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主任と私  作者: まあく
21/60

21.外線に感謝

「代官産業の購買部長、降格させられたらしいですね。さっき営業の皆さんが話してました」


 私の机にマグカップを置きながら志保が言った。


「由香先輩、この間お詫びに行ったじゃないですか。その時何かあったんですか?」


 顔を覗き込んでくる志保に、私が素っ気なく答える。


「まあ、いろいろね」


 志保はまだ何か聞きたそうだったが、無言でコーヒーを飲む私を見て諦めたらしく、席に座って仕事を始めた。




 あの日、代官産業からの帰り。


「まったく、三上くんにはヒヤヒヤさせられたよ」


 疲れ切った様子で課長がこぼす。


「事前に聞いていなかったら、きっと僕はあの場で卒倒していたと思うよ」


 ネクタイを外しながら、課長が大きく息を吐いた。


 事前に聞いていた?


 私が疑問の視線を主任に投げる。

 それに答えることなく、主任もネクタイを外し始めた。


「俺も、ああいうのは二度とごめんです」


 そう言って、外したネクタイを鞄にしまう。

 同じくネクタイをしまいながら、課長が言った。


「とにかく、あとは先方からの連絡を待つことにしよう。僕は寄っていくところがあるから、先に帰っていてくれたまえ」


 軽く手を上げると、課長は人混みの中に消えていった。

 事なかれ主義の課長が、先程のやり取りをあまり気にしていない。益々分からなくなった私に主任が言った。


「俺たちは、少し休んでから帰るか」

「はい」


 喉がカラカラだった私は素直に頷く。

 近くのカフェに入り、アイスコーヒーを買って、私たちは隅のテーブル席に座った。コーヒーは主任がおごってくれた。お金を出す暇もなかった。


 主任がガムシロップとミルクを入れている間に、私はグラスの半分ほどを一気に飲んでしまった。冷たい感触が喉から胃へと伝わっていく。体中が潤っていくような、とても気持ちのいい感覚だった。

 ホッと息をついた私に主任が言う。


「今日は大変だったな。お疲れ様」

「いえ」


 答えて私はうつむいた。

 気持ちは落ち着いたものの、やはり余韻は残っている。すぐ元気になれるほど、私はタフではなかった。

 私をじっと見ていた主任が、ストローでカラカラとコーヒーをかき混ぜる。それを一口飲んで、また言った。


「あれだけ言われたらしばらく引きずるだろうけど、まあ、あんまり気にするな」


 気にするなと言われても、それは無理な話だ。

 気になることがいくつもあった。その中でも一番気になっていることは……。


「でも、私のせいで、代官産業さんの大切な情報が漏れてしまいました」


 うつむいたまま私が言った。

 すると。


「ああ、あれな」


 やけに軽い声がした。


「あんなの、うちから値引きを引き出すための、くだらない脅しだよ」

「え?」


 驚いて私が顔を上げる。


「リバースエンジニアリングって知ってるか?」

「えっと、聞いたことはあります」


 頷く私に、主任が説明を始めた。


「技術情報が公開されていない製品を購入して分解、研究することを、リバースエンジニアリングという。多くの会社でやっていることだ」

「そうなんですか?」

「そうだ。だから、代官産業の製品にどんな部品が使われているかなんて、知ろうと思えばどこの会社でも知ることができるんだよ」


 主任が笑う。


「おまけに、今回うちが納めた中に特注部品はなかった。たとえあったとしても、細かい仕様なんて普通書かない。請求明細から企業秘密が漏れるなんて、あの部長の言い掛かりなのさ」

「そうなんですね」


 私が胸を撫で下ろす。

 安心したからか、息をするのが楽になった。


「あの、主任」


 もう一つ、気になることを聞いてみた。


「本当に、今日のことを工業会でお話しするんですか?」


 主任が驚いたように私を見た。そのまま黙って私を見続ける。

 やがて。


「ばーか。言うはずないだろ」


 私の心配は、見事に一蹴された。


「向こうが脅しで来たから、こっちも脅してやろうと思っただけだ。取引先の悪口を公の場で話すなんてことしたら、こっちが信用を失っちまう」


 ホッとして私が微笑んだ。

 主任が、コーヒーを一口飲んで続ける。


「あの人は、今年の四月に部長になったばかりだそうだ。役員の縁故採用らしいけど、どの部署に行っても役に立たなくて、困り果てた上での人事だったらしい」

「そんな事情を、よくご存知ですね」

「佐藤さんが教えてくれた」


 佐藤さんとは、さっきまで一緒にいた先方の担当者だ。


「佐藤さんも困っていたよ。だから、今日の出来事は、佐藤さんに都合が良かったんじゃないかな」

「どういうことですか?」


 私が首を傾げる。


「佐藤さんはね、いい人そうに見えて、じつはもの凄くしたたかなんだよ。たぶん、今日のことを利用して、あの部長を飛ばすつもりだろう」

「そうなんですか!?」


 思わず声を上げた私を主任が叱った。


「声が大きい」

「すみません」


 慌てて口を押さえる私を見て、主任が笑う。

 そして、さらに驚くことを言った。


「あらかじめ佐藤さんに言われてたんだ。理不尽なことを言われたら、遠慮なく反撃していいですよってね」


 それを聞いて、会議室を出る時の主任と佐藤さんのやり取りを思い出した。


 ありがとうございます

 いえ、こちらこそ


 微笑みながら交わされたあの会話は、そういうことだったのか。


「あの部長の後ろ盾だった役員が、この春退任したらしい。代官産業の人事部にとっても、厄介者をどうにかできるいい機会になったんじゃないかな」


 厄介者扱いされているのに、本人だけが分かっていなかったということか。

 何だかあの部長が哀れに思えてきた。


「このことは、うちの部長と課長しか知らない。だから誰にも言うなよ」

「分かりました」


 しっかり目を見て答える。

 何だか一気に力が抜けた。そして、ちょっと腹が立った。あの部長と私だけが、何も知らないままあの場にいたということになる。

 私は恨めしげに主任を見た。


「結局今日の謝罪って、主任と佐藤さんの描いたシナリオ通りになったっていうことですよね」


 睨む私に主任が答えた。


「佐藤さんにとってはそうかもしれない。だが、俺の描いたベストシナリオにはほど遠いよ。あの部長の非常識さは、俺が想定していた中でも最悪レベルだったからな」


 主任がグラスを持ち上げる。

 ストローをくわえ、半分以下になるまで一気にコーヒーを飲む。

 それをちょっと乱暴に置いた主任が、小さな声で、驚くようなことを言った。


「あやうく本気でぶん殴るところだった」


 私は目を丸くした。


「さすがに殴るのはどうかと」


 すると、怒ったように主任が言った。


「長峰にあんなひどいことを言ったんだぞ。一発くらい……」

「え?」


 予想外の言葉に私が驚く。

 驚いた私を見て、主任も驚いていた。


「あ、いや、別に深い意味は……」


 主任は目をそらすと、いきなりグラスを持ち上げ、ストローを外してコーヒーを一息に飲み干した。あまりに勢いよくグラスを傾けたので、氷がドドッと押し寄せる。

 主任が慌ててグラスを戻した。コーヒーはこぼれなかったが、口の周りはビショビショだ。


「これ、どうぞ」

「すまない」


 私から紙ナプキンを受け取ると、主任は口の周りやら鼻の頭やらを拭き始めた。

 拭き終えると、それをクシャッと丸めてトレーに転がす。


「まあ、その、なんだ。とにかく、今日のことは気にするな」


 主任が私をチラリと見る。

 そして、あさっての方向を向きながら言った。


「これからも、何かあったら俺に言え」


 私が目を見開いた。

 主任がさらに動揺した。


「いや、深い意味は……」


 またグラスを持ち上げて、今度は氷をガリガリと食べ始める。

 もと一課のエースとは思えない、見事なまでの狼狽え振りだ。


 そんな主任を私が見つめる。

 私の視線に気付いた主任が、怒ったように言う。


「なんだ、何がおかしい」


 その両耳は、見事なまでに真っ赤だ。


「いえ、何でもありません」


 私は、ゆっくりグラスを持ち上げると、ゆっくりコーヒーを飲み干した。

 氷を全部食べてしまった主任が、カタンと音を立ててグラスをトレーに戻す。

 そしてもう一度口の周りを拭くと、鞄を手に取った。


「帰るぞ」

「はい」


 トレーを返却口に返して、主任はさっさと歩き出した。

 その後ろを私がついていく。


 このあと主任は、会社に帰るまで私を見なかった。

 このあと私は、会社に帰るまで、ずっと微笑んでいた。




「由香先輩。やっぱりこの間の訪問の時、何かあったんですよね」

「どうして?」

「だって、さっきからずっと嬉しそうに笑ってるじゃないですか」

「え?」


 慌てて私は顔を引き締める。

 その時外線が鳴った。目にも止まらぬ早さで私が受話器を取る。


「ありがとうございます、シータテックでございます」


 外線に救われたのは、これで何回目だっけ?


 そんなことを考えながら、志保の視線を気にしないように私は電話対応を続けた。


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