番外編 お見合い被害記録帳
子どもが生まれる前に、身の回りを少し片づけましょう。
そう言い出したのは母だったけれど、賛成したのは意外にもリヒャルトだった。
「今のうちに済ませておいたほうがいいでしょう。生まれたら、しばらく落ち着きません」
そんなもっともらしいことを言っていたが、実際には私が産後に無理をしないよう気を回しているだけだと知っている。
本当にこういう人は、優しさをいちいち大げさに見せないから困る。
私は自室の棚や引き出しをひっくり返しながら、座ってできる範囲でのんびり整理をしていた。
重いものを持つな。
高いところに手を伸ばすな。
疲れたらすぐ休め。
何かあれば人を呼べ。
そのあたりは夫と屋敷中の人間に、しつこいほど言い含められている。
まるで私は、繊細な硝子細工か何かだ。
いや、まあ、今のお腹を見ると少しは仕方がないのかもしれない。
丸く膨らんだそこをそっと撫でると、中の子が小さく動いた気がした。
「あなたのお父様、本当に心配性なのよ」
そう囁いてから、私は古びた箱を引き寄せた。
見覚えのない箱だった。
というより、見覚えがあるのに見ないふりをしていた箱というべきかもしれない。
蓋を開けると、古いレースの手袋や使わなくなった髪飾りに混ざって、一冊の薄い手帳が出てきた。
深緑の革表紙。
角が少し擦れている。
私はそれを見た瞬間、うわっと声を上げそうになった。
「……まだ残っていたの」
表紙を開く。
そこには見慣れた自分の字で、やや荒れた筆圧の一文が書かれていた。
『お見合い被害記録帳』
「燃やし忘れてた……!」
思わず額を押さえた。
ちなみに自分の中でのこの記録帳の正式名称は、お祖母様への恨み言日記である。
万が一ばれでもしたら喧嘩の種なので、自重した結果がこれだった。
若気の至りという言葉では済まされない。
あの頃の私は毎回お見合いのあと、腹いせのようにこの手帳へ記録をつけていたのだ。
何を着せられたか。
相手がどんな顔をしていたか。
何が無理だったか。
そして最後に必ず、お祖母様への恨み言を一行添える。
今思うと最低である。
いや、当時は当時で切実だったのだけれど。
そっと最初のほうをめくる。
『第三回お見合い
エドガー卿。
会話の途中で前髪の向きが変わった。たぶんおでこに乗ってる。風が吹いたら終わるわね、あれは。
好きな花を聞かれたので白薔薇と答えたら、母上も白薔薇がお好きですと返された。貴方自身はどうなの?
結論。結婚したら夫ではなく夫の母と暮らすことになる予感。
お祖母様へ。私を何だと思っているのですか?』
私は顔を覆った。
「ひどい……いや、事実だけど……」
さらにめくる。
『第六回お見合い
ルイス卿。
香水の匂いが強すぎて近づくと頭が痛くなりそう。
私が紅茶に砂糖を入れなかっただけで、甘いものは苦手ですかと聞いてきた。違う。今は気分ではなかっただけ。
趣味は何ですかと聞いたら、さて何だろうなと返した。
この男は本当に十も年上なのですか?
ねぇ、お祖母様?
しかも一度断れば終わる約束だったのに、その後もずるずる引き延ばされた。最悪。
お祖母様へ。本当に勘弁してください。悲しくもないのに、どうしてか涙が止まりません』
そこは少し字が滲んでいた。
あの時期のことを思い出して、私は小さく息をつく。
さすがに今となっては笑い話にできるけれど、当時は本気でつらかった。
理由もないのに涙が出ることがあるなんて、あの時の私は知らなかったのだ。
ぱらぱらと先へ進める。
『第九回お見合い
バルト卿。
会って三分で、女子教育は不要だと思うと言われた。
では本日は何をしに来たのだろう?
だって私は王立女子学園を出た身なのだが……。
お祖母様へ。次は私に相手を選ばせてください』
『第十一回お見合い
フェイト卿。
歯に青菜が挟まっているではないか。
そしてそれを指摘できるほど私は度胸がなかった。
お祖母様へ。せめて見合いの場で最終確認を忘れる人間はやめてください』
『第十三回お見合い
ハーベルト卿。
顔は悪くない。会話も最初は普通。
だが使用人に対する口のきき方が最低だったので、全て終わり。
お祖母様へ。家柄より先に人間性を見てください』
私はだんだん笑えてきてしまった。
「我ながら根に持ちすぎでは……?」
けれど、その次の頁で手が止まる。
『第十六回お見合い
キースハルト卿。
今日の相手は悪い人ではなかった。
ただ、私が何を言っても笑って流した。
嫌だと言っても、まあまあで済ませてしまう。
たぶんこの人と結婚したら、私は少しずつ自分が消えていく。
悪い人ではないのに駄目というのが一番つらい。
お祖母様へ。私は、無理なものは無理なんです』
それを読んで、胸の奥が少しだけきゅっとなった。
あの頃の私はずいぶん尖っていた。
文句も多かったし、可愛げなんて欠片もなかった。
でも同時に、必死だったのだ。
自分の人生を、自分で諦めてしまいたくなかった。
さらに後ろへめくっていく。
そして、見つけた。
『最終回になるといいお見合い。
リヒャルト・エーヴェルス卿。
顔が良い。困る。
声も良い。困る。
話が通じる。もっと困る。
私の嫌がることを、わがままだと笑わなかった。気味が悪いくらい真っ当。
この人は変人かもしれない。
でも今までで一番ましどころか、かなり良い気がする。
お祖母様へ。悔しいけれど、今回ばかりは少しだけ感謝するかもしれません』
その次の頁には、もっと小さな字で追記がしてあった。
『追記
やっぱりかなり良い。
甘いものを出すと言われた。何故そこまで女心に的確なのか。
意味がわからない。
怖い』
私はとうとう声を出して笑ってしまった。
「何が怖いよ……」
「何が怖いのですか」
不意に声がして、私は飛び上がりかけた。
振り返ると、開け放した扉のそばにリヒャルトが立っていた。
いつからいたのだろう。
足音がしないのは相変わらずである。
「びっくりした!」
「すみません。お茶を持ってきただけです」
彼の手には盆があった。
湯気の立つ紅茶と、小皿には焼き菓子が載っている。
しかも私の好きなものだ。
「……本当に、貴方はそういうところがね」
「何か問題が?」
「問題しかありません」
言いながらも受け取ると、彼は自然に私の隣へ腰を下ろした。
大きな手が私のお腹へそっと触れる。
「今日はよく動いていますか」
「さっき少し」
「そうですか」
その顔がやわらかくほどける。
相変わらず、外では無愛想なのにこういう時だけ隠しきれない。
私は慌てて手帳を閉じた。
だが遅かったらしい。
彼は表紙を見て、わずかに首を傾げる。
「日記ですか?」
「違います」
「では帳簿?」
「もっと違います」
「そんなに慌てると気になります」
「気にしなくていいの!」
私は手帳を抱え込んだ。
彼はしばらく私を見ていたが、無理に取り上げようとはしなかった。
「見せられないものですか?」
「ええ。絶対に」
「私にも?」
「その……特に貴方には」
「なぜ」
「貴方が読んだら、たぶんしばらく顔を見られなくなるからです」
そう言うと、彼は少し考える顔をした。
「私に関することも書いてある」
「……あります」
「悪口ですか?」
「最初はちょっと」
「今は?」
「今は……違います」
彼の口元がごくわずかに緩んだ。
その程度の笑みでも、もう長く一緒にいる私はちゃんとわかる。
「では、無理に見ません」
「本当に?」
「ええ」
「珍しい」
「ただし」
「ただし?」
「いずれ、あなたが笑って見せてくれる日が来るなら、その時は読みます」
「来ません」
「そうですか」
「来ませんったら!」
私はぷいと横を向きながら、焼き菓子をひとつ口に入れた。
ちゃんと美味しい。
悔しい。
手帳を膝の上で撫でながら、最後の頁を思い出す。
婚約後に一度だけ書き足したものだ。
『お見合いから逃げ回っていたのに、最後に捕まった相手が最高の男だった。
なんでこうなったのかわからない。
だが悔しいことに幸せである。
お祖母様へ。見る目があったのですね。少しだけ認めます』
……これはやはり、見せられない。
私が黙っていると、リヒャルトが静かな声で言った。
「捨てるのですか」
「え?」
「その手帳です。さっき、燃やし忘れたと聞こえました」
「聞こえてたのね……」
「ええ」
私は少し迷ってから、肩をすくめた。
「どうしようかと思ってたの。黒歴史ですもの」
「では燃やしますか?」
「そうね……」
そこまで言って、私はふと手帳を見下ろした。
昔の私は必死だった。
嫌だと叫んで、逃げて、怒って、泣いて、それでも諦めなかった。
その先で、今がある。
だったら全部、無駄ではなかったのかもしれない。
「……やっぱり、もう少し取っておこうかしら」
「気が変わりましたか」
「この子が大きくなったら、見せてあげてもいいかなって」
「おすすめしません」
「どうして?」
「母親の毒舌の才能を受け継ぐと困るので」
「失礼ね」
私がむっとすると、彼は珍しくはっきり笑った。
まったく。
こういう顔をするからずるいのだ。
私は手帳をそっと閉じた。
そして膨らんだ腹を撫でてから、愛しい旦那様の唇に口づける。
ねえ、昔の私。
信じられるかしら?
あれほど逃げ回っていたお見合いの先に、こんな幸せが待っていたなんて。
本当に、人生ってわからないものね!
読んでくださり、ありがとうございました。
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