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「死に損なっただけで」

クリスマスの夜、コンビニ店員は放火魔と出会った。

彼女の息子は死んだ。

俺は、死に損なっただけで。

おでんの鍋が煮えている。

出汁を継ぎ足す。柄杓で掬った液体が鍋に落ちるとき、小さな波紋が広がって、大根やこんにゃくの表面を揺らす。その匂いが制服の繊維に染みていくのが分かる。五年間、毎晩、同じ匂いを吸い込んできた。

レジの向こうの窓ガラス越しに、廃業したパチンコ店の看板が見える。ネオンが死んで何年も経つのに、看板だけはまだ残っている。夜ごと、あの看板を見てきた。見るために、この店で働いてきた。

自動ドアが開く音。

五十代くらいの女が入ってくる。地味なダウンジャケット、白髪混じりの髪。彼女は迷わず棚に向かい、ライター用オイルを五本、マッチを三箱、買い物かごに入れる。

レジに来る。俺は商品をスキャンする。オイル缶の金属が指先に冷たい。

「キャンプ用です」

女が言う。俺は頷く。袋に入れる。何も聞かない。聞く必要がない。

女が店を出る。駐車場を横切り、廃パチンコ店の方へ歩いていく。その背中が闇に溶けるまで、俺は見ている。

有線からクリスマスソングが流れている。もう何時間も、同じ曲が繰り返されている。

心臓が、静かに速くなっている。


裏口を開けると、十二月の空気が肺に刺さる。煙草を取り出す。火をつける。煙を吐く。白い息と煙が混ざって、闇に溶ける。

廃パチンコ店の窓から、かすかに光が漏れている。

煙草を咥えたまま、歩き出す。足が勝手に動いている。五年間、何度も想像した道。想像の中では、いつも途中で引き返していた。

今夜は、引き返さない。

割れた窓から中を覗く。女がいる。床にオイルを撒いている。丁寧に、ゆっくりと。まるで花壇に水をやるように。

埃っぽい空気と、オイルの揮発する甘い匂いが鼻を突く。この匂いを、俺は知っている。あの頃、この店に充満していた洗浄液の匂いと、どこか似ている。

「手伝いましょうか」

声が出ていた。自分の声だと気づくのに、少し時間がかかった。

女が振り返る。驚かない。まるで、俺が来ることを知っていたみたいに。

「入って」

俺は窓枠をまたぐ。床を踏む。埃が舞い上がる。五年ぶりの感触。五年前の今夜、店長に顔を踏まれたのは、このあたりだった。床のタイルの目地が、頬に食い込んだ。その感覚を、身体がまだ覚えている。

女がオイル缶を差し出す。俺は受け取る。床に撒き始める。自分の足跡を辿るように。あの夜、這って逃げようとした道筋を、なぞるように。

「あなた、ここで働いてたの」

女が言う。問いかけではない。確認だ。

「昔」

「私の息子も働いてた。七年前」

息子。俺は手を止めない。オイルが床に落ちる音だけが、廃墟に響く。

「店長にやられた。何度も。誰にも言えなくて、半年後に死んだ」

女の声は平坦だ。怒りも悲しみも、もう燃え尽きたあとの声。

「俺もです」

缶が空になる。床に置く。金属が床に当たる音が、やけに大きく響く。

「ただ、死に損なっただけで」

女が俺を見る。長い沈黙。オイルの揮発する音だけが、耳の奥でしいしいと鳴っている。

「そう」

女は頷く。それだけ。それだけで、十分だった。


女がマッチ箱を取り出す。

「あなたがつけて」

俺の手に、箱を置く。女の指先が荒れている。爪の際が赤く、割れている。この寒さの中、何日も外を歩いてきたような手だ。

小さな紙箱の重さ。こんなに軽いもので、建物が燃える。人が焼ける。世界が変わる。

箱を開ける。マッチが整列している。赤い頭が、蛍光灯のない暗がりの中でも、かすかに見える。

一本、取り出す。

指先が震えている。寒さのせいじゃない。五年間、この瞬間を想像してきた。夜ごとに。眠れない夜に。朝が来るのが怖い夜に。この建物が燃える映像を、何百回、何千回、頭の中で再生してきた。

でも俺には、火をつけられなかった。一人では、できなかった。

マッチを擦る。

硫黄の匂いが鼻を刺す。小さな炎が、指先を照らす。爪の間の汚れまで見える。おでんの出汁の色が、まだ残っている。

炎を見つめる。何も感じない。空っぽだ。

五年間、この瞬間を待っていた。復讐とか、解放とか、そういう言葉を使えば楽になると思っていた。でも今、火を持って立っていても、何も湧き上がってこない。ただ、指先が熱い。

落とす。

一拍、何も起きない。

それから、炎が床を走る。

最初は青白い色。それから、橙色に変わる。オイルが染みた床材が、ぱちぱちと音を立てて燃え始める。炎が壁を這い上がる。天井に届く。梁が軋む。建物が、声を上げている。

俺たちは窓から外に出る。

建物の正面に立つ。炎が窓から噴き出し始める。ガラスが割れる音。何かが崩れる音。熱風が顔に当たる。目が乾く。涙が出そうになるのは、煙のせいだ。

女が隣に立っている。何も言わない。俺も言わない。ただ、燃えるのを見ている。

建物の骨組みが、ぱきぱきと折れていく。あの夜、俺の中で折れた何かと、同じ音がする。

「楽になった?」

女が聞く。

俺は答えない。分からない。楽になったのか、もっと空っぽになったのか、区別がつかない。ただ、胸の奥で、何かが燃え落ちていくのを感じる。建物と一緒に。

遠くでサイレンが鳴り始める。誰かが通報したらしい。

「私は行くわ」

女が言う。歩き出す。振り返らない。その背中が闇の向こうに消えていく。俺は見送る。名前も聞かなかった。聞く必要がなかった。


コンビニに戻る。

制服に煙の匂いが染みついている。出汁と、焦げた木材と、煙草。三つの匂いが混ざっている。

レジに立つ。客が来る。肉まんを二つ。「温めますか」。声が出る。自分の声だと、すぐには思えない。

朝が来る。シフトが終わる。

外に出ると、廃パチンコ店は骨組みだけになっている。消防車が何台か止まっている。警官が俺に声をかける。「何か見ましたか」。俺は首を振る。「いえ、何も」。嘘が、驚くほど簡単に出てくる。

道の向こうで、サンタの格好をした男がチラシを配っている。クリスマスの朝だ。

自転車に乗る。家に帰る。途中、川にかかる橋の上で止まる。

五年前の冬、ここから飛び降りようとした。欄干に手をかけて、川面を見下ろした。黒い水が、俺を呼んでいるように見えた。でも、飛べなかった。死ぬことすら、俺にはできなかった。

今、同じ場所に立っている。川面を見る。黒い水は、もう俺を呼んでいない。呼んでいないことに、少しだけ驚く。

振り返る。

東の空が白み始めている。廃パチンコ店があった方角から、まだ細い煙が上がっている。その煙の向こうに、朝日が滲んでいる。

光が、目に沁みる。

煙のせいだ、と思う。たぶん、煙のせいだ。


(了)

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