反撃の狼煙
教室の空気は張り詰めていた。
教師が分厚い教材を開き、冷たい声で告げる。
「それでは、今日の朗読だ。一斉に読みなさい」
ページを開く音が教室中に広がり、続いて子どもたちの声が重なった。
「ローズ王国の兵士は、獣のように帝国の民を襲った」
「彼らは夜な夜な母親を襲い、子どもの前で血を啜った」
「彼らは血を浴びて踊り、バルバトス帝国を滅ぼすと高らかに叫んだ」
声は調子を揃えられ、まるで祈りのように反復される。
無垢な声で語られる“悪魔化された敵”の姿に、アリア・ルーンハートの背筋は冷たく震えた。
彼女の耳には、クラスメイトたちの声ではなく、叫びのような合唱が響いていた。
教師は満足げに頷き、黒板に大きく文字を書きつけた。
〈敵は怪物。バルバトス帝国こそが唯一の正義〉
チョークが黒板を叩く音が、教室に重く響いた。
アリアはペンを握りしめ、俯いたままノートを取った。
「ローズ王国のアラン王子は、だった一人で何千人もの帝国民を殺した大罪人だ。処刑されなかっただけでも幸運だと、なぜ言えるのか?」
一人の男子がすぐに立ち上がり、答える。
「帝国が寛大だからです!」
「その通り。王子や国民が生きていけるのは我々が常にテレビ番組を通して監視できるシステムがあるからだ。ローズ王国を監視するための『ローズ王国物語』チャンネルは視聴率90%を誇る。今や娯楽番組の体を
成しているが、本来の意味を忘れるな」
教師はクラス全体を見渡す。
「疑問を持つことは裏切りだ!今日の授業は以上。次回までにローズ王国のレポートをまとめておくように」
アリアは心の中に生まれた疑問を、声にすることはできなかった。
「「昨日の『ローズ王国物語』見た?」
その問いかけが、アリアの運命を大きく動かすきっかけだった。
下校中のアリアに声をかけたのは、一週間前に転校してきたばかりの少女、桜蘭だ。黒曜石のように艶やかな黒髪と、大きなブラウンの瞳。誰もが息を呑む“本物の美少女”で転校初日から男子が騒いでいた。
その視線をまっすぐに受けて、アリアは男子みたいにドキッとしてしまう。
「もちろん!アラン様、昨日も最高だった~!あの立ち振る舞い、かっこよすぎ!」
アリアが答えるより先に、アリアの幼馴染、サラが割り込むように声をあげた。鼻息荒く、眼鏡をずらしながら興奮気味にまくし立てる。
「……実は昨日の放送はまだ見れてないんだ」
アリアの返事に途端にサラの表情が曇った。ずれた眼鏡を直しながら言う。
「入学してから始まった道徳の授業だけど、昨日の授業はさらにショックだったよね!!アラン様が一人で千人以上も虐殺していたなんて。さすがにアラン様を嫌いになるかなと思ったけど、そんな心配、必要なかった。アラン様が人を殺すところなんて見てないし、もう100年前の事だから、他人事ではあるしね」
アリアが首を振る。
「私がショックだったのは、子どもの頃から大好きだった番組が隠しカメラの映像だったって事!いくら犯罪者とはいえ、プライバシーの侵害が許されるの?バルバトス帝国では違法とされてる動画もビジネス目的で出回っているんだよ?」
サラは理解不能というように一瞬固まり、不愉快そうに首を振った。
「犯罪者だから記憶を奪って監視しなきゃいけない。帝国民の義務と先生も言っていたでしょ」
「それにしても残酷なやり方だと思わない?いくら敗戦国とはいえ、私たちと同じくらいの子だっているのに」
サラは一重の目を見張り、責めるように私を見た。
「見た目に騙されないで。何千人ものバルバトス帝国民を殺したんだよ?それでも死刑にならないように温情をかけた結果に過ぎないわ」
アリアは露骨に顔を歪めた。
「帝国民はローズ王国の人たちを誰一人として殺していないというの?戦争中の正義って何なの?」
「悪いのは帝国に牙を剥いたローズ王国だって教科書にも書いてあったでしょ。化け物集団を野放しにしていたら帝国の方が危険なのよ?アリアの考えは危険だわ」
サラの父親は帝国の国家治安機関で働いていて、幼い頃から言い聞かせられた可能性が高い。それでもと、泣きそうな気持ちでアリアは言う。
「サラ。あなたは賢いわ。良く考えてみるべきよ」
サラはついに眉を吊り上げた。
「アリアってばいい子ぶって何?番組を見る事は帝国民の義務よ。
アリアがなんと言おうと私は見るわ!アラン様の花嫁候補も気になるし、彼に唯一選ばれた平民のローランについても知りたいから!あなたがいつまで見ないでいられる?一時の罪悪感にかられてるだけの偽善者でしかないじゃない」
肩で息をしていたサラは「私、今日はこっちから帰るから!」とさよならも言わずに行ってしまった。
サラの言う通りだ。私だって番組を楽しんでいたし、真実を知っても好奇心は抑えきれない。靴先に視線を落とす。
「アリアは本当にすごいね」
言い合いの行方を見守っていた楼蘭の言葉にアリアは肩を落とす。
「違うよ。サラの言うように私は偽善者だよ。アラン様が直接指名した花嫁候補の事も気になって仕方ないんだから」
「時計職人の娘で、ローラン」
「そうローラン・キーフブルク。みんなあの子を羨ましがってる」
「私、ローズ王国物語に関してはたぶん、誰よりも詳しいと思う」
「楼蘭も大ファンだったんだね!」
罪悪感を和らげようと、大げさに話してくれていると感じたアリアの胸がほわんと温かくなった。
「その逆。あんな番組、なくなればいいと思ってる」
見たことのない冷たい楼蘭の口調と表情にアリアは急激に胸が凍りついた気がした。
「ごめんなさい。転校生のあなたにとってあの番組は人権侵害でしかないわよね」
「なんでアリアが謝るの。あなたって本当にいい人よね」
輝く瞳で見つめられ、心地よい声で褒められ、アリアは思わず赤面した。
「あんな授業をもう3年間も受けているのにあなたはまとも」
真新しい紺色の制服が良く似合う楼蘭をまじまじと見つめた。他国ではきちんとした情報が与えられているのかもしれないとアリアは考えた。
「一番良く知っているってどういう事なの?」
「私の本当の名前がローラン・キーフブルクだと言ったら?」
思いもよらない答えに息を飲んだアリアは、笑い出してしまう。
「楼蘭も冗談なんて言うのね!あなたの名前の発音がロウランだからっていくらなんでも無理があるわよ!」
楼蘭は微笑んだ。
「ローラン、ローラとみんなから呼ばれている少女にはある能力があったの。母親の血を飲んだ事で覚醒した能力」
は?何を言っているの?
そんな気持ちが一瞬で消え、私は大声で訳の分からない叫び声を上げていた。
どういう事?さっきまでは確かに楼蘭の姿だったのに!画面で見た少女、ローラン・キーフブルクが目の前にいた。
「ローラン!?」
周りに不審な目で見られたけど、そんな事はどうでもいい。
「『魅了』と呼ばれる洗脳に近い能力なの。使い方によっては、見た目も違うように見せられるし、記憶もある程度は操作できる」
何、そのチート能力!
「その能力で?逃げ出したっていう事?」
帝国皇帝がローズ王国の人々の記憶を全て消したはずなに、どうやって逃げ出したと言うの?そもそも全くニュースにもなっていないけど、これって最高機密よね。
楼蘭……ローランは蕩けるような笑みを浮かべた。
「監獄から逃げ出してきた『犯罪者』がこの帝国で何をすると思う?」
冷や汗が出て、唾を飲み込むとごくっと音がした。 肉食動物に狙われた獲物になったような気がする。
「復讐」
呼吸が浅くなり、アリアは掠れた声で答える。
「手伝ってもらえる?私達、友達でしょう?」
買い物に付き合ってくれとでも言うような気軽さでローランは告げた。心臓が波打ち、奥歯を無意識に噛み締める。
「アリアの正義を見せてくれない?」
アリアは息を呑む。
「みんな……殺すの?」
「虐殺に興味はないわ。教科書の内容だって、事実とは全く違う。ローズ王国はそんな野蛮な国じゃない」
こんなに心を乱されたのは、兄が死んだあの日以来だとアリアは思い、少し震えた声で告げた。
「あなたを手伝う」
「アリアならそう言ってくれると思った。
今朝のニュース、見た? テレビ局にハッキングして“ローズ王国物語”の番組データを消したハッカーのこと。……あれ、あなたでしょ?」
アリアの目が大きく見開かれた。
「……えっ……?」
私の秘密を、どうして楼蘭が知っているの?
「私にもハッカーの支援者がいるのよ」
ローランは愉しそうに笑った。