外伝短編|はじめて、靴を脱いだ日
成田空港に着いた時、ガラスの向こうの空は、思っていたより白かった。
アメリカを出る前に見ていた写真では、東京はもっと光って見えた。
高いビルが並ぶ。
夜の色がずっと続く。
駅には人が溢れていて、その全部が速く動いているように見えていた。
けれど、空港の外へ出た最初の印象は、
「白い」だった。
晴れているわけでもない。
曇っているのとも少し違う。
光が薄い膜みたいに広がっていて、
地面も、壁も、停まっているバスも、
その白さをどこかに乗せていた。
スーツケースの取っ手を引いた手が、少しだけ汗ばんでいる。
自分は、本当にここで暮らすのだと思った。
迎えに来た不動産会社の男は、胸元に小さな社名入りの札を下げていた。
黒いスーツ。
よく通る声。
英語はほとんど話せないらしく、用意してきた紙を何枚か見せながら、
「アパート」
「駅」
「スーパー」
と、単語だけを並べた。
こっちも、まともな日本語はほとんど話せない。
それでも、会話はなんとか進んだ。
男は何度も頭を下げた。
ありがとうの意味なのか。
すみませんの意味なのか。
それとも、ただの挨拶なのか。
まだ分からない。
車に乗ってしばらくすると、窓の外の景色が少しずつ低くなっていった。
派手な看板が減って、細い道が増える。
住宅街らしい場所に入ると、建物と建物のあいだが妙に狭い。
電柱が多く、空の面積が思ったより少ない。
その途中で、彼は最初のそれを見た。
白い箱みたいな機械が、道の途中にひとつだけ立っていた。
明るい。
脇に誰もいない。
店でもない。
屋根もない。
なのに、光っている。
自動販売機だった。
それ自体は知っていた。
アメリカにもある。
けれど、空港でも駅でもなく、住宅街の途中に、突然ひとつだけ置かれているのは初めて見た。
隣にベンチがあるわけでもない。
待ち合わせの場所にも見えない。
人が溜まる気配もない。
それなのに、ある。
男はハンドルを握ったまま、
「ベンディングマシン」
と言って笑った。
たぶん、彼の視線の動きに気づいたのだろう。
こっちも笑ったが、視線はしばらくそこに残った。
どうしてこんな場所にあるのか、ちゃんと知りたい気がした。
アパートは、駅から歩いて10分ほどの、2階建ての古い建物だった。
外壁は少し褪せたクリーム色。
階段の金属は、ところどころ黒くなっている。
2階の角部屋。
鍵を開けてもらい、中へ入ろうとして、彼は入口のところで止まった。
床の高さが、途中で切り替わっていた。
手前の少し低い場所に靴を置くらしいことは、写真か何かで見たことがあった。
けれど、実際に立つと、その境目が思っていたよりはっきりしている。
ここまでは外。
ここからは中。
たった数センチの段差なのに、意味がきっぱり分かれているように見えた。
男が自分の靴を脱いで見せる。
彼も慌てて靴紐に手をかけた。
飛行機の移動で少し浮腫んだ足が、靴の中で重い。
片足を脱ぎ、
もう片方を脱ぎ、
どこに揃えればいいのか、一瞬迷う。
つま先を外へ向けた方がいいのか。
中へ向けた方がいいのか。
それすら分からない。
男は特に何も言わなかった。
ただ、少し待っていた。
その待ち方が妙に静かだった。
部屋の中は思ったより狭かったが、きれいだった。
フローリングは明るい色で、窓際には細いカーテンがかかっている。
キッチンはひとり分のサイズで、流し台の横に小さなコンロが1口。
冷蔵庫を置くための四角い空間が、最初から壁際に空いていた。
男は風呂場の説明をして、トイレのドアを開け、湯沸かし器のボタンを指で押して見せ、最後にまた何度か頭を下げた。
その全部に頷きながら、彼は半分も分かっていなかった。
でも、分からないことの量より、分かろうとしている自分の方がはっきりしていた。
男が帰ったあと、部屋は急に静かになった。
外から、どこかの家のテレビの音が少しだけ聞こえる。
意味は分からない。
高い声。
笑い声。
短い音楽。
窓の外では自転車のブレーキが鳴り、すぐに遠ざかった。
彼は玄関の方を振り返った。
脱いだ靴が、段差の下に置いてある。
それだけのことなのに、その光景が、
自分はもう外から来たばかりの旅行者ではないのだと、静かに告げているように見えた。
翌朝、最初に困ったのはコンビニだった。
駅前の小さな店に入ると、入口の少し上から明るい声が一斉に降ってきた。
「いらっしゃいませ」
それが自分に向けられた言葉だとは分かった。
けれど、何を返せばいいのか分からない。
ハイと答えるべきなのか。
Helloなのか。
何も言わないのが普通なのか。
結局、何も返さないまま店内を歩いた。
白い蛍光灯がまっすぐ並んでいて、棚の商品はどれも正確に前を向いていた。
おにぎりの包装には知らない文字が並んでいる。
パンは見たことのある形に近いが、中身が違う。
焼きそばパン。
たまごサンド。
あんぱん。
雑誌の表紙には鮮やかな色が多いのに、店全体はなぜか静かだった。
客は数人いたが、誰も大きな声を出さない。
買い物かごが軽くぶつかる音。
冷蔵ケースの低い唸り。
それだけが続いている。
飲み物の棚で立ち止まる。
お茶の種類が多すぎて、何が普通なのかが分からない。
ラベルの緑色も、濃いものと薄いものがある。
甘いのか、甘くないのか、その判別もつかない。
とりあえず水と、ハムの入ったパンを持ってレジに行った。
店員は若い女性だった。
透明な声で何かを言ったが、半分しか聞き取れない。
袋のことだと分かったのは、彼女が片手で白いレジ袋を少し持ち上げて見せたからだった。
彼は少し遅れて、
「あ、はい」
と言った。
その「あ」が、変な位置で口から出た気がした。
女性は表情を変えずに会計を進める。
レシートを渡される。
温かいものと冷たいものを分けるかどうかも聞かれた気がしたが、もう判断が追いつかない。
店を出たあと、袋の中に小さなおしぼりが入っているのを見つけた。
どうして食べる前に手を拭くためのものが、こんなふうに当然みたいに入っているのだろうと思った。
パンをかじりながら駅まで歩く。
遠くで踏切の音が鳴っている。
道の途中に、また自動販売機がある。
今度は赤い色だった。
缶の絵の横に、温かいという文字が見える。
温かい飲み物が、外の機械で売られている。
それだけで、少し立ち止まりたくなる。
彼は100円玉を2枚入れてみた。
出てきた缶は、本当に温かかった。
金属の丸い熱が、掌の中にすぐ伝わる。
缶の表面には細かい水滴ではなく、乾いた熱が残っていた。
歩きながらひと口飲む。
甘い。
コーヒーだが、想像していたよりずっと甘い。
それでも、嫌ではなかった。
数日後、職場の同僚に朝食へ誘われた。
小さな定食屋で、入口の引き戸を開けると、出汁の匂いが空気の奥に溜まっていた。
焼いた魚の匂い。
味噌の匂い。
湯気。
金属の盆がぶつかる音。
カウンターの向こうで、年配の女性が忙しく動いている。
出てきた朝食を見て、彼は少しだけ黙った。
白いご飯。
味噌汁。
ベーコンエッグ。
漬物。
海苔。
ベーコンエッグだけが、知っている朝食だった。
だが、それが米と並んでいる。
味噌汁の湯気が、黄身の上を横切っていく。
隣の同僚は、ごく自然に箸を取って、
ご飯を口に運び、
次に味噌汁を飲み、
その流れで卵を崩した。
彼も真似をした。
口の中で、塩気と油と米が一緒になる。
おかしいわけではない。
むしろ、合っている気もする。
けれど、自分の中の「朝食」の箱が、少しずつずれていく感覚があった。
同僚が何か話しかけてくる。
日本語が速くて、全部は聞き取れない。
彼は途中で愛想よく笑い、分かったふりをしてしまう。
すると同僚も笑い、そこから先をもう説明しなかった。
話が終わったのか。
終わっていないのか。
その境目が分からない。
でも、その曖昧さごと、会話は成立しているようだった。
その週の土曜、同僚のひとりの家へ招かれた。
駅から少し離れた、静かな住宅街。
外壁の薄いグレー。
小さな庭。
門の横に表札。
呼び鈴を押すと、中から軽い足音が近づいてくる。
ドアが開いて、においが先に出てきた。
醤油。
煮た野菜。
洗った布の匂い。
それが少し混ざっている。
「どうぞ」
と言われて入ろうとして、また玄関で止まる。
今度は前より、少しだけ迷わなかった。
靴を脱ぐ場所も、置く向きも、最初の日よりは自然に近い。
けれど、家の中に入ったあと、また別の止まり方があった。
廊下の途中、トイレの前にスリッパが2足並んでいた。
それは来客用のスリッパとは少し違う素材に見えた。
色も違う。
家主が、
「あ、それトイレ」
と言って笑うまで、彼はただ見ていた。
トイレのためだけのスリッパ。
その発想に驚いたのか。
自分が今どこで止まっているのかに驚いたのか。
少し分からなかった。
用を足して出てきたあと、履き替えたスリッパをどこに戻せば正しいのか、一瞬だけまた分からなくなる。
向きまで揃えるべきかどうか考えているうちに、家の中から食器の触れ合う音が聞こえてきた。
テレビではニュースが流れていた。
明るすぎない声で、何かの数値を読み上げている。
彼は慌ててスリッパを揃えた。
食卓には皿がいくつも並んでいた。
大皿ではなく、小さな器がそれぞれ置かれている。
焼き魚。
ほうれん草のおひたし。
味噌汁。
白いご飯。
箸置きがあり、箸の先はそこにきちんと乗っていた。
家主の母親らしい女性が、
「たくさん食べて」
と言って、にこやかにご飯をよそってくれる。
その量が思っていたより多く、彼は驚いたが断り方が分からない。
隣に座った子どもが、何も言われなくても自然に、
「いただきます」
と言った。
その言葉の意味は知っている。
けれど、食べる前に全員でその一言を置くことが、ただの習慣以上のものに見えた。
食事が進むにつれて、会話は短く続いた。
天気のこと。
仕事のこと。
電車のこと。
どれも短く、すぐ終わる。
それでも、途切れた感じがしない。
話題が移るというより、流れの上を少しずつ滑っていくみたいだった。
彼はその夜、自分が何度も驚いていたことに疲れていた。
疲れてはいたが、嫌ではなかった。
むしろ、身体の中のどこかがずっと起きている感じがした。
靴を脱ぐ時。
レジで少し遅れる時。
温かい缶コーヒーを握る時。
ベーコンエッグの隣に味噌汁があるのを見る時。
トイレの前のスリッパで止まる時。
ひとつひとつは小さいのに、どれもちゃんと引っかかる。
部屋へ戻る頃には、夜の空気が少し湿っていた。
駅前の店はまだ明るい。
コンビニの白い光が歩道にこぼれている。
自動販売機の赤と青が、細い路地の途中で静かに光っている。
遠くで電車が通り、金属の擦れる音が遅れて届く。
彼はアパートの階段を上り、鍵を開け、玄関の前で立ち止まった。
少しだけ息を吐いてから、靴紐を解く。
今日もまた、ここで靴を脱ぐ。
まだ慣れていない。
でも、そのたびに、自分の身体がこの国の入口で一度だけ止まることを、彼は少し好きになり始めていた。
部屋に上がる前に、彼は脱いだ靴を見た。
つま先が、外を向いていた。
⸻
朝、最初に鳴るのは炊飯器だった。
短く、乾いた電子音。
そのあとに、保温へ切り替わる小さな光がつく。
キッチンの窓はまだ半分だけ薄く、外の空気は白に近い灰色だった。
夜が消えきる前の、やわらかい明るさが流し台の縁にだけ乗っている。
フライパンの上で、ベーコンの脂が小さく跳ねた。
卵を落とす。
白身がじわりと広がり、透明だった部分がゆっくりと白に変わっていく。
その横で、鍋の中の味噌汁が静かに温まっていた。
湯気は細く、まっすぐだった。
彼は炊飯器の蓋を開けた。
白い湯気が上がる。
しゃもじを差し入れる。
米の重さが手首に伝わる。
皿を出す。
茶碗を置く。
汁椀を置く。
箸を置く。
ベーコンエッグ。
白いご飯。
味噌汁。
20年前なら、一度はその並びを見ていたはずだった。
今は見ない。
ただ、置く。
位置も、順番も、手が先に知っている。
箸先が皿に当たる小さな音。
味噌汁の表面に薄く張る膜。
ベーコンの端だけが少し濃い色に焼けている。
その全部を見ているのに、何も止まらない。
彼は座って、ひと口目を口へ運んだ。
塩気。
熱。
米の甘さ。
全部、よく知っている。
知っているというより、身体の方がもう疑っていない。
食べながら、窓の外を見る。
向かいの家のベランダには、まだ洗濯物は出ていない。
隣の建物の白い壁に、朝の弱い光が平たく貼りついている。
道の向こうを、制服姿の中学生が2人、自転車で通っていく。
何年住んでも、朝の住宅街は静かだった。
けれど、その静けさに最初に驚いていた自分の方は、もう少し遠くにいる。
食べ終わって立ち上がる。
食器を流しに置き、
水を出す。
銀色の流し台に、細い水音が跳ねる。
スポンジの黄色。
洗剤の透明な泡。
朝の光を受けた蛇口の鈍い反射。
そのどれにも、目は触れる。
でも、引っかからない。
玄関に向かう。
靴を履く前に、室内履きを揃える。
来客用のスリッパが少しずれていたので、つま先の角度だけを揃えた。
無意識に、
指先が先に動いていた。
ドアを開ける。
外の空気は、まだ少し冷えている。
昔は、家の中と外の境目が、もっと大きな意味を持って見えていた気がする。
ここまでは中で、ここからは外。
靴を脱ぐ場所。
靴を履く場所。
床の高さ。
あの頃は、その数センチにいちいち身体が止まった。
今は、考えない。
足裏も、手も、重心も、もう迷わない。
駅へ向かう途中、住宅街の角に自動販売機がある。
白い機体に、赤と青の表示。
春と夏のあいだみたいな曖昧な空の下で、それだけが少し人工的に光っている。
20年前は、こんな場所に立っているだけで不思議だった。
誰もいない道の途中。
店でもない場所。
屋根もない外。
なのに、明るくて、飲み物が並んでいて、温かい缶まで出てくる。
今は、その横を通る。
何が売られているのかも見ない。
見なくても、だいたい分かる。
黒い缶コーヒー。
甘い缶コーヒー。
水。
お茶。
季節のラベル。
視線は向く前に終わる。
それは景色になった。
通勤の人波に混じる。
改札の前の電子音が、規則正しく重なっている。
ホームに入る風。
ブレーキの擦れる音。
遠くのアナウンス。
それももう、生活のノイズとして均されている。
会社に着く。
エレベーターの鏡に、自分の顔が少しだけ疲れて映る。
若い頃より、輪郭の角がなくなった気がする。
髪には少しだけ白いものが混じっている。
でも、それより先に目につくのは、ネクタイの曲がり具合や、シャツの襟の位置だった。
昼休み、給湯室の近くで同僚に声をかけられた。
「この前、外国の人に道聞かれてさ」
紙コップのコーヒーを持ったまま、同僚が笑う。
「自販機が多すぎて面白いって言ってましたよ。あと、靴を脱ぐのも。」
彼も少し笑った。
「まだ、そう思うんですね。」
自分でそう言いながら、少しだけ間が空いた。
口にしたあとで、自分の中に小さな遅れが出る。
自販機。
靴を脱ぐこと。
玄関。
味噌汁。
朝の米。
どれも、たしかに最初は引っかかっていた。
でも、その引っかかりがどんな形だったかを、すぐには思い出せない。
同僚は続ける。
「トイレのスリッパとか、意味分からないって言われました。」
彼は、もう一度笑った。
「ああ」
それしか出なかった。
おかしいはずなのに、そのおかしさの輪郭がすぐには浮かばない。
思い出せるはずなのに、思い出すまでに少し時間がかかる。
まるで、意味が一拍遅れて届くみたいに。
午後の仕事が終わる頃には、窓の外が少し青くなっていた。
白かった昼の光が、夕方に近づくにつれて薄い群青を混ぜ始める。
パソコンを閉じる。
デスクの上を整える。
付箋を揃える。
ペンを戻す。
椅子を入れる。
どの動作も静かで、無駄がない。
昔なら、こういう“整っていること”を褒められると、どこかで安心したかもしれない。
今は、それすらあまり届かない。
帰り道、駅前で寿司を買った。
透明な蓋の内側に、少しだけ曇りがついている。
サーモンの橙。
マグロの赤。
酢飯の白。
レジの横では、明るすぎない声でキャンペーンの案内が流れていた。
彼は会計を済ませ、袋を受け取り、そのまま帰る。
冷蔵庫を開ける。
寿司を入れる。
炊飯器の予約ボタンを押す。
翌朝の時刻を確認する。
それだけだった。
昔は、寿司は文化だった。
米も文化だった。
味噌汁も文化だった。
今は、ただの晩飯と、明日の朝食になる。
良いとも悪いとも思わない。
思う前に、生活の中へ沈んでいく。
その夜は、知人の家へ少しだけ顔を出した。
昔からの付き合いで、もう説明の要らない間柄だった。
玄関の灯りはやわらかい橙色で、廊下の先は少し暗い。
靴を脱ぎ、揃える。
その動作に、意識はほとんど乗らない。
部屋の中から、皿の当たる音がかすかに聞こえる。
誰かの笑う声。
テレビの低い音。
醤油の匂い。
炊いた米の甘い熱。
廊下を進み、途中でトイレに寄る。
ドアの前に置かれたスリッパへ、足が自然に向く。
履き替える。
何も考えない。
用を足し、出て、また履き替える。
元の位置へ戻す。
左右の角度まで、指先が静かに揃える。
その時になって、ふいに思い出す。
昔は、ここで止まっていた。
トイレのためだけのスリッパがあること。
履き替えて、また戻すこと。
戻す場所まで気にすること。
あの頃は、そのたびに少しだけ世界がずれて見えた。
今は、ずれない。
ずれないことにすら、少し遅れて気づく。
食卓へ戻ると、テレビのニュースが流れていた。
『円滑な意思疎通が評価され――』
均一な声だった。
『快適な生活導線の整備が進み――』
誰かが麦茶を注ぐ。
氷が小さく鳴る。
味噌汁の湯気が、器の上で細く揺れる。
彼は席に座り、箸を取った。
ニュースの言葉は耳に入る。
でも、深くは残らない。
寿司をひとつ口へ運ぶ。
酢の匂い。
少し冷えた米。
魚のやわらかさ。
その向こうで、20年前の自分が一瞬だけ浮かぶ。
何にでも理由を探していた。
どうして靴を脱ぐのか。
どうして温かい缶コーヒーが外で売られているのか。
どうして朝に米を食べるのか。
どうしてトイレの前で履き替えるのか。
面倒だった。
疲れた日もあった。
でも、毎日どこかが少しずつ動いていた。
今は困らない。
迷わない。
間違えない。
日本での暮らしはきれいに回っている。
きれいに回りすぎて、通り過ぎるだけになったものもある。
それが何なのか、まだうまく言葉にはならない。
ならないまま、彼は箸を置く。
もう一度、立ち上がり、
廊下へ出る。
さっき使ったトイレの前で、スリッパが少しだけずれていた。
彼はしゃがみ、元の位置へ戻した。
角度を揃える。
その動作だけが、妙に正確だった。
静かで、迷いがない。
戻し終えて立ち上がる。
そのまま食卓へ戻る。
誰にも何も言わない。
味噌汁の湯気だけが、白く、細く、上がっていた。




