56.確かめなければいけないこと
「何かあったら連絡するのよ。遠慮なんかしたらダメだからね」
「分かりました。ありがとうございます」
手を振る香織さんにお礼を言って、私はマンションを出た。
歩きながら、私は自分の胸に手を当てる。幸い鼓動も呼吸も落ち着いていた。だが、頭と心はやっぱり乱れたままだ。家の帰る途中も、帰ってからも、頭の中はぐるぐる回りっぱなしだった。
事故当時、私は父を轢いた人を恨んでいた。
私たち家族を悲しみのどん底に突き落とし、住み慣れたマンションから古くて狭いアパートに追いやった人。
どうして私たちがこんな不幸を背負わなければならないのか。
どうして私たちがこんな苦しみを味わわなければならないのか。
時と共に、その感情は薄れていった。
それでも、父の命日や誕生日には必ず涙が出た。
苦しみをもたらした憎い人。
その人の息子が、三上雄介。
私はこの事実を受け入れることができるのだろうか。
私は主任を許すことができるのだろうか。
たとえ私が許したとしても、母はどう思うだろうか。
仮に母が許したとしても、弟はどう思うだろうか。
答えを求めて私がもがく。
出口を探して迷路を彷徨う。
その暗闇の中、私はあることに思い至った。
それを確かめる必要があると、私は思った。
だから、翌日私は実家に帰ることにした。
「ただいま」
「おかえり」
もうここに住んでいるわけではないに、私はいつも「ただいま」と言って玄関をくぐる。母も「おかえり」と言って迎えてくれる。
家族の絆が実感できる気がして、私はこのやり取りが好きだった。
「和人はいないの?」
「遊びに行ってるよ。今日は遅いって」
「そっか」
私はホッとした。今はまだ弟にちゃんと話せる自信がない。
「どら焼き買ってきた」
「ありがとう。いつも悪いわね」
母はこの店のどら焼きが大好きだ。
ご機嫌な母に袋ごと渡すと、私は部屋に上がった。
座布団を引き寄せて小さなテーブルの前に正座すると、私は部屋を見渡した。
アパートの間取りはいちおう2K。台所と一緒の部屋が一つと、もう一部屋。ただし、もう一つの部屋は三畳しかない。小さなタンス二つでいっぱいになる狭さだが、そこで弟は寝ている。
お風呂とトイレは付いていた。これは本当にありがたかった。
畳は去年替えたのできれいだが、それまではささくれだらけで、どこもかしこもチクチクしていた。
壁は、相変わらずシミでいっぱいだ。自分で壁紙を貼り直すことも考えたのだが、結局実現していない。
築五十年を越える木造アパート。駅から徒歩二十分。車も通れない細い路地の奥にあり、北向きで陽当たりは最悪。
ゆえに、家賃はかなり安かった。
改めて見ると、やっぱりボロい。私が住んでいるワンルームマンションが超優良物件に見える。
ここに三人で住んでいたのだ。
今も、母と弟はここに住んでいるのだ。
ふと。
「何かあったの?」
湯飲みをコトリと置いて、母が言った。
「まあ、ちょっとね」
帰るというメッセージは事前に送っておいたが、それは今朝の話。こんなに急に帰ってくることなどこれまで一度もなかった。
本当なら、こんなこと母に聞きたくない。
でも、どうしても確認しておきたかったのだ。
「あのね、聞きたいことがあるんだけど」
お腹に力を込め、母の目をしっかり見て、私が聞いた。
「お父さんの事故の相手の名前って、三上さんで合ってる?」
母の動きが止まった。
「相手の人には息子さんと娘さんがいた。それで合ってる?」
母が目を伏せる。
「あの事故以来、相手の家族からずっと賠償金が支払われ続けている。で、いいんだよね?」
母が目を閉じた。
その目を開き、しばらくテーブルを見つめてから立ち上がる。
無言のまま隣の部屋に行き、無言のまま戻ってくる。
そして母は静かに座ると、持っていたそれをテーブルにそっと置いた。
それは、表面が少し色褪せている、銀行の通帳だった。




