不安
白いシーツに顔を埋めていたローラは、ガラスを叩く雨音で目が覚めた。
薄暗い中、ベッドの縁に腰掛ける。
部屋はベッド三つぶんの広さしかないが、ローラはこのこじんまりした部屋が好きだった。
寝癖のついた髪を撫でながら、緩慢な動作で水色のカーテンを開ける。窓には無数の水滴が流れ、仄暗い町の景色が歪んで見える。
雨……かぁ。
窓から離れ、ローラはチェストから赤のワンピースを取り出し着替えはじめる。居間と同じレンガの壁際には木製のチェストと本棚が置いてあり、ベッドの右隣に机と椅子が置いてある。
机には「ローズ王国物語」と題名がついた小説が置かれていた。作者はスカーレット・キーフブルク。ローラは本を手に取り表紙を撫でると引き出しに丁寧にしまった。
木製のドアを内側にひくと錆びた蝶番がわずかに軋む。極力、静かに階段を下り、居間にでた。
どれほど古い建物なの?ローラは以前、ニールに聞いたが、修繕しながらも百年は経っているらしい。
居間を横切り、鏡の前に立つ。洗面器にためておいた水を掬い、顔を包むように何度か洗う。
タオルで水滴をとると、肌に髪にも薔薇水をつけ、髪を木櫛でとかす。ローラの頬が急に赤く染まった。
昨夜のことが思い出され、自然と鼓動が早くなる。鏡のなかのローラは木櫛をもったまま緊張した面持ちで佇み、問いかける。
もし、もしもアランが、本当にあのアラン王子だとしたら?
ローラは幾分か冷静になり始めていた。昨日、途中までは役者のアランと話しをしていたのだ。それが外見を見た途端、頭が真っ白になってしまい、最初にアランと話していたとは思えなくなった。だが、よくよく考えれば、あの時間に王子がサリオットにいること事態、おかしい。首都から馬車で一時間はかかるこの町の、あの天使の噴水を知っているとも思えない。
どうしよう!どうしたらいいっていうの……!
ローラの胸は石化したように重苦しくなり、思わず手で押さえた。
そんなわけ……ないって。あんなに綺麗なわけない。
でもアランが王子に変装していただけだったら……?
ローラは全く信じていないことでますます自分を追い込んだ。アランは王都劇場の俳優を目指す田舎の青年で、あんな目の眩むような衣装を持っているとも思えない。田舎娘のローラでさえ高価なものだと分かったが、なにより王子の赤い礼服を身につけることは罪に問われる。役者の卵がわざわざ娘ひとり騙すためにそんな危険を侵すとも思えなかった。
嘘でしょ……。
ローラは情けないほどうろたえ始めた。うっすらと額に汗を浮かべ目には涙さえ浮かんでいる。
信じたい事実は嘘かもしれない。まさか、まさかと首を大きく振る。昨日のうっとりするような王子の容貌を思い浮かべたのだ。
アランはあんなふうに心を抜かれるような容姿なんかじゃなかった。そう、アランは平凡だけど、演劇の話しをする時は目をキラキラさせてた。アランの顔は……アランの顔は……どんな顔だった?
ローラの頭のなかは今まさに真っ白になった。目の内側がぐるぐるして地面が揺れている。
アランの顔を知らない……?まさか!知ってる。新聞配りの少年、花売りの少女、足の悪い老婆、兵士に役人、商人に牧師さん、学者に大工。
背筋が寒くなり、布を手繰りよせるように腕をつかむ。
でもアランの素顔は知らない……。
「ローラ?」
突然名前を呼ばれ、ローラは悲鳴を上げてしまった。
「驚かせたね?」
一気に目の覚めたニールが寝癖のついた頭をかきながらおはようと言った。
「お、おおはよう、パパ」
「よく眠れなかったみたいだね」
ニールはローラの腫れぼったい瞼を一瞥して心配そうにした。
「もう大丈夫だ。実は昨日、王宮へ行って断りの手紙を渡して来たんだ。ローラがあまりにも思いつめているみたいだったからね。ローラが帰ってきた後、すぐに馬車で出かけたんだよ」
昨夜、抜け殻になったローラは部屋へ急いだ。放心しきったローラの姿はニールの目に痛ましく映り、一刻も早くこの問題を解決しなければならないと決意させたのだ。
「パパ……」
隈をつくり少し疲れて見えるが、娘の重荷を下ろすことができたという喜びに満ちていた。
「……ありがとう」
その言葉に嬉しそうに微笑んで娘の頭を撫でる。
「明日には承諾の返事が来るはずだよ」
「本当にありがとう。今、朝ごはん作るね」
ローラがキッチンへ向かったので、ニールは安心して顔を洗った。