09.志保の失敗
新人の時にやってしまいがちなミスがある。それを、志保がやらかした。
私が席にいない時に、志保が外線を取った。それは注文の電話。相手は携帯だったらしく、電波が悪くて社名を確認できない。二度聞き返し、それでも分からず、相手が不機嫌になったところで志保の心が折れた。
相手が分からないまま、製品名と数量だけは何とかメモをして電話を切る。
続けてまた外線。さらにもう一本。それを切った頃には、社名のヒントになりそうな記憶も曖昧になってしまった。
私が席に戻った時、志保の目には本当に涙が浮かんでいた。
「由香せんぱ~い」
志保が泣きながら私の腕を掴む。
事情を聞いた私が、志保に聞いた。
「納品先は確認したの?」
「うちの会社に決まってるだろって、怒られました」
納品先から探るのはだめだった。
「メモを見せて」
「はい」
もしかしたら製品から相手が分かるかもしれない。と思ったのだが、それもだめだった。どこでも使うような規格部品。全然ヒントにならない。
それでも、この時の私にはまだ余裕があった。
「電話を受けたのは何時頃?」
「えっと、十五時頃です」
「相手は携帯だったのよね?」
「そうです」
頷いて、私は電話機に手を伸ばした。
電話機には、着信履歴が二十件まで残されている。十五時前後の着信を調べて、電話番号を顧客データから検索すれば見付かる可能性は十分あった。
たとえ顧客データになくとも、その番号に掛けて聞き直せばよい。間違いなく怒られるだろうが、それは仕方ないだろう。
そう思っていたのだが。
「あの、由香先輩」
「なに?」
「その電話、非通知だったんです」
「そうなの!?」
私の顔から血の気が引いていった。
これはまずい。かなりまずい。
このままだと注文を飛ばしてしまう。間違いなく大クレームになる。
課長に報告する?
いや、そもそも担当が一課なのか二課なのかも分からない。
じゃあ、部長に相談?
いきなりそれはない、ような気がする。
久し振りに私も動揺していた。縋るような志保の視線を受けながら、私は必死に考える。
ふと。
「……缶コーヒー」
私が小さく呟いた。
「え?」
志保が首を傾げるが、その時私の手はすでに受話器を取っていた。
短縮ダイヤルで電話を掛ける。
呼び出し音が聞こえた。机の上の缶コーヒーを見つめながら、相手が出るのをじっと待つ。
やがて。
「はい、三上です」
「お疲れ様です、長峰です。主任、助けてください」
「何があった?」
驚く主任に、私は事情を説明した。
「なるほどね。今、笹山はいるか?」
「はい」
「ちょっと変わってくれ」
言われた通り、志保にかわる。
「はい、笹山です。……はい、そうです。……はい、男性でした」
主任の質問に志保が答えている。
やり取りを聞きながら、私は缶コーヒーを手に取って、それを両手で握り締めた。
主任からもらった缶コーヒー。
何となく飲むことができなくて、その日は引き出しにしまって帰った。次の日、今日こそは飲もうと机に出したのだが、やっぱり飲めずにまた引き出しへ。次の日また机に出し……。結局手を付けないまま今日に至っている。
「……はい、分かりました。すみません、ご迷惑をお掛けしてしまって」
志保が何度も頭を下げ、静かに受話器を置いた。
「どうだった?」
「心配するなって。俺が何とかするからって」
「そう。じゃあ、あとは主任に任せましょ」
笑顔で志保の頭をポンと叩く。
「今回の教訓。相手の社名や氏名は、怒られてもいいから間違いなく確認すること」
「はい」
「連続で外線が掛かってきた時は、無理にそれを取らないこと。準備ができてから取っても遅くはないし、志保が取らなければ、ほかの誰かが出るんだから」
「分かりました」
「とりあえず、トイレに行って化粧を直してきなさい。可愛い顔が台無しになってるわよ」
「すみません」
引き出しからポーチを取り出すと、うつむいたまま志保はトイレに向かった。
志保を送り出すと、私は手に持った缶コーヒーを見つめる。
思わず主任を頼ってしまった。それに今さらながら驚いていた。
「どうして私……」
握り締めていたからなのか、それとも別の理由があるのか。
冷め切っているはずの缶コーヒーが不思議と暖かく感じて、私は、そっとそれを胸に押し当てた。