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黒騎士

 黒いマントを目深に被り、顔を隠した男が『黒の砦』のカウンターに座り、ロックのウィスキーを口にした。店内は騒々しいが、考え事に集中している男の耳には入ってこない。

 ホールは従業員に任せ、カウンターの中に入っている店長のシルビア・アースライトは淡い水色の髪をアップにし、いつものように男の前にチーズを出した。

 上質なワインレッドの布地に袖口に金糸の刺繍がされたローブを纏いロザリオを首にかけた男が、入店するなりシルビアに声をかける。美しいシルビア目当ての客は多い。

「今日も素敵ですね。一杯、ご馳走させてください」

 やや明るいダークブラウンの髪を肩で揃え、灰青の瞳に親しみやすい光を宿している男はローズ教会の牧師だ。

「セラフ様、ありがとうございます」

 シルビアはビールを牧師の前に置き、自分用にビールを注ぐ。

「いただきますね」

  シルビアはにっこりとし、若い牧師は顔を赤らめた。神の名を語り、難解な理論を説くときの鋭さはなく、年相応の青年の顔だ。

「仕事終わりの、シルビアさんが出してくれたビールは最高ですね」

「嬉しいですわ。大変なお仕事、お疲れ様です」

 セラフは恐縮し、ビールを流し込む。

「妹がいなければ、わざわざこんな仕事は選ばなかったです。大金を貰える仕事とは言え、重労働な上、自由は少ないですしね。

 でもシルビアさんに出会えた事は不幸中の幸いでした。

 僕の憧れの人ですから」

 セラフの熱意とは反対に、シルビアの気持ちは急速に冷めていく。

「大した事はしていませんよ」

「ご謙遜を。僕はMCUでブラッディーローズを使った生命科学を専攻していたんですが、シルビアさんの論文は素晴らしかったです。

 研究室でも様々な功績を残されて」

「すみません、煙草を吸っても?」

「もちろんです」

 煙草を咥えたシルビアに、セラフがマッチを擦り、火をつける。口から煙を吐き出したシルビアを眩しそうな目で見つめた。

「シルビアさんはかの有名なシモン・イスカリア教授の研究室でしたよね」

  シルビアは動揺を出さないよう煙を吐く。

「良くご存知ですね」

「知らない人の方が少ないんじゃないですか?実は貴方に憧れて、僕もシモン教授の研究室に入ったんです」

動揺したシルビアは一瞬固まった。

「そう、教授の研究室に……」

「はい。当時、世間知らずの僕にとっては忘れられない経験になりました」

 人の良さそうな青年牧師はそこにはいない。優しげな微笑みを浮かべていた口元は、硬く結ばれ、灰青の瞳は拭えない深い悲しみを宿している。

「一体、何があったの?」

居た堪れずシルビアは聞く。

「共同研究者の貴方が研究室を去り、自暴自棄になっていたシモンは業績を残そうと躍起になっていました。ネオフロンティア製薬の言いなりになり、共同研究を進め、治験と言う名の人体実験を始めたのです。それに気づかなかった間抜けな僕は、治験者の恋人を失いました」

 シルビアの指先で揺れていたタバコの火は、細く長い灰を作っていた。それにも気づかずシルビアは青ざめた。

「復讐に燃えた僕は、証拠のデータを抜き取りマスコミに流そうとして殺されかけました。いえ、殺されたと言うべきでしょうか。研究室を爆破して事故死にされたのです。実際に死んだのは、真実を追求するために動いていた記者でした。僕の身代わりとなり死んでしまった。幼い娘を残して……」

セラフは深い苦悩に頭を抱えた。

「私のせいよ。あなたの恋人が死んだのも、その記者さんが死んだのも、全部、私のせい」

 震えるシルビアの手からタバコの灰がカウンターに落ち、白い跡を作る。

「教授として尊敬はしていたけど、ある時からシモンに関係を迫られるようになり、身の危険を感じたの。ただ、ただあのストーカーが怖くて、私の前から消えてくれるならそれで良かった。研究成果を奪われ、追い出されても何の反撃もしなかった」

 シルビアは俯き、肩を震わせる。

「私のせいで人体実験をしたと人が死んだと、あの男に笑いながら言われた時、研究者であることに、生きることに絶望した。俺を受け入れろと言われて、もう死ぬしかないと思った」

 黙って聞いていたセラフが口を開く。

「じゃあ、何で生きているんですか?」

 シルビアの瞳から涙が零れ落ちる。彼女は唇を震わせ、声にならない声を洩らした。

「僕は恋人を死なせ、記者を巻き込み死なせました。いっそあの爆破で死んだのが自分だったら良かったと、遺族の涙を見て何度も思っいました。でも、死ねなかった。

 僕には守るべきたった一人の妹がいるし、

 奴らの罪を暴き、少しでも多くの人を救う事が、罪を償う事になると思ったからです。

 シルビアさんもそうなんじゃありませんか?」

 シルビアは涙を拭うとセラフを見つめた。

「そう。私の命をかけて、今度こそ救える命を救うと誓った」

「協力しませんか?僕の仕事は教会病院の運営です。異端者を見つけ出し、患者にすること。真実を暴く為とは言え、犠牲者を出すのは辛いのです」

願ってもない事。シルビアは頷く。

「うちの教会にも『黒騎士』からの予告状が届きました。ローズ教会のシンボルでもある珍しいローズルビーを盗むと」

「祭壇に飾ってある、薔薇を象ったあの大きなルビーね。千年前にこの地に墜ちた隕石だと言われている貴重な代物」

「黒騎士は今までも教会の金を盗み、民衆に配っている。僕にとってはヒーローなんです」

 シルビアはふっと笑う。

「つまり、黒の砦に来ていたのは、私に会うためではなく、そのヒーローに会うためね」

 少し困ったようにセラフは肩をすくめた。

「黒の砦に行けば『黒騎士』に会えるという噂を聞いたので、それに賭けようと思ったんです。以前は地下で異端者の集いが行われていた場所。でも今はオーナーがローズ教会に変わった事で、希望を失っていました。でも、あなたがこの店にいると知った。シルビアさん、貴方に希望を賭けたんです」

 シルビアは胸に手を当てた。

「その賭けに勝ったわね。紹介するわ。彼が『黒騎士』よ」

 同じカウンターの端に座っていた黒いマントの男にセラフは初めから思うところがあった。研究室の話をしても、シルビアが話を遮らないのを見て彼かもしれないと感じていた。少し身構えたセラフの隣に移動した男は、端正な顔立ちをした青年だった。陽光を浴びたかのように輝く金髪がフードの下から無造作に覗いている。

 「夜空を翔ける黒き影」「冷酷な怪盗」「血塗られた刃を振るう男」とローズ教会で囁かれる噂とは違う、華やかな役者のような黒騎士にセラフは戸惑いを隠せない。

「初めまして。私はニール・キーフブルクと言います」

 声音もその容貌に似て優しげで、セラフの灰青の瞳は揺れた。

「ローズ教会の噂する黒騎士とは似ても似つかないだろう。イメージを下げるためにデマを流しているからね。私は人の命を奪って盗みをした事は一度もない。そんなのはただの人殺しで奴らと同じだから」

 セラフは小さく息を吐き、合点がいったように頷いた。

「すみません、失礼しました。噂とはあまりに違う姿に少し驚いてしまって。僕はセラフと言います。あなたのお力添えをいただきたい」

「もちろんです。セラフ牧師。私が出した予告状にあった時刻に教会へ行けますか?少しお手伝いいただきたい事があります」

「はい。僕も教会の中に数人はいるであろうあなたの協力者になるつもりです」

「ヨハネ法王はローズ教会内にスパイがいる事を疑っているはず。気をつけて」

まじまじとニールを見つめるセラフにシルビアが声をかける。

「黒騎士の正体に驚いた?」

「意外でした。まさか、花嫁候補であるローラン・キーフブルクの父親とは思っていなかったので。何故です?何故あなたが黒騎士に?」

 無遠慮とは思ったが、セラフは聞かずにはいられない。人は殺さない。黒騎士のその信条は、美しく、尊い。だが胸の奥で、別の声が囁く。

 そんな甘さで、あの法王に勝てるのか?

「私は大事な人を法王に奪われた。私の妻だ」

 セラフの胸は激しく揺さぶられた。同じ痛みを味わっている黒騎士なら信用したいと思った。だからこそニールに問いかける。

「法王を殺せますか?」

 優しい怪盗は返事を躊躇うだろうと思ったセラフの予想は裏切られた。

「あぁ。娘に危害を加える者に容赦はしない」

 セラフは二重の衝撃を受けた。

「法王があなたの娘を狙っている!?」

「そうだ。シモン・イスカリアの兄であるヨハネ・イスカリアは弟とは違った種類の外道で気狂いだからな」

 ニールの碧眼が鋭い光を帯び、さっきとは別人のようだ。それこそセラフが求めていた黒騎士だったが、背筋がぞくりとした。

「ヨハネ法王がローランにこだわるのはなぜですか?」

「ローラの母親はスカーレット・ローザリアだ」

 セラフは明らかに動揺し、青ざめた。

「そんな……、まさか……ローズ王国の王女?でも、ローズ王国民は呪いのせいで子どもが作れないはずじゃ?」

 「奇跡が起きたんだ。ヨハネのラボで起きた事件は知ってるだろう。あの事件でスカーレットを逃したのは僕だ。結局、スカーレットは捕らえられてしまったけれど、ローラの存在は隠す事ができた。希少なサンプルを逃したと考えているヨハネは躍起になって、ローラを探してる」

 セラフは次々に明かされる事実に頭がついていかない。

「研究室の事件ってもう75年前の話ですよね?どんな接点があってローランの父親に?そもそも、あなたは誰ですか?」

「セラフ牧師。君も偽名だろう」

「ここで働く以上、そうなりますね。ニールさん、あなたの本当の名はなんですか?」

「それを知れば、もう後戻りは出来ないよ?」

優しい声とは裏腹に凄みのある表情に、セラフは息を飲む。

「ここにいま居る事が、まさに覚悟だと思うのですが」

ニールはため息をつく。


「私の本当の名は、セラフィム・バルバトスだ」


「は?」


 目を剥いたセラフはしばらく動けなかった。










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