ですが、本物はこんなに鮮烈なんですよ。 ピュア・ダージリンは名実ともに三大紅茶の一なんです」
穏やかにマスターが言うのを女性が受ける。
「ほんとはそんなに高いものじゃなかったのに、産出量が少なくって珍重するもんだからこんな値段になっちゃうのよね」
そして実にさまになったため息をついて、ひと言。
「ダージリンだって、もっと気軽に味わって欲しいでしょうに」
・・・そうか。 だから『気楽に』って言ってくれたんだ。 貴重品だとか値段とか考えたら本当のダージリンなんてわからなくなってしまうから。
ぼくは深呼吸して、そんな前知識を頭から追い出す。そして、もう一口。 今度のダージリンはなんだか無邪気で元気な女の子みたいなイメージだった。
紅茶専門店「茶・夢」からの最初の一杯は紅茶の女王、ダージリンです。
書いてる人、単なる紅茶好きの素人ですので専門知識はございません。
おいしい、と思った紅茶に浮かんできた情景、ということでゆったりくつろいでいただければうれしいです。
[2013/12/14] 本文のスペース、改行をちょっと直しました。 ご指摘ありがとうございます。
【ダージリン】
世界三大銘茶のひとつ。 インド北東部、ヒマラヤ山麓のダージリン地方で産する。 淡い金色のお茶でフルーティなマスカットフレーバーが特徴。
春摘み(ファースト・フラッシュ)・夏摘み(セカンド・フラッシュ)があり、栽培茶園や葉の部位によってもグレードがある。
極めて産出量の少ない名実共に紅茶の女王である。