その男、局長
――わたし、泊里 穂香は、とびきり運が悪い。
いや、むしろ「運がコントロール不能な方向へ全力ダッシュする女」とでも言ったほうが正確だろう。
たとえば——
朝のホーム。電車が来た瞬間に IC カード残高が1円足りず改札が閉じる。次発に乗ったら事故が起きて講義開始5分後に駅に着いたり、コンビニで最後の半額サンドイッチを手に取った途端、背後の OL さんが「それ限定だったのに…」と呟き、罪悪感に負けて譲ったら本来半額にはならない商品でシールの貼り換えを疑われたり。
それでも生きてこられたのは、“どうせ転ぶなら前のめり”という雑なポリシーのおかげ。都内の私立鳳凰女子大学で文学部日本文化学科、今年で3年になった。キャンパスライフ? 聞こえは良いけれど、実態は〈単位ギリギリ・財布カラッポ・バイトジプシー〉の三拍子。講義ではこれ将来何に使うんだ?と思いながら万葉集の恋歌を解読しつつ、帰りにコンビニで半額商品を狙う日々だ。
そんな私が今期支払うべき奨学金と、来月の家賃と、推しのグッズ抽選に外れたショック――すべてを同時に抱えた結果、残高は7円。この非常事態を打開すべく、掲示板に載っていた〈時給五千円・書類整理〉の文字に飛びついた……というわけである。
春休み。サークル仲間のグループチャットには〈沖縄行ってくる!〉〈箱根温泉最高~〉なんて絵文字付きの浮かれスタンプが飛び交っている。対して私のスマホ画面には、奨学金返済残高と来月の家賃引き落とし予定額が並び、預金残高は堂々の “¥ 7” 表示。背水の陣どころか背後は奈落である。タップする指先が震えたのは寒さでも恐怖でもなく、もはや飢餓。
そんな折に大学掲示板のバイト欄で輝いて見えたのが、
〈時給五千円・書類整理・日払い〉
という甘い誘いだった。
(これで授業料の一部でも埋められたら御の字!)
募集要項の説明は、
「学生歓迎・力仕事ナシ・履歴書不要・今夜すぐ入れる方優遇」
――明らかに怪しい。けれど、食費がカップ麺三食にも届かない身にとって、理性はもはや贅沢品だった。
“本当に書類だけを整理する簡単なお仕事”を深く考えずポチッと応募した瞬間、スマホに即レス通知。
「採用です。すぐ来て」
たったそれだけ。履歴書どころか本名すら聞かれない採用通知など、普通なら警戒して握り潰すところだ。が、財布の小銭が自販機の130円に足りず、寒空の中ホットココアすら買えない現実が私を後押しした。
「バイト代が入ったら、まずは肉食べたいな……」
独り言で自分を鼓舞し、Googマップに表示された赤ピン――“寿荘”なる昭和レトロアパートへルート検索。
◆ ◆ ◆
夕暮れの商店街を抜け、幹線道路沿いのラーメン屋から漂う豚骨臭に腹が鳴る。斜陽が照らす住宅街を歩きながら、私は念のためにバイト募集ページを再読した。住所は掲載されていないが、メッセージには「風呂なしアパートの二階、201号室。鍵は開いてるからそのまま」とある。
(……鍵が開いてる? 管理人さんの立ち合いなし?)
警戒心が顔を出しかけるが、同時に〈書類整理〉という単語が脳内で繰り返される。もしこれが本当にホコリを払ってファイルを並べるだけなら、二時間で一万円。今の私には輝く億万長者プランだ。
道すがら、ゼミの友人である成瀬(経営学科)にメッセージを送るためにアプリのLINAを起動する。
■LINAトーク開始
穂香
ねえ、激アマなバイト見つけた!
なんと 時給5,000!
集合住宅で書類整理だけ! 今から行ってくる!
成瀬
まじ!? そんなオイシイ話あるか?
絶対やめとけ。闇バイトだわそれ。
穂香
いやいや、掲載元は“学生掲示板”だし?
これ逃したら私、来月カップ麺すら買えない(´・ω・`)
絶対稼げる安全バイトだからだいじょうぶい!
成瀬
そのセリフ、こないだ“楽して稼げるFX”で溶かした人と同じだぞ…
せめて 契約書の写真 貰え。
穂香
履歴書も身分証も要らないって!
「服装自由・即採用・今夜歓迎」 ←神バイト確定!
成瀬
それ、警察24時 で見たやつ。
“今夜限定”=監視薄い時間帯、って覚えとけ。
穂香
心配性〜。
大丈夫、チャチャっと終わる系でしょ書類整理だし。
時間かかって儲かったら焼肉おごるからさ!
成瀬
焼肉で釣ろうとするなw
とにかく 怪しいと思ったら即逃げ。
位置情報オンにしとけ!
最悪、110番する前に私に生存報告しろ。
穂香
了解(`・ω・´)把握〜
【現在地共有】オンにしました。ピン立てたから確認よろしく!
じゃ、行ってきまーすノシ
成瀬
はいはい、フラグ立てんなよ…
てか稼げたら本当に焼肉な!?
穂香
おっけー!
■LINAトーク終了
スマホをポケットにしまいながら、私はコートの襟を立てた。日が落ちると途端に冷え込む。アルバイト先で暖房が効いていることを祈りつつ、角を曲がる。そこには“寿荘”の古びた看板。
錆びた鉄骨階段を軋ませつつ二階へ。目的の201号室の前で立ち止まると、ドアに貼られた付箋が不気味なほど明るいピンクで主張していた。
「入ってきてOK。作業は二時間程度」
ドアノブをそっと回すと――確かに鍵は開いている。やけに簡単に。
(今さら怖じ気づく? ここで逃げたら七円生活続行だぞ、私!)
深呼吸。
そして、意を決して暗い室内へ足を踏み入れた。
◆ ◆ ◆
「あー、来た来た。荷物はそっちだ。ほら、カバン貸せ」
背後で跳ねるような声がして、心臓が一瞬止まった。振り向くと、毛玉だらけのジャージを首元まできっちり締めた若い男が立っている。男A――と呼ぶには人相が薄すぎて、むしろ“輪郭だけの落書き”とでも言いたくなる。だが眉間には深い皺が刻まれ、視線は終始逃げ場を探すように泳ぎっぱなし。汗ばんだ掌を差し出しながら、伸ばした腕だけがやけに図々しい。
その背後。壁にもたれているのはピアスだらけの男B。耳という耳に銀リングが重ね刺しされ、左耳には鎖が垂れている。目元は眠たげなのに、フィルターを噛んだままの煙草だけがギラギラと悪意を吐き出す。吐息に混じるニコチン臭が、室内の埃と溶け合ってどす黒い層を作っていた。
隣でガタガタと椅子を揺らしている貧乏ゆすりマンCは、まるで高速ドラムロール。上下する膝のせいで床板が細かく悲鳴を上げ、その規則的な“カタカタ”が異様なBGMになっている。私の脳内で「逃げろ」の赤ランプが閃光するたび、Cの膝も同じリズムで点滅しているようで気が狂いそうだ。
そして部屋の奥――スニーカーを脱ぎもせず畳に上がり込んでいる男Dは、工具箱を逆さにし、精密ドライバーで電子機器らしき黒い板の裏蓋をバキッとこじ開けている。プラスチック片が飛び散り、青い基板がむき出しになるたび、Dの目尻がヒクつく。理科室の解剖実験を楽しむ小学生のような残酷さがあった。
「えっと、書類整理って――」
言いかけた声は情けなく裏返った。どう見ても紙は一枚もない。目に入るのはブランド品の腕時計や箱入りスマホ、パソコン、ジュエリーの空ケース。段ボールの隙間からのぞく化粧ポーチにはまだ値札が貼られたままだ。昼のドラマでしか見たことのない“押収品”の山。
「大丈夫大丈夫、簡単な書類整理だからさ」
男Bが、紫煙越しに片目でウインクを飛ばしてきた。冗談のはずなのに、その目は笑っていない。ジャリッと砕ける何かが鼓膜を擦り、背骨に氷水を注がれたような感覚が走る。
男Aは私のトートバッグを無造作に引ったくり、折りたたみテーブルの上にドスンと投げ置く。そこには帯封付きの札束が平然と並び、むき出しの現金が蛍光灯の弱い光を吸って鈍く反射していた。彼は顎だけでそれをしゃくり、ニヤリと唇を吊り上げる。
「金庫の鍵はもう開いてる。中の金目のモノを全部これに入れて。終われば現金渡すから」
指示は滑らかで迷いがないが、声の奥に震えが混じる。多分この男も素人だ。だが素人でも刃物を握れば十分凶器。私は飲み込んだ唾が喉に張り付くのを感じた。
(……ん? 書類整理……? この人お札のこと書類って言ってる…???)
脳内でビッグベン級の警鐘がカンカンと鳴り響く。これ、ゴ・ウ・ト・ウ――というか私に“やらせる”強盗。喉の奥まで突き上げてくる悲鳴を奥歯で噛み殺しながら、視線だけを必死に巡らせる。真正面の窓は外から分厚い木板で打ち付けられ、日光どころか逃走経路まで遮断。背後はB・C・Dが壁のように塞ぎ、ドアノブへ伸ばすスペースなど欠片もない。出口ゼロ、万事休す。
私の呼吸が浅く速くなった瞬間、空気の密度が変わった。ぬるい湿気の中に、氷菓子を砕いたような冷気がスッと混じり込む。ふすま一枚隔てた隣室から、時代劇で悪代官の屋敷に斬り込む浪人の一喝のごとく、刀身で磨いたように鋭い低音が滑り込んでくる。
「君たち、少々やり方が無粋じゃないかね?――おや、場に似つかわしくないお嬢さんもいるじゃないか」
紳士めいた響きなのに、言葉の端に刃の背が当たる金属音が潜む。聴いた瞬間、私の皮膚は総毛立ち、ジャージ男Aたちは銅像のように硬直した。
「君達、少々やり方が無粋じゃないかね?――おや、場にそぐわないお嬢さんもいるじゃないか」
声と同時に空気が帯電し、パリンッ! と真横の空間が割れる音。ふすまが音もなく横滑りし、開口部から現れた男――チャコールグレーの絹スーツ、長めの黒髪、琥珀色の瞳。その優男は指先で湯呑みをくるりと回し、湯気を逃がすようにゆっくり一口すすった。その所作すべてが常時スロー再生のように優雅で、しかし闇を切り裂く刃の冷たさを纏っていた。
その鋭い眼差しがまず私を、次いで段ボールの山を測量するように舐めた途端、室内の酸素が一時的に真空になったかのように肺が痛んだ。
「ひっ、比留間……⁉︎なっなんで⁉︎」
ジャージ男Aの声が裏返る。背後のピアス男Bは舌打ちをし、Cの足が突然止まり、Dの手首が空中で凍りつく。名前を聞いただけでここまで空気が変わるのか、と狐につままれた気分になる。
「おや?よく知っているね。そう、みんな大好き都市伝説調査局・局長の比留間さんだよ♪」
“局長”――比留間という名乗る男は静かに告げ、湯呑みを机へそっと置く。そのまま手首を軽く返し、人差し指と親指で乾いた音をポン、と弾いた。高音がガラスに触れたように室内を駆け抜けた次の瞬間、背後の窓ガラスが同時に四枚、スローモーションで粉砕。夜気が渦を巻き、黒装束の大男たちが外からロープを伝って降下し、無音のまま床へ着地した。ここボロアパートだぞ、どうなってんの。
映画のクライマックスさながらの連携。男Bが殴りかかる前に関節を極められ、Cは脚を払われ、Dは工具箱ごとヘッドロック。最後にジャージ男Aがトートバッグを盾のように振り回すが、局長自らが一歩踏み込み、湯呑みの茶を一滴もこぼさぬまま、掌底を首元へすっと当てる。Aは糸の切れたマリオネットのように床へ崩れ落ちた。
闇バイト連中は悲鳴を上げる暇すらなく、あっという間に床へ這いつくばる。残響として耳に残るのは、風鈴のように揺れる割れたガラス片と、白湯をすする柔らかな音――それだけだった。
◆ ◆ ◆
極端に濃い時間が過ぎ、部屋は警察より早い“局長側スタッフ?”により現場保全。私は段ボールの隅で体育座り、蒟蒻のように震えていた。警察は手配済みらしい。
「まずは落ち着いて、白湯だ」
個人事業主である都市伝説局の局長と名乗る男――比留間 隠岐は、かち割れたガラスの横でなお湯呑みを持ち、私に差し出す。
「な、なんで強盗現場にいたんですか……いや助かったんですが、ありがとうございます」
「いやいや、気にしないでくれ。私は都市伝説を専門にしていてね。彼らが“都市伝説級に割の良いバイト”とやらで素人を勧誘していると小耳に挟んでね。報酬が内容に見合わないバイトを中心に調査していたんだ。そして今回尻尾を掴めた。非常に残念ながら都市伝説と直接関係は無かった訳だが」
いやはや、と湯呑から白湯をすする
「都市伝説…」
「世の中には君の知らない組織や世界があるってことさ」
局長は膝を折り、私と目線を合わせる。焦げ茶の瞳に映った私は、さぞ貧相なチキンだろう。
「君、学生さんだね。今日が『アンラッキー記念日』だとしても、まだ引き返せる。闇バイトは入門するより卒業が難しい。早めがいい」
「……でも奨学金が、滞納寸前で……」
「なるほど。君、胸は無いが度胸はあるようだし、代わりにうちで働いてみる気は?」
「セクハラですか…って、え?」
「仕事は都市伝説の取材、現地調査、データ整理、あと重い荷物運搬。なんと時給七千円だ」
見せられた雇用契約書の数字に目が飛び出しかける。破格。でも――
「でも危険なんじゃ……」
「もちろん危険手当は別さ。まあ命の保証は…だいたい大丈夫」
「だいたいって何%ですか!?」
「この湯呑みから白湯をこぼさない確率くらいだね」
そして、彼は一滴もこぼさない。なんの説得力もないけど。
窓辺で縛られたジャージ男Aが聞こえよがしに呻く。「比留間に睨まれたらおしまいだっ……!」どうやら闇社会?では有名人らしい。警察と怪異の狭間で暗躍する都市伝説ハンター――そんな噂が脳裏をかすめるが、現実味よりアルバイト契約の文字が眩しい。
(私……これを断ったら借金地獄で強盗未遂の加害者扱い? 断ったら地獄、受けても地獄……なら、少しでも明るい地獄へ!)
「……あの、手取りは日払いですか?」
局長がにんまり笑った。「交渉上手だ。君のコードネームは“ハピネス”にしよう」
「え、勝手に!?」
彼はいい笑顔で言った「よろしくね、ハピネス」
◆ ◆ ◆
それから一時間後。私はすでに局長のボロ事務所へ搬送され、床に散乱したファイルの山を前に呆然と立っていた。
「では“ハピネス”、最初のタスクはこれ。昨夜届いた怪談メール三百通の仕分けと、未分類心霊写真のスキャン。あと夜には下水道ロケがある。白ワニを探すぞ」
「ロ、ロ……ケ?」
「君は現地班、僕は本部から見守り班だ」
「局長、一歩も動かないんですね!?」
「基本、私は頭脳労働専門だ。動くのは助手の特権」
「強盗を捕まえた黒装束の大男たちは!?」
「あれはレンタルさ、基本は僕と君の二人」
そう言って彼は座布団に正座し、湯呑みをふわりと掲げた。
――闇バイトを抜けて一時間。私はすでに、とんでもないブラックな“都市伝説業界”へ再就職していた。
でもまあ、今日から三度の食事は保証される。ついでに命も“だいたい保証”。
(……悪くないかも?)
運の悪さと紙一重で転がり込んだ奇妙な日常が、ドタバタと幕を開けた
※このあと成瀬からLINAで「死んでないよね?」という追撃メッセが連投されていたのはまた別の話。