04.主任、三上雄介
あの一件以来、潮が引くように噂は消えていった。時々見掛けるお局様は、苛々していたり落ち着かなかったりと、目に見えて情緒不安定だ。
「由香先輩、お局様に何かしたんですか?」
楽しそうに志保が聞いてくる。
「何もしてないわよ」
画面から目を離すことなく私が答えた。
キーを叩きながら、三上主任とお局様の話を思い出す。
お局様が聞いたという会話。おそらくそれは、先月初めのあの会話だろう。
「こういうことは、奥さんに頼めばいいじゃないですか」
「うちのやつとは、もうそういう関係じゃないんだよ」
「だからって、なんで私がしなきゃならないんですか」
「最初の時のもね、そのあとのもね、すごーく良かったんだよ。だから、またお願いできたらなぁって」
「私、これからお昼ご飯なんですけど」
「悪いとは思ってるんだよ。でも、どうしてもね」
「もう、しょうがないですね」
「ほんとごめんね。じゃあ早速……」
フロアの一番奥にある、パーティションで区切られた打ち合わせブースの一つ。ドアには”来客中”の札を下げてある。
今は昼休みで、ほかのブースが使われていないことは確認済みだ。それでも、いつ人がやってくるか分からない。総務や経理の女性たちが時々ランチスペースとして使っていることも知っている。
ふいに、隣のブースで物音がしたような気がした。耳を澄ますが、それきり音は聞こえてこない。
気のせいということにして、私はいつもの”処理”を始めた。
「おお、いいね」
「そこはもうちょっと……そうそう」
いちいち声に出すのはやめてほしい
そんなことを頭の隅で考えながら、私は手早く”処理”を済ませる。
「はい、おしまいです」
「いやぁ、スッキリしたよ。ありがとう」
「これからはご自分でなさってください」
「あはは」
私の役目は終わった。
でも、ここからがまた面倒臭い。
「じゃあ、先に出ますね」
「分かった」
「いつも通りスマホにメッセージを送るので、そしたらブースから出てください」
「手間掛けるね」
「ほんとですよ」
ため息をつき、耳を澄ませ、外に人の気配がないことを確認して私はドアを開けた。
「またよろしくね」
愛想笑いの相手をひと睨みして、私はブースを出た。
三上主任がお局様に語った推察は、驚くほど事実に近かった。
私が松田部長に頼まれてやっていたのは、役員会用の資料作りの手伝いだ。部長は普通にパソコンが使えるのだが、残念ながら、デザインのセンスはゼロ。作る資料がことごとく野暮ったい。それを部長も気にしていたらしく、私に相談してきたのだ。以前、何人かの営業マンのプレゼン資料作りを手伝ったことがあるのだが、それを見た部長が私に目を付けたらしい。
松田さんが営業部長になったのは今年の四月。初めての役員会に向け気合いを入れて資料を作り始めたのだが、どうしても格好良くできない。そこで、こっそり私のところに相談に訪れ、私がこっそり資料作りを手伝うことになったのだった。
その資料が、思いのほか役員会で好評だったようだ。
「松田くん、この資料見やすいね」
社長が資料を褒めた。
「きみ、資料作りのセンスがあるんだね」
専務も資料を褒めた。
こうして部長は初めての役員会を無事に乗り越え、以来、私が毎月役員会の資料作りを手伝う羽目になったのだった。
私は体裁を整えるだけで、データを揃えるのも文章を考えるのも、全部松田部長がやっている。
「内容がよければ、体裁なんてどうでもいいじゃないですか」
「長峰くん、それは違うよ。内容の前に体裁なんだよ。資料っていうのはね、見た目がいいだけで、中身までよく見えるものなんだから」
真剣な顔で主張する松田部長に、私は毎回押し切られていたのだった。
今回の噂は、どうやら部長の耳には届いていなかったらしい。つい先程も、スマホに部長からメッセージが来た。
『いつもの場所で、いつものやつ、また頼むよ』
これをお局様が見付けたら、証拠を掴んだと狂喜乱舞するに違いない。
『部長の席でお手伝いしてはダメですか?』
いちおう聞いてみる。すると、速攻で返信がきた。
『うちのやつに、”自分のことは自分でしなさい”って言われてるんだ。手伝ってもらってることを、あいつに知られたくないんだよ』
三上主任の推察で違っていたのは、部長が見栄っ張りなのではなく、極度の恐妻家であること。頭が上がらないどころではなく、本当に恐れているとしか思えない。
奥さんは、もとうちの社員。知られる可能性はなくはないと思うけれど……。
『分かりました。では、昼休みにいつもの場所で』
『ありがとう!』
自分のお人好しさに呆れながら、同時に私は、結婚したら旦那様を大切にしようと強く思ったのだった。
そんなこんなで私に日常が戻った訳だが、今までとは明らかに違うことが一つあった。
「由香先輩、最近変じゃないですか?」
「えっ?」
驚いて隣を見ると、志保が真顔でこちらを見ている。
「何だかボーッとしていることが多いです」
「そ、そうかな」
「やっと不倫疑惑が晴れたのに、また面倒ごとを抱え込んでるんですか?」
「そうじゃないけど」
志保には、部長の資料作りを手伝っていることを話してあった。ただ、主任とお局様の話を盗み聞きしたことは、恥ずかしいから言っていない。
ちなみに、私の呼び方について志保に注意するのはやめている。みんなのいる前では”長峰さん”、二人だけの時は”由香先輩”と、憎らしいほどきっちり使い分けているからだ。
かくいう私も、二人だけの時は”志保”と呼んでいるので、そもそも強くは言えないのだが。
「困っていることがあるなら何でも言ってくださいね。私、由香先輩の力になりたいですから」
真剣な言葉に驚いたが、その気持ちは嬉しかった。
「ありがとう。困ったことがあったら相談するね」
「はい!」
可愛らしい顔が笑う。
私もにこりと笑顔を返して画面に向かった。
「さて、仕事仕事」
少し大きな声で言って、私はメールの返信を打ち始めた。
志保に言われるまでもなく、自分でも自覚があった。最近私は、気が付くと三上主任のことばかり考えている。
主任の態度は、あの出来事以降も変わらなかった。必要なこと以外私に話し掛けてくることもないし、私を見ることもない。入社以来ずっとそうだったので、これまではそれを気にしたこともなかった。
だが、あの出来事でそれが変わった。
主任が歩いていると、それを目で追ってしまう。声が聞こえると、それに聞き耳を立ててしまう。
とは言え、これは間違いなく恋愛感情ではなかった。
そもそも主任は、私の恋愛対象から外れていた。
三十才独身。もと営業一課のエース。
営業成績は昔から抜群で、主任になったのは二十六才。同期の中で最速だったそうだ。
天才肌とは真逆の努力型で、夜も休日も関係なく働き続けるその姿は同期たちを圧倒したとか。
仕事は間違いなくできる。
だが、それ以外に問題があった。
営業をしているくらいなので人当たりはいいのだが、人付き合いが非常に悪い。上司や先輩に誘われても、後輩に誘われても、決して飲みに行くことがなかった。歓迎会や送別会だけは参加するが、二次会には絶対行かない。頑ななまでに付き合いを拒んでいる。
私が入社一年目のバレンタインの時、チョコを渡そうとしたら、「お返しできないからいらない」と受取を拒否された。義理チョコだったとは言え、それでもショックだった。あの時の悲しい気持ちを私は一生忘れないだろう。
人付き合いは悪いが、見た目は、まあ悪くない。イケメンではないけれど、顔はじゅうぶん許容範囲。学生時代はスポーツをしていたらしく、体は引き締まっていて、座る姿も歩く姿も姿勢がよくて格好いい。
だが、近くで見るとやっぱり問題がある。
髭はきれいに剃っているが、いつもどこかにちょっとだけ寝癖があった。
スーツもネクタイもワイシャツも、私が入社した頃からまったく変わっておらず、長期間同じものをローテーションで使っているのがバレバレだ。
靴は磨いてあるけれど、すでにくたびれ感が出ている。鞄も、持ち手の色が変わっていて糸がほつれ始めていた。
腕時計はしていない。それは構わないと思うのだが、持ち物各種がまたよくなかった。
手帳は革製のシステム手帳。よく使い込まれたそれは表面が変色していて、味があるというには厳しい状態。しかも、ペンはたぶん百均だ。
ちらりと見たことのある二つ折りの財布は、汗と思われるシミがはっきり見てとれた。営業マンだからそれは仕方ないと思うのだが、そろそろ何とかしてもいいのではないだろうか。
唯一いいなと思ったのは、ハンカチを常備していること。手を洗った後は、いつもちゃんと手を拭いている。そのハンカチも、アイロンが掛かっているかといえば怪しいのだが。
二課に異動になった今はともかく、一課時代は結構稼いでいたはず。服装や持ち物に気を遣うとか、後輩を飲みに連れて行くとか、そんなことをしてもいいと思う。
一部の人から「仕事と貯金にしか興味がないんだろう」とか「人に言えない趣味があるに違いない」などと言われているが、完全に自業自得だ。
お金を持っているのにケチ臭い。仮に私が主任と付き合うことになったとしても、デートの度にイライラすること間違いなしだ。
職場の先輩として、あるいは優秀な営業マンとして、尊敬の対象にはなっても恋愛対象にはならない。
主任とはそういう人だった。
それなのに、主任のことがこんなにも気になるのは、あの一件に対してお礼を言えていないからだ。
お菓子の一つも渡しながら、ありがとうございましたと言えればそれでスッキリする。そうすれば、モヤモヤすることなく仕事に集中できる。
でも、それでは盗み聞きしていたことがバレてしまう。盗み聞きをするなんて、お局様と同じではないか。お局様と同類と思われることだけは絶対に避けたい。
「これは、本格的に何とかしないとなぁ」
私の悩みは、予想外の方向に発展してしまったのだった。