前編 お見合い嫌いの伯爵令嬢、完璧すぎる侯爵令息に出会う
『お見合い』という言葉は聞くだけで胃が重くなるものだ。
私は本気でそう思っている。
世の中には、花を贈られるのが好きな女や、舞踏会の誘いに胸をときめかせる女や、素敵な殿方との出会いに頬を染める女がいるらしいけれど、残念ながら私はそのどれでもない。
私にとってお見合いとは、だいたいろくでもない男が、立派な家柄と資産をぶら下げてこちらにやって来る催しである。
顔が好みでないとか、背が低いとか、太っているとか、そういう話だけではない。
もちろん、それも無視できない。
できれば背は高いほうがいいし、髪はあったほうがいいし、清潔感は人類共通の大切な財産だと思う。
そこは譲れない。
でも、本当に嫌なのはそこではないのだ。
何を聞いても曖昧に笑う男。
母親の顔色ばかりうかがう男。
女は黙って従えばいいと思っている男。
自分の家の偉さを、自分の実力だと勘違いしている男。
そういう男たちを前にすると、私は心の底からうんざりする。
なのに、お祖母様は今日も元気だった。
「シシィ、逃げないで座りなさい」
「逃げてません。ちょっと庭に出ようとしただけです」
「裏口から?」
「近道です」
「往生際が悪いわね」
祖母の私室の丸テーブルには、いつものように肖像画が並んでいた。
ああ、本当に嫌だ。
どうして私の人生は、朝から他人の顔面品評会で始まらなければならないのだろう?
「この方はどうかしら。年は二十六、男爵家だけど堅実で、領地も安定しているそうよ」
「前髪が怪しいです」
「怪しくないわ」
「絵師が必死に描き足してる感じがする」
「シシィ」
「だって本当に」
祖母は深いため息をつき、次の肖像画を差し出した。
「ではこちら。商会とのつながりが強くて、とても裕福な方よ」
「お顔がねっとりしてます」
「ねっとりって何よ」
「何となくです」
「貴女の何となくは大体当たりだから嫌なのよね」
それは祖母も認めるらしい。
私は紅茶をひとくち飲んだ。もうこの時間だけで疲れていた。
私はフェルトン伯爵家の長女である。
女伯爵になれるわけではない。
ただの伯爵家の娘だ。
家柄は悪くない。
むしろいい。
祖父も父も健在で、我が家にはそれなりの力がある。
おかげで見合い話は絶えない。
絶えないのだが、絶えずに来るからといって、まともな相手が混ざるとは限らないのが人生の嫌なところだった。
最初のお見合いから三年。
私は何人もの男と会わされ、そのたびに見事に逃げ切ってきた。
いや、見事でもない。
途中ではかなり悲惨なこともあった。
とくにルイス卿の件は忘れがたい。
一度会って駄目だったら断っていいと約束されたのに、相手が前向きだからもう一度、家柄が良いからもう少し考えなさいと、お断りの返事をそのまま二か月だか三か月だか引き延ばされた。
その結果どうなったか。
ある朝、私は起きた瞬間に泣いた。
理由はわからない。
悲しくもないのに涙が止まらなくて、胸が苦しくて、朝食も喉を通らなくて、母は慌てるし医師は呼ばれるし、お祖母様はようやく自分のやりすぎを認めた。
人間には、本当に生理的に受け付けないものがある。
あれ以来、私はお見合いに関してだけはわりと本気で命の危機を感じている。
「お祖母様」
「何かしら」
「私、結婚に向いてないと思うんです」
「そうやって逃げるから向かなくなるのよ」
「違います。向いてないんです。容姿は悪くはないと思いますけどものすごく可愛くも美人でもないし、従順でもないし、相手を立てるのもたぶん下手だし」
「それでも嫁に行ってる女は山ほどいるわ」
「どうして皆そんなに頑張れるの」
「頑張らないと生きていけないからよ」
祖母の声は厳しかった。
「貴女はまだ恵まれてるの。家があって、頼れる祖父も父もいて、今は守られているからそんなことが言えるのよ。でも女は一人では生きづらいの! 良い家に嫁いで、立場を得て、生活を安定させる。それがどれだけ大事か!」
「それはわかっています」
「なら」
「でも、お金があれば幸せってわけでもないでしょう?」
祖母は少し黙った。
母が失敗した一度目の結婚をここで持ち出さない程度の配慮は私にもある。
けれど、母のことを見てきたからわかるのだ。
豪華な家に住んでいても、心が死ぬことはある。
綺麗な服を着ていても、笑えなくなることはある。
「……だからこそ、次が最後です」
祖母は静かに言った。
私は顔を上げた。
「最後?」
「ええ。この方に会って、それでも駄目なら、私もしばらくは黙ります」
「しばらく」
「三か月」
「短い!」
「十分よ」
祖母は一枚だけ別にしていた肖像画を差し出した。
「リヒャルト・エーヴェルス卿。二十三歳。侯爵家嫡男。近衛所属。若いのに評価も高く、酒癖も悪くなく、女関係も綺麗。父君も母君もまとも。借金なし」
「完璧すぎて逆に怖い」
「貴女の欠点を知ったうえで会いたいそうよ」
「なんで?!」
つい素で叫んだ。
「気が強い。口が減らない。見合い相手を何人も追い返した。可愛げはない」
「ちょっと待って、私の紹介ひどくない?」
「でも身内思いで、自分なりの筋を通す子だとも伝えてあるわ」
「後半で取り繕ったって前半が強すぎます!」
「それでも向こうが会いたいと言ったのよ」
「なんで?!」
「知らないわよ。会って聞けば?」
その問いには私も心底同意したい。
どう考えても変人である。
まともな男が、そんな評判の女にわざわざ会いたがる理由がわからない。
だが会わないという選択肢はなかった。
祖母が珍しく本気の顔をしていたし、私も年齢的にこれ以上は逃げきれないとわかっていた。
だから私は、どうせなら最初から嫌われて帰ってやろうと決めたのである。
◇
エーヴェルス侯爵家の別邸は、嫌味なく整った家だった。
豪奢すぎず、地味すぎず、手入れが行き届いていて、使用人の動きも静かだ。
無駄に金を見せびらかす感じがしない。そういう家は、だいたい育ちがいい。
くそっ!
家の段階ですでに減点しづらい。
おっと令嬢にあるまじき発言。
危ない危ない。
応接間で形式的な挨拶が終わると、私たちはさっそく二人きりにされた。
祖母も先方の叔母も、最初からそのつもりだったに違いない。
ひどい話である。
私は向かいに座る男を見た。
肖像画よりずっと良かった。
まず背が高い。
これはかなり大事だ。
次に顔がいい。
ものすごく甘い美男子というわけではない。むしろきっちりしすぎていて近寄りがたいくらいだが、目元も鼻筋も綺麗で、口元も引き締まっている。
無駄に笑っていないのがかえって良かった。
好みの顔である。
間違いなく合格ライン。
おまけに肩幅まである。
何なんだろうこの男。
神様が少し盛りすぎていない?
ただし無愛想だ。
初対面でにこにこされるのも気持ち悪いけれど、ここまで無愛想だと逆に緊張する。
ちょっとでも笑うような人なら令嬢たちに群がられるだろうに。
「セシリア・フェルトン嬢」
彼が先に口を開いた。
「本日はお時間をいただきありがとうございます」
「こちらこそ」
声もよかった。
低くて落ち着いている。
ちょっと待って。
困る。
見た目も声も良いのは困る。
中身が最低であってくれないと私が困る。
私は気を取り直した。
よし。
こっちから潰そう。
「先に申し上げますけれど、私は結婚向きの女ではありません」
彼は眉ひとつ動かさなかった。
「そうなのですか?」
「ええ。可愛げはありませんし、夫に黙って従う気もありません。納得できないことには口を挟みます。社交は得意ではないし、家政も人並みです」
「はい」
「親族関係も、自分ばかりが気を遣うようなものならお断りです。実家とも付き合いますし、自分のお金の流れも把握したいです」
「それで?」
「……はい?」
「ほかには」
おかしい。
普通ここでちょっとは引くのでは?
「私は見合い結婚に夢を見ていません」
「私もです」
「女は男を立てておけばいいという考えの方が嫌いです」
「同感です」
「私は気に入られるために馬鹿なふりはしません」
「その必要はないでしょう」
「必要ない?」
「あなたは、馬鹿なふりをしてもたぶんすぐ顔に出る」
私は思わずむっとした。
「失礼ですわね」
「率直に申し上げただけです」
この男、感じが悪いのに嫌な感じがしない。
なんだそれは。
ずるい。
「ではエーヴェルス卿は、どんな女性がお好みなんですの」
「話が通じる方です」
「それだけ?」
「それだけが一番難しい」
あまりに真顔で言うので、私は危うく吹き出しそうになった。
「従順で、夫ににこにこ従う奥方のほうが楽でしょう」
「楽ではありません」
「どうして」
「本音がわからないからです」
彼は落ち着いた声で続けた。
「嫌なことを嫌だと言わない人は、そのうち別のところで必ず歪みます。私は察するのが得意ではないので、なおさら困る」
私は少しだけ黙った。
あまりにも真っ当なことを言われると、逆に構えてしまう。
何か裏があるのではないかと疑いたくなるのだ。
「……それ、本心ですか」
「本心です」
「私を気に入る要素、今のところ一つもないと思うんですけど」
「あります」
「どこに?」
「あなたは逃げ回っている」
「はい?」
「それだけ見合いを断っているのに、結婚したくないから誰でもいいと投げていないでしょう?」
私は息をのんだ。
彼はまっすぐ私を見ていた。
「家の事情も、自分の立場も理解している。そのうえで、幸せになれない相手は嫌だと拒んでいる」
「……それのどこが」
「誠実だと思いました」
そんなことを言われたのは初めてだった。
気難しい。
わがままだ。
高望みだ。
可愛くない。
そういうことは言われてきた。
自分でも多少はそう思う。
でも誠実だなんて、一度も。
「なぜ」
うまく声が出なかった。
「社交界には、何でもにこにこ受け入れて、裏で不満を募らせる人が多い。私はそれが苦手です。あなたは少なくとも、自分が何を嫌がっているのかを知っている」
「それは」
「しかも家の力だけで相手を見ていない。家柄や財産ではなく、中身を見て切っている」
「ちょっと待って」
「はい」
「それ、褒めていますの?」
「かなり」
この男、褒め方が下手すぎる。
でも、妙に心にくる。
「……私、結構ひどいことも考えてますよ。背が低いとか、髪が怪しいとか、顔がねっとりしてるとか」
「知っています」
「なんで?!」
「噂で多少」
「最悪!」
私は両手で顔を覆いたくなった。
しかし、彼は少しだけ口元を緩めた。
「ですが、それでいい」
「何がですの」
「あなたは、嫌なものを嫌だとわかる。私はそれを軽んじません」
だめだ。
この人、だめだ。
こんなの反則ではないか。
私は今まで、無理なものを無理だと言うたびに、わがままだの選り好みだの言われてきた。
妥協しろ、目をつぶれ、慣れればどうとでもなると。
でもこの人は、慣れればいいとは言わない。
そこが嫌なら、それは大事な判断材料だと言っている。
「……では、ひとつ聞いていいですか?」
「どうぞ」
「どうして私なんですの? 他にももっと、ちゃんとした令嬢がいくらでもいるでしょう?」
「いました」
「過去形?」
「会いました」
彼は淡々と答えた。
「美しくて、愛想が良くて、非の打ちどころがない方もいました。ですが、私が何を聞いても正解しか返ってこなかった」
「正解?」
「好きなものを聞けば、相手が好みそうなもの。嫌いなものを聞けば、当たり障りのないもの。夫婦生活に何を求めるか聞いても、あなたに合わせますとしか言わない」
「それは……模範的なのでは?」
「それは怖いのです」
私は少し笑った。
「怖い?」
「ええ。本音がわからない。ああいう方々は悪くない。立派です。ですが私は、毎日暮らす相手に正解だけを言われるのは無理だと思った」
「それで、変わり者の私に?」
「はい」
「物好きですね」
「自覚しています」
あまりにあっさり認めるから、私はとうとう吹き出した。
なんだろう。
顔が良くて、家柄が良くて、仕事もできて、性格までまっとうなのに、ちょっとだけ変で、ちょっとだけ不器用だ。
最高では?
いや、待って。
落ち着け私。
まだ早い。
こういうときこそ慎重にならないといけない。
「では確認しますけれど」
「はい」
「結婚したら、私が理不尽なことには従いませんと言っても?」
「従わなくていい」
「実家にしょっちゅう帰っても?」
「もちろん」
「女だてらにお金のことを話したいと言っても?」
「むしろそのほうがいい」
「子どもを急かされたくないと言っても?」
「夫婦で決めればいい」
「私が時々、ものすごく機嫌が悪くなっても?」
「理由を話してくれれば対応します」
「話したくない時は?」
「甘いものでも出します」
私は固まった。
「……何ですって?」
「甘いものは好きでしょう?」
「好きですけど」
「当たっていたようで良かった」
その時、私はたぶん負けたのだと思う。
今までのお見合いで、こんなふうに肩の力が抜けたことは一度もなかった。
変に飾らなくていい。
賢く見せなくていい。
可愛く見せなくていい。
嫌なものは嫌だと、そのまま言っていい。
なのに相手は去らない。
むしろそれでいいと言う。
そんなの、ずるいではないか。
「……保留です」
私はどうにかそう言った。
「即答はしません」
「えぇ」
「でも」
「でも?」
「あなたは、今までで一番ましです」
彼は静かにうなずいた。
「光栄です」
「もっと喜んでくださいよ」
「内心ではかなり喜んでいます」
「見えませんけど?」
「努力します」
あぁもう、本当にずるい。




