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主任と私  作者: まあく
56/60

56.確かめなければいけないこと

「何かあったら連絡するのよ。遠慮なんかしたらダメだからね」

「分かりました。ありがとうございます」


 手を振る香織さんにお礼を言って、私はマンションを出た。

 歩きながら、私は自分の胸に手を当てる。幸い鼓動も呼吸も落ち着いていた。だが、頭と心はやっぱり乱れたままだ。家の帰る途中も、帰ってからも、頭の中はぐるぐる回りっぱなしだった。


 事故当時、私は父を轢いた人を恨んでいた。

 私たち家族を悲しみのどん底に突き落とし、住み慣れたマンションから古くて狭いアパートに追いやった人。


 どうして私たちがこんな不幸を背負わなければならないのか。

 どうして私たちがこんな苦しみを味わわなければならないのか。


 時と共に、その感情は薄れていった。

 それでも、父の命日や誕生日には必ず涙が出た。


 苦しみをもたらした憎い人。

 その人の息子が、三上雄介。


 私はこの事実を受け入れることができるのだろうか。

 私は主任を許すことができるのだろうか。


 たとえ私が許したとしても、母はどう思うだろうか。

 仮に母が許したとしても、弟はどう思うだろうか。


 答えを求めて私がもがく。

 出口を探して迷路を彷徨う。


 その暗闇の中、私はあることに思い至った。

 それを確かめる必要があると、私は思った。

 だから、翌日私は実家に帰ることにした。




「ただいま」

「おかえり」


 もうここに住んでいるわけではないに、私はいつも「ただいま」と言って玄関をくぐる。母も「おかえり」と言って迎えてくれる。

 家族の絆が実感できる気がして、私はこのやり取りが好きだった。


「和人はいないの?」

「遊びに行ってるよ。今日は遅いって」

「そっか」


 私はホッとした。今はまだ弟にちゃんと話せる自信がない。


「どら焼き買ってきた」

「ありがとう。いつも悪いわね」


 母はこの店のどら焼きが大好きだ。

 ご機嫌な母に袋ごと渡すと、私は部屋に上がった。


 座布団を引き寄せて小さなテーブルの前に正座すると、私は部屋を見渡した。

 アパートの間取りはいちおう2K。台所と一緒の部屋が一つと、もう一部屋。ただし、もう一つの部屋は三畳しかない。小さなタンス二つでいっぱいになる狭さだが、そこで弟は寝ている。

 お風呂とトイレは付いていた。これは本当にありがたかった。

 畳は去年替えたのできれいだが、それまではささくれだらけで、どこもかしこもチクチクしていた。

 壁は、相変わらずシミでいっぱいだ。自分で壁紙を貼り直すことも考えたのだが、結局実現していない。

 築五十年を越える木造アパート。駅から徒歩二十分。車も通れない細い路地の奥にあり、北向きで陽当たりは最悪。

 ゆえに、家賃はかなり安かった。

 改めて見ると、やっぱりボロい。私が住んでいるワンルームマンションが超優良物件に見える。


 ここに三人で住んでいたのだ。

 今も、母と弟はここに住んでいるのだ。


 ふと。


「何かあったの?」


 湯飲みをコトリと置いて、母が言った。


「まあ、ちょっとね」


 帰るというメッセージは事前に送っておいたが、それは今朝の話。こんなに急に帰ってくることなどこれまで一度もなかった。


 本当なら、こんなこと母に聞きたくない。

 でも、どうしても確認しておきたかったのだ。


「あのね、聞きたいことがあるんだけど」


 お腹に力を込め、母の目をしっかり見て、私が聞いた。


「お父さんの事故の相手の名前って、三上さんで合ってる?」


 母の動きが止まった。


「相手の人には息子さんと娘さんがいた。それで合ってる?」


 母が目を伏せる。


「あの事故以来、相手の家族からずっと賠償金が支払われ続けている。で、いいんだよね?」


 母が目を閉じた。

 その目を開き、しばらくテーブルを見つめてから立ち上がる。

 無言のまま隣の部屋に行き、無言のまま戻ってくる。

 そして母は静かに座ると、持っていたそれをテーブルにそっと置いた。


 それは、表面が少し色褪せている、銀行の通帳だった。


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