03.盗み聞き
人事部長の呼び出しを受けて以来、何となく視線を感じるようになった。その上、何となくみんなから避けられている気がする。
それが”何となく”でなくなるのに、それほど日数は掛からなかった。
「長峰さん、会社を辞めちゃうってほんと?」
営業マンの一人が心配そうに聞いてきた。
ぽっちゃり体型のその人は、しょっちゅう面倒ごとを起こすことで有名な人物だ。ミスをする度にこっぴどく怒られるのだが、まったく落ち込むことなく仕事に邁進するという超前向きな性格をしている。
叱る先輩や上司に「次こそは頑張ります!」と元気に宣言して席に戻っていく姿から、私はこっそり”ポジティブくん”と呼んでいる。
私より二つ先輩なのだが、その頼りなさは相当なものだ。ちなみに私は、こういう人に母性本能がくすぐられることはない。
仕事の手を止め、くるりと向き直って私が答える。
「どうして私が会社を辞めなきゃいけないんですか」
すると、ポジティブくんが声を落として言った。
「だって、社内不倫で人事部長に注意されたんでしょう? 長峰さん、近々辞めるだろうってみんな言ってるよ」
さすがポジティブくん。鈍感さと遠慮のなさは筋金入りだ。
「みんなって、具体的には誰が言ってるんですか?」
「えっと、僕が聞いたのは、総務部の人からだけど」
総務部といえば、お局様のホームグラウンド。噂の製造販売所である。
私は小さく息を吐き出すと、ポジティブくんを正面から見て、はっきりと言った。
「私は不倫もしていませんし、辞めることもありません」
「そうなの?」
ポジティブくんは驚き、続いてホッとしたように笑う。
「そうか、良かった!」
簡単に納得してくれた。なんて素直な人だろう。
「長峰さんが辞めちゃったら、僕、泣いちゃうところだったよ」
これは本音に違いない。ポジティブくんがまき散らす無数の小さなミスを、表沙汰にならないようフォローしているのは私なのだから。
「本当に辞めないんだよね?」
「辞めません。だから、みんなにもそう言っておいてください」
「分かった!」
元気に頷いて、ポジティブくんは笑顔で去って行った。
それを見送った私は、頬杖をついて画面をぼうっと眺める。
「これは、本格的に何とかしないとなぁ」
マウスを適当にカチカチ鳴らし、コーヒーを一口飲み、うーんと唸った後、私は席を立った。
こんな状態では仕事に集中できない。かと言って、解決方法も思い付かない。
いや、じつは解決方法はあった。すべてを明らかにしてしまえばいいだけだ。でも、それはできるだけ避けたい。相手に迷惑が掛かってしまう。
困った……
ぼんやり考えながら歩き出すと、前を行く女性社員を見付けた。
思わず心の声が洩れる。
「出たな、妖怪」
私を悩ましている元凶、お局様だ。
総務部があるのは一つ下の階。お局様が営業部のフロアに来るなんて珍しい。
そのお局様の前を、一人の男性社員が歩いていた。
「あれは……三上主任?」
営業二課の主任、三上雄介。もと営業一課のエースだった人だ。
ポジティブくんとは真逆で、この人がミスをしたところを見たことがない。二課に異動する前は、朝礼で成績優秀者としてその名前を何度も聞いてきた。
うちの営業部は、既存顧客を担当する一課が花形で、新規開拓をメインとする二課は注目度が低い。三上主任の異動の理由は明らかでないが、社内の揉め事に巻き込まれた結果だともっぱらの噂だった。
その主任とお局様。この組み合わせはとても珍しい。しかも、気のせいかお局様の背中に落ち着きがないように見える。
二人はフロアの奥にある打ち合わせブースに向かっていた。私も何となく後ろをついていく。
二人が一番奥のブースに入っていった。ドアが閉まったのを確認してから、私も静かに隣のブースに入る。そして札を使用中にすると、音を立てないようにドアを閉めた。
主任たちが入ったブースは、奇しくも私と松田部長が”密会”によく使う場所だ。
何やってんのよ、私は
自分に呆れながら、パーティションの向こうの会話に聞き耳を立てる。
すると、三上主任の声が聞こえてきた。
「早速ですが、山下さん。先程の件について、詳しくお聞かせ願えますでしょうか」
山下さんというのは、お局様の本名だ。
「さっき答えたでしょう? 私忙しい……」
「このブースで、松田部長と長峰が不倫をしていたということですよね?」
「……そうよ」
「その現場を見たんですか?」
「見た訳じゃないけど、どう考えたってあれは不倫でしょ」
「不倫と判断した理由を具体的に教えてください」
「隣のブースにいたら、会話が聞こえてきたのよ。こういうことは奥さんに頼めばいいとか、すごく良かったとか、スッキリしたとか」
「それって、本当に不倫なんですか?」
「そうに決まってるわ。それ以外に何があるのよ」
「例えば、部長が長峰にパソコンを教わっていたとか」
「そんなの自分の席で教わればいいことでしょう?」
「部長は見栄っ張りです。プレゼン資料を作る作業をこっそり長峰に頼んでいたとか、そんな可能性もあるんじゃないですか?」
「そんな可能性ないわ! だって松田さん、”うちのやつとはもうそういう関係じゃないんだよ”なんて言ってたのよ!」
「ああ、それですか」
「何よ、”ああ、それですか”って」
「部長の奥さん、パソコンのインストラクターをやってるんです。部長、よく”パソコンができないってうちのやつにバカにされる”っておっしゃってますからね。きっとそのことでしょう」
「そんなの三上くんの想像でしょう?」
「部長と長峰が不倫してるっていうのも、山下さんの想像ですよね」
「なっ!」
「あなたは、想像だけで事実をねつ造して噂を広めている。それどころか、想像でしかない出来事を人事部長に伝えて、事態を大きくしようとしている」
「そんなこと……」
「山下さん。あなたは松田部長に事実を確認したんですか? 長峰に事情を聞いたんですか?」
「……」
「二人がそういう会話をしていたのは、たぶん事実なんでしょう。でも、そこから先は、全部山下さんの想像です。想像で人様に迷惑を掛けるのは良くないことだとは思いませんか」
「どうしてあなたにそんなこと言われなくちゃ……」
「俺の時は我慢しました。あれは俺も悪かったと思っているので。でも、今回は我慢しません。何ならこの件、専務にお伝えして判断を仰ぎましょうか?」
「それは……」
「困りますよね。では、責任をもって噂の火消しをしてください」
「……」
「火消し、してくれますよね?」
「わ、分かったわよ」
「じゃあ、今すぐ人事部長に”あれは自分の勘違いだった”と話してきてください。総務部の皆さんにもきちんと説明してくださいね」
「……」
「分かりましたね?」
「分かったって言ってるでしょ!」
ガタン!
イスが倒れる音がした。
「もう、何なのよ!」
バタン!
激しくドアが閉まる。
ガタガタとイスを直す音がして、最後に小さな声が聞こえた。
「まったく」
それを最後に隣のブースは沈黙した。
気配がなくなったことを確認して、私もブースを出る。
「どうして三上主任が?」
混乱したまま、私は自分の席に戻っていった。