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主任と私  作者: まあく
28/60

28.志保と主任

 定時と同時に志保が立ち上がった。


「お先に失礼します」

「あ、お疲れ様」


 ビックリする私を見向きもせずに、志保は更衣室へと向かっていった。こんなことは、カフェで志保と主任が話しているのを見掛けた時以来だ。

 何となくいやな予感がして主任の席を見る。すると、あろうことか主任までが鞄を持って立ち上がった。


「お先」

「あれ、珍しいっすね」

「ちょっと用があるんだ」


 そんな会話が聞こえた。

 その瞬間、私は作業中のファイルを閉じてパソコンのシャットダウンに入る。急いで机の上を片付け、コーヒーを飲み干すと、鞄を手に立ち上がった。


「お先に失礼します」


 周りに聞こえないように小さな声で挨拶をして、こそこそと給湯室に向かう。カップを洗いながら時間調整をし、頃合いを見計らって更衣室に入ると、急いで着替えを済ませて外に出た。

 ろくに鏡も見ていないので、髪が乱れているかもしれない。だけど、そんなことより今はあの二人を見付けることが先だ。

 ビルから出た私は、駅と反対方向に目をこらす。その目が、道路の向こう側を歩く志保を見付けた。あのカフェで待ち合わせをしているのだろうか。

 周りに主任の姿がないことを確認してから、私は道路を渡って志保のあとを追い掛け始めた。


 カフェに行くなら、この先の大通りを渡ることになる。信号を渡るタイミングが難しいかも、などと考えていると、志保は、大通りを渡らず右に折れた。


 いったいどこへ行くの?


 少し遅れて右に曲がった私は、志保が意外な店に入っていくのを見た。それは、紳士物の鞄や靴を売っている店だった。

 店の入り口に近付いて、そっと中を覗く。

 店の中には、志保と、そして主任がいた。


 二人が店員さんとやり取りをしている。

 それが終わると、志保が手を伸ばした。主任がその手に鞄を預けた。

 志保は笑っていた。主任も照れくさそうに笑っていた。

 店員さんに導かれて、二人が店の奥へと入っていく。

 誰もいなくなった空間を見つめ続け、静かに目を閉じた後、私は店から離れて駅へと向かった。


 家に帰った私は、シャワーを浴びて髪を乾かすと、食事も肌の手入れもせずにベッドに潜り込んだ。

 その日の夜は、私史上最も長い夜となった。


 翌朝。


「おはようございます」

「おはよう」


 フロアのあちこちから声が聞こえる。

 いつも通りの朝。いつも通りの風景。

 その風景の中で、いつもと違う会話が聞こえてきた。


「主任、鞄変えたんすか?」

「ああ」

「もしかして靴も?」

「まあな」

「いいっすね! 俺も新しいの買おうかなぁ」


 ここからでは、主任の鞄も靴も見ることはできない。

 でも、それでよかった。どんな鞄なのか、どんな靴なのか知りたくもなかった。


 そこに明るい声が響く。


「おはようございます、由香先輩」


 いつもの挨拶。”おはようございます”は大きな声で、”由香先輩”は私の耳元で囁いて志保が笑う。

 その笑顔は、女の私が見ても可愛いと思う。それが、今日はいつも以上に輝いて見えた。


 やっぱり、そういう事よね


 昨日の夜、私は心に決めたのだ。

 可愛い後輩と尊敬する上司。その二人の恋を、私は応援するのだ。


「志保、何かいいことあった?」

「え? 何もないですよ」


 そう答えるくせに、顔から笑みが消えることはない。


「何かあったら、ちゃんと私に教えなさいよ」

「何のことですか?」

「いいからいいから」

「よく分からないですけど、分かりました」


 ご機嫌のまま頷いて、志保は仕事の準備に入った。

 私も画面に向き直って、お腹に力を込める。


「さあ、今日も一日頑張ろう!」


 大きな声を上げながら、私は昨日放って帰った仕事の続きを始めた。


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