私の騎士
エントランスホールは巨大な白の空間で、天使の彫刻が縦に配列されていた。端から端まで走っても二分はかかりそうな大理石の床は水鏡のようにローラと大臣の影を映す。平和なこの国の形ばかりの見張り兵が二人、奥へ続く入り口に立っているだけで他には何も見当たらない。広いだけの室内を彩るのは太陽と月の光で、この時間帯はガラスの上を傾きはじめた太陽が見えた。
「天井にはガラスがはまっているの?」
ローラは顔を仰け反らせて聞く。
「このガラスもこの城の謎とされている。塔を除いて
城を覆っている屋根は一枚の、このガラスでできている。君の思っている通り、どれほど陽射しが射そうとも暑くもなく、寒くもない。この城が崇められる理由の一つだ」
やっぱり本当だったんだ。お城に関する不思議な話。
「このお城に秘密の部屋はあるのかしら?」
ゲッカは不意を突かれた。
「なぜそれを?」
「本で読みました」
「驚いたな。文字が読めるのか」
「字だって書けますよ。正しい言葉遣いも出来ます。パパが教えてくれたので」
「サリオットに読み書きができる者がいるとは思わなかった。君の父親は時計職人らしいが、何者だ?」
ローラはドキリとしたが、ゲッカはすぐ興味を失った。
「まぁ、何者であろうと関係ない。君は自分の役割をこなすだけだ」
長い廊下を緩やかにカーブしたところで、レースを幾重にもあしらわせた紫色のドレスを纏う、財務大臣の娘ジュリアに出会った。
「ご機嫌いかがです、ゲッカ男爵」
侍女を何人か引き連れたジュリアのブロンドの巻き毛が、卵型の顎にかかるのをゲッカは見た。
「良い方ですよ、ジュリア様。ありがとうございます」
ジュリアはゲッカに可憐なお辞儀を返す。
「ところで、そちらの方は誰ですか?」
ジュリアの秀麗ではあるが少し大人びた神経質そうな目がローラを捉えた。
上流階級のある種の優しさ……決して逆えない者に対する余裕でジュリアはローラをみる。思い入れはないほどの無関心さでジュリアは何気なく聞いただけだった。
「そうですね、あなた方にもいずれおわかりになることと思いますので、お伝え致しましょう。この方は、王子の花嫁候補の一人、ローラン・キーフブルク様でございます」
ジュリアはかなり驚いたが、口を手で覆ったり、あからさまに眉を顰めたりはしない。
「あなたがローラン様ね。初めまして。私はジュリア・ミリアス・ロスリークと申します。あなたとはずっとお会いしたいと思っていましたのよ」
細く白い手を差し出され、おずおずとローラも自分の焼けた手を出す。
「なぜならばあなたは唯一、アラン様に選出された候補者ですもの」
ジュリアに握られた手は暖かかったがなんだかローラは落ち着かなかった。じっと見つめる瞳に闘志を感じたせいだろう。
冷静な仮面の下に熱い想いが渦巻いているところをローラは想像し、気が引き締まる。改めてライバルがいることを痛感した。
「お互いに健闘しましょう。ローラン様」
ジュリアの強い眼差しを受け、ローラもなんとか頷く。
「ローラン様はこれから国王様に謁見するところですので、そろそろ失礼致します」
ジュリアは会釈すると侍女を引き連れ退場した。
目を覆いたくなるほどの眩しさを黄金の玉座に見た。上質の蜂蜜のように艶々と照り輝き、ヘルス神の伝説がサファイアやルビーとともに刻まれている。肘掛にはこぶし大のダイヤがとり付けられ、王座の後ろから射す光がダイヤを透過し、七色に輝く光線を辺りに放っていた。ローラはしばらく惚けたようになり、ゲッカに小突かれるまで棒立ちだった。ローラは慌てて頭を下げる。
「国王様。このお方が花嫁候補の一人、ローラン・キーフブルク様でおられます」
国王の顔は逆光で大きな影となり、強固な体格のシルエットとなっている。その輪郭からは威厳のある態度を窺い知ることができた。
「ようこそ、我が城へ。これからは王子の花嫁候補としてよく励むように」
「はい。国王様」
「聞けばそなた、時計職人であるニール・キーフブルクの娘であるという。
父親は今回の件に関して反対したと聞くが、未だに反対しているのか?」
「私の父は職人の腕も確かで、温和な人柄です。いつも私の幸せを願ってくれ、王宮に送り出すときも勇気づけてくださいました」
「そうか。父親に恥じぬよう、修練に勤しむように。よいな」
ローラは神妙に頷く。
「はい。国王様」
国王は一時の間をおいた。それは沈黙してローラを見つめていたに近い。
「そなたは父親似だと、よくいわれるのではないか」
ローラは少し目を見張り、笑顔になった。
「はい。周りの者にはよくそういわれますわ」
逆光でよく見えなかったが、ローラは国王がかすかに笑んだように見えた。
「では、ローラン。長旅で疲れたであろう。今日はゆっくり休むがよい」
「はい。ありがとうございます」
国王はゲッカに手で下がれと合図した。
「国王様に一つだけお聞きしたいことがございます。よろしいですか」
「言ってみよ」
「国王様は私の父を知っておられるのですか」
国王は淀みなく答えた。
「そなたのローランという名の名づけ親が私だと父親から聞いたことはあるか?」
「はい」
「こちらへ」
手招きされたローラは戸惑いながらも王座へ近づく。跪こうとしたローラを制した国王はローラの手を握り、ヘルス神の祝福を授けた。
「そなたに神の御加護がありますように」
ローラは息を飲むが、すぐに胸に手を当てる。
「国王様にもヘルス神の祝福がありますように」
ゲッカ男爵は少し呆気に取られてしまう。花嫁候補に祝福を授けたのはローランだけだ。国王と繋がりがあるとは、父親の事を探るべきか……。
ローラは国王にお辞儀をすると、部屋から出た。
何かを考えながら早足になった男爵の後を追うが、廊下のカーブした場所で姿を見失った。
溜息を吐いたローラは立ち止り、どこまでも無機質な壁を見上げた。この城は中心にむかって螺旋構造になっており三つの空間がある。
中心へ向かうほどレベルは高くなり、王座の部屋は塔を除けば中心部に近いレベルⅢに当たる。外側には宮女や料理人の部屋が配備され、近衛隊長ともなるともちろん貴族であり、レベルⅠに住まうことが許された。
花嫁候補はレベルⅡだったがローラが迷ったのはレベルⅠのエリアだった。
簡単な造りだが、初めてのローラには異質な空間である。レベルⅡへの扉を見つければどうにかわかるものなのかもしれないが、城の扉は壁と一体化していたのでローラには同じ壁面としかわからない。
男爵が気づいて来てくれるでしょ。
ローラは螺旋構造のことを本で読んだことがあったので落ち着いていた。
とりあえず、ここに留まっていれば、迷うことは有り得ない。
一周してみよう。
ローラが歩き出そうとした時だ。誰かに腕をつかまれ部屋の中に引きずりこまれた。ローラは悲鳴をあげそうになったが、白い手袋をはめた手で口を塞がれた。薄暗い部屋の中で拘束から逃れようと必死に手をふる。
「ローラ。僕だ。アランだよ」
アラン?
少し大人しくなったのを見計らわれ手を離されたので、ローラは正面を向くことができたが、また叫びそうになる。唇に人差し指を当てたしぐさを見てかろうじて堪えた。
「……王子…様」
ようやくそれだけいうローラは目も合わせられなかった。アラン王子はそんなことを気にする間もなく、ローラの右手首を掴むと責めるようにいう。
「どうしてローラがここにいる?」
握られたところが熱いような気がしてローラはそっちに意識がいってしまう。一瞬、後にようやく意味をつかんで正直に言った。
「どうしてって……。貴方が好きだからです」
王子は顔を赤らめてしまった。
「ローラ………」
ローラはきょとんとした顔で王子を見た。すぐに顔を背けはしたのだが。
「候補といったらそういう意味ではないですか」
それはそうだが……単刀直入すぎるだろうと王子は思うのだが、攻撃に転じた。
「ローラさん、君はアランという少年を好いていたのではなかったのかい?」
「そうです」
ローラはすばらしい自制心を働かせ、ようやく王子の顔を見つめた。
「……あなたがそのアランなのでしょう?」
訴えかけるような瞳から逃れると、王子は口調を強めた。
「私はアランという名だが、あなたの好いている想い人ではない」
行動と言動がばらばらな王子にローラは少し狼狽する。
「では、どうして私を候補にしたのです。こんな田舎娘の私を」
王子は目を逸らしたまま言う。
「もう王宮の噂をあなたは耳にされたかな」
「王子様がガーネット王妃に楯つくため私を候補にしたと……」
ローラに見えないところで拳を握り締めた王子は、それでも言葉を続ける。
「意図が分かっただろう。早々に田舎へ帰れ」
「王子様……」
王子はその声の質からローラが絶望しただろうことを感じて、胸が痛んだ。
「本当に腹黒い人間はそんなことをバカ正直にいったりしないものですよ」
王子は目を見開き、ローラを迷惑なくらい見つめた。実際、ローラは俯いてしまう。
「あ……の……私がそう思っただけ…ですが。そ、そんなに見つめないで」
あぁ……と王子はいってから首を振る。実にやりにくい相手だった。弱みを握られている。惚れてしまったものは仕方がない。
「もう用済みだといったらお分かりいただけるかな、ローラさん」
少なからずダメージを与えることができ、王子はまた胸が苦くなる。
「じゃあ、どうして!サリオットに会いにきたの?」
「サリオット?ああ、あの田舎町の……サリオットですね?それが何か?」
ローラはますます混乱し、会ったという現実が都合のいい夢に思えてきた。
すっかり暗くなった部屋でローラは目の前にいる人物がアランではないのかもしれないと思う。それは漠然としていて、この現実の境界も曖昧に思えた。
ローラが無言で怯えているのを見て、王子は部屋の入り口にある一つのランプをつけた。すると部屋の左右に据えつけられた一四のランプに次々と明かりが灯り、部屋の壁に沿って置かれた本棚が浮かび上がった。その本棚は天井にまで伸び、ローラを取囲むように見下ろす。ローラは一時、何も考えず思う。
ここが王宮の書庫!素敵!
「ここは僕の書庫だよ」
ローラは自分の耳を疑う。
「ここにある本すべてあなたの物だと……いうの?」
王子は頷く。その部屋はローラの部屋の三十倍はあった。ローラはもう少しで本棚に近寄り本を手にとるところだった。
「王子様。私はもう用済みなのでしょう。私をもう愛していないということですか?」
アランは胸が抉られる思いだった。
「愛すも愛さないも、君のことは知らなかった。無作為に選出したんだ」
ローラの瞳がランプで揺らめく。部屋はほのかなオレンジの光に染まっていた。
「どうして嘘を?」
アランがローラを見て口を開きかけたとき、強い眼差しをローラがむける。
「いつまでお芝居を続けるの?今のアランは変装してないのに……仮面を着け続けているよね?ねえ、アラン。本当に私のこと知らないなら、どうして私をローラって呼ぶの」
アランはたじろいだが動揺を出さず、冷静にいう。ポーカーフェイスなら子供の頃からお手のものだったはずだ。
ローラは笑っていう。アラン、余裕ないよ。
そう言われ、アランの口元が僅かに引きつった。
「ローラという名は君の本名だろう」
問われたローラは静粛に答えた。
「私の本名はローラン。国王様から戴いた名よ。嘘だと思うなら、陛下に聞いてみるのね」
アランは事務的な口調で告げた。
嘘だったら大人しく帰るんだ。
内心、揺らいだアランは賭けに出た。
「もし私が勝ったら、ここに残る」
予期していた言葉にアランは頷き、本棚に向かって歩き出した。アランの茶に近いオレンジの髪がサラリと明かりを反射して、眩しい。
ローラは何度この現実が嘘であるように願っただろう。
どうしてアランは王子なの?
なんだか泣きたくなって、ローラはその立派過ぎる背中を眺めた。折返しのある立ち衿に大きなラベルのついた衿の白いコートを着て、細身の白いズボンをはいている。コートとズボンには青と金で波の刺繍がされ、背には大輪の百合が咲き誇っていた。不意に王子が足を止めた。
「俺さ……」
ローラは数歩前の『アラン』の声を聞いた。
「ほんとはこんなビラビラした服、大嫌いだよ」
アランは腹部の布地を親指と人差し指でつまんで揺らした。
「キャピタルエリアの職人の技を極めたありがたい刺繍らしいけど、悪いけど好きになれない……」
ローラは眉を微かに顰め、すかさず言う。
「似合ってるよ」
淡い光のなか白い衣装はアランのためだけにあった。
「ローラが駆け落ちするのかっていった時、できればそうしたいって思いもあった。でも俺はこの国を治めなければならない」
ローラはそっと近づいていき、いつものようにアランの手を握る。
「だから、あたしはこうして来たんだよ?」
アランはためらいながらも強く握り返した。
「……ありがとう」
ローラは頷き、しばらくして、からかうように言う。
「負けたこと、認める?」
「このシーンではね」
そういうとアランはローラの手の甲にキスした。
「なにに換えても、僕の花娘を守るよ」
ローラは唇を噛んで、涙が零れそうになるのを堪える。
「お願いしますわ、私の騎士様」
アランが肩を震わせたローラの頭をそっと撫でた。