23.パエリアからの、部長に相談
目の前には、この店の看板料理のパエリアが置かれていた。
平たい鍋をムール貝やエビ、パプリカなどが色鮮やかに彩る。サフランの香りが嗅覚を刺激し、見た目と相まって大いに食欲をそそる、はずだったのだが。
「由香先輩、今度は何があったんですか?」
バレると思ってはいたが、やっぱりバレた。
「まあ、ちょっとね」
冴えない声で志保に答えて、私は水を一口飲んだ。
約束通り志保と食事に来たのはいいが、会社で聞いたお局様と腰巾着の会話が気になって全然食事に集中できない。
「先輩がおかしいの、カップを洗って戻った後からですよね」
私の気持ちがこれほど簡単に分かってしまうのは、私の演技が下手なのか、それとも志保が鋭いのか、一体どちらなのだろう。
「今なら周りの席にお客もいません。誰かに聞かれることもありませんよ」
そう言って志保が私を見つめる。
このまま食事を続けるのは志保にも悪い。声を抑えつつ、私は給湯室での会話を志保に話した。
話を聞き終えた志保が、顔をしかめながら言う。
「その話、私も聞いたことがあります」
「そうなの!?」
思わず声を上げた私が、慌てて口を押さえる。
「それっていつ?」
「つい最近です。開発部にいる同期の男子から聞きました」
「どうして開発部の子が?」
開発部の勤務地は、郊外にある工場だ。本社との接点はあまりないと思うのだが。
「書類の提出で総務に来た時、対応したのがお局様だったみたいで、そこで聞かれたらしいです。”権藤さんは元気か”って」
権藤さんとは、前営業部長の名前だ。
前部長は、営業と関連の薄い製造の現場に飛ばされていた。つまり、現在は工場勤務なのだ。
「よく分かりませんって答えたら、なぜかお局様が、権藤さんと三上主任の話を始めたって言ってました。私たちの入社前の話ですし、全然興味が湧かなかったって、その子は笑ってましたけど」
私は、気持ちを落ち着かせるためにもう一口水を飲んだ。
今年入ったばかりの新人にそんな話を聞かせて、一体何になるというのだろうか。非常識にもほどがある。
腹が立たった。もの凄く腹が立った。
「お局様、何考えてるんですかね。何か狙いがあるんでしょうか」
「狙い?」
志保に言われて、今度は急に心配になる。
もしかして、主任の評価を落とすため?
お局様が三上主任に恨みを持っている可能性は十分あった。私の不倫騒動(?)の時、主任に責められて、お局様は噂の火消しを余儀なくされている。
それだけではない。
あの時、主任がお局様に言った言葉。
「俺の時は我慢しました。あれは俺も悪かったと思っているので。でも、今回は我慢しません」
間違いなく、過去にも主任とお局様との間に何かあったのだ。
「お局様がただの噂好きっていうだけならいいんですけど、変なことを考えてたら、ちょっと面倒ですよね」
エビの殻を剥きながら志保が言う。
「そうね」
呟いて、私もエビを手に取る。
「このエビ、美味しいですよ」
「そう?」
答えて私もエビを口に入れたが、あまり味がしない。
志保にも店にも本当に申し訳ないのだが、この夜のパエリアの味を、私はほとんど覚えていなかった。
翌日。
月初め恒例の仕事が無事に終わると、松田部長が満足そうに笑った。
「いやあ、今回も助かったよ」
「いえ」
いつもなら、この後私がブースを出て様子を窺い、誰もいないことを確認してから部長にメッセージを送ることになっている。
だが、私は席を立つことをしなかった。
「あの、部長。ちょっとお話があるのですが」
「お、長峰くんから話があるなんて珍しいね」
なぜか部長は嬉しそうだ。
この笑顔を曇らせることになりそうで申し訳ないと思ったのだが、昨夜からずっと思い悩んでいた私は、やはり思い切って聞くことにした。
「部長は、前の営業部長がどうして工場に異動になったかご存知でしょうか」
予想通り、部長の笑顔が固まった。
構わず私が続ける。
「前部長の異動と、三上主任の異動には関連があると噂になっています。一体何があったんでしょうか」
「長峰くんは、どうしてそれが知りたいんだい?」
部長の顔は笑ったままだ。
だが、目が笑っていない。
たぶん私は、聞いてはいけないことを聞いているのだ。
うちの会社の場合、通常の人事異動は三月に辞令があり、四月から新しい部署に配属となる。とは言っても、正式な辞令が三月になるというだけで、普通は年明けくらいから本人や周囲には知らさる。そうしないと業務の引き継ぎができないからだ。
しかし、この春の営業部長の交代と三上主任の異動は、本当に突然発表された。送別会を開く間もなく前部長は去って行き、即日松田体制へと移行した。
三上主任も一課から二課へと移り、担当していた顧客はすべて別の営業マンに引き継がれた。
当然、周りは異動の理由を知りたがったが、松田部長も三上主任もその件について口を開くことはなかった。いつもなら人事部周辺から何となく漏れ伝わるのだが、今回は一切情報が出てきていない。
様々な憶測が飛び交ったが、人の噂も七十五日とはよく言ったもので、今ではもう誰もそのことを気にしなくなっている。
それを、私はわざわざほじくり返そうとしているのだ。
松田部長が私を見つめる。
その目を真正面から見つめ返し、お腹に力を込めて私が答えた。
「その時のことを噂している人がいます。その人は、噂を本社以外の社員にまで広めようとしていました。それを私は止めさせたいんです。そのためには、本当のことを知っている必要があると思うんです」
私は、用意していた答えを一息に話した。
松田部長から情報を引き出すために、昨夜私は一生懸命シナリオを考えた。部長に「なぜ?」と聞かれたら、こう答えると決めてきた。
ただ、ここから先はちゃんとしたシナリオがない。結局は出たとこ勝負だ。
松田部長が私を見つめる。
私が必死にその目を見つめ返す。
ふと。
「まあ、いいでしょう」
部長の目が、笑った。
「長峰くんにはお世話になっているからね」
「ありがとうございます!」
私は思い切り頭を下げた。
資料作りを手伝っておいて良かった。私のお人好しもたまには役に立つということだろう。
顔を上げた私に部長が言う。
「ただ、さすがに社内では話せないかな。今夜、どこかで食事でもしながらどう?」
「分かりました」
「長峰くんは、お酒飲めたっけ?」
「少しなら」
「了解。あとで店の場所を送るから、現地集合にしよう」
「はい」
私が頷く。
「よろしくお願いします。では、いつも通り私が先に出るので、少しお待ちください」
「うん、よろしくね」
立ち上がってもう一度頭を下げると、私はノブに手を掛けた。
その時、部長が私に不意打ちを食らわせる。
「それにしても、長峰くんがこんなに必死になる理由って、一体何なんだろうねぇ」
驚いて振り向くと、部長がいたずらっこのような笑みを浮かべていた。
「あ-、うそうそ。そんなの気にしてないよ。じゃあまた後で」
「し、失礼します!」
外の様子を窺うことも忘れて私は外に出る。
ドアを閉め、足早にブースを離れた私は、そのままトイレに直行して個室に籠もった。そのせいで部長にメッセージを送るのが遅れてしまったが、それは絶対私のせいではないはずだ。




