28.志保と主任
定時と同時に志保が立ち上がった。
「お先に失礼します」
「あ、お疲れ様」
ビックリする私を見向きもせずに、志保は更衣室へと向かっていった。こんなことは、カフェで志保と主任が話しているのを見掛けた時以来だ。
何となくいやな予感がして主任の席を見る。すると、あろうことか主任までが鞄を持って立ち上がった。
「お先」
「あれ、珍しいっすね」
「ちょっと用があるんだ」
そんな会話が聞こえた。
その瞬間、私は作業中のファイルを閉じてパソコンのシャットダウンに入る。急いで机の上を片付け、コーヒーを飲み干すと、鞄を手に立ち上がった。
「お先に失礼します」
周りに聞こえないように小さな声で挨拶をして、こそこそと給湯室に向かう。カップを洗いながら時間調整をし、頃合いを見計らって更衣室に入ると、急いで着替えを済ませて外に出た。
ろくに鏡も見ていないので、髪が乱れているかもしれない。だけど、そんなことより今はあの二人を見付けることが先だ。
ビルから出た私は、駅と反対方向に目をこらす。その目が、道路の向こう側を歩く志保を見付けた。あのカフェで待ち合わせをしているのだろうか。
周りに主任の姿がないことを確認してから、私は道路を渡って志保のあとを追い掛け始めた。
カフェに行くなら、この先の大通りを渡ることになる。信号を渡るタイミングが難しいかも、などと考えていると、志保は、大通りを渡らず右に折れた。
いったいどこへ行くの?
少し遅れて右に曲がった私は、志保が意外な店に入っていくのを見た。それは、紳士物の鞄や靴を売っている店だった。
店の入り口に近付いて、そっと中を覗く。
店の中には、志保と、そして主任がいた。
二人が店員さんとやり取りをしている。
それが終わると、志保が手を伸ばした。主任がその手に鞄を預けた。
志保は笑っていた。主任も照れくさそうに笑っていた。
店員さんに導かれて、二人が店の奥へと入っていく。
誰もいなくなった空間を見つめ続け、静かに目を閉じた後、私は店から離れて駅へと向かった。
家に帰った私は、シャワーを浴びて髪を乾かすと、食事も肌の手入れもせずにベッドに潜り込んだ。
その日の夜は、私史上最も長い夜となった。
翌朝。
「おはようございます」
「おはよう」
フロアのあちこちから声が聞こえる。
いつも通りの朝。いつも通りの風景。
その風景の中で、いつもと違う会話が聞こえてきた。
「主任、鞄変えたんすか?」
「ああ」
「もしかして靴も?」
「まあな」
「いいっすね! 俺も新しいの買おうかなぁ」
ここからでは、主任の鞄も靴も見ることはできない。
でも、それでよかった。どんな鞄なのか、どんな靴なのか知りたくもなかった。
そこに明るい声が響く。
「おはようございます、由香先輩」
いつもの挨拶。”おはようございます”は大きな声で、”由香先輩”は私の耳元で囁いて志保が笑う。
その笑顔は、女の私が見ても可愛いと思う。それが、今日はいつも以上に輝いて見えた。
やっぱり、そういう事よね
昨日の夜、私は心に決めたのだ。
可愛い後輩と尊敬する上司。その二人の恋を、私は応援するのだ。
「志保、何かいいことあった?」
「え? 何もないですよ」
そう答えるくせに、顔から笑みが消えることはない。
「何かあったら、ちゃんと私に教えなさいよ」
「何のことですか?」
「いいからいいから」
「よく分からないですけど、分かりました」
ご機嫌のまま頷いて、志保は仕事の準備に入った。
私も画面に向き直って、お腹に力を込める。
「さあ、今日も一日頑張ろう!」
大きな声を上げながら、私は昨日放って帰った仕事の続きを始めた。




