14.迷惑な来場者
「いらっしゃいませ」
立ち上がって、私は精一杯の笑顔を浮かべた。
前にいるのは初老の男性。最初に来た社長と同じくらいの年齢だろう。ただ、残念ながらあの社長のような風格はない。それでも、どこかの会社の役職あるいは役員という可能性はある。
下手な対応はできない。ここは丁寧に……。
そう思ったのだが、私は、その見た目に強い違和感を覚えた。
着ているのは、スーツではなく普段着だ。
ちょっとシワの目立つオフホワイトのシャツに、年季の入ったグレーのジャケット。カーキ色のズボンは折り目が消え掛けていて、ところどころにシミがあった。
靴はスニーカー。いや、これはスニーカーというより、運動靴と呼ぶのが正しいのではないだろうか。
白髪交じりの髪は少し乱れていて、もしかすると二、三日洗っていないかもしれない。髭は、少なくとも今朝は剃っていないだろう。
そして、これがどうしようもなく気になったのだが、両方の鼻の穴から、ニョキっと数本の牙が顔を出していた。
その男性が、机の端のモニタを指さす。
「これは何ていう部品なの?」
モニタには、うちの会社のPRビデオが流れていた。
ビデオの内容は研修で習っている。簡単な説明なら私にもできた。
「これは、ベアリングという部品です」
「へえ。それは何に使うの?」
「ベアリングは、軸を滑らかに回転させるための部品です。たとえば……」
たどたどしいながらも、私がベアリングの説明をする。男性は、うんうんと頷きながらそれを聞いていた。
「なるほどね。じゃあこれは?」
ビデオは、ボルトとナットの紹介に移っていた。
ベアリングはともかく、ボルトやナットは素人でも分かると思うのだが。
そんな疑問を押し殺して、私はまた説明を始めた。
説明をしながら、ちらりと男性を見る。すると男性は、モニタではなく私をじっと見ていた。
「なるほどなるほど」
男性が頷く。
その視線は、私の顔より下、胸の辺りに注がれている。
それが分かった途端、私の背筋に悪寒が走った。
「お嬢さんは説明が上手だねぇ」
ねちっこい声が気持ち悪さを増幅させる。
その時私は気が付いた。
この人、一般来場者だ
専門分野の展示会の来場者は、その多くが招待客だ。出展企業や主催者が配るチケットを使って無料で入場してくる。それらの来場者には、受付で招待客用の入場証が渡されることになっていた。
だが、この人が首からぶら下げているのは”一般”と書かれた入場証。この人は、お金を払って入場してきているのだ。
それほどまでして展示会に来るのだから、機械や部品に並々ならぬ興味があるに違いない。
そう信じて笑顔を絶やさないよう頑張っていたのだが。
「お嬢さんは、入社して何年たつの?」
部品とは関係ない質問が飛んでくる。
「お嬢さん、きれいだねぇ。きっと社内でモテモテなんだろうねぇ」
心に響かないお世辞が絡みつく。
「彼氏はいるの? それとも、もう結婚しちゃってるのかな?」
ついに質問は完全にアウトな方向に向かっていった。
適当にごまかしながら対応を続けるが、そろそろ限界かもしれない。
「お嬢さん、名刺ある? 一枚もらってもいいかな」
「それは……」
こんな人に絶対名刺は渡したくない。ここは切らしたと言って逃げるしかない。
しかし、この時点で、すでに私に逃げ場などなかったのだ。
「さっき名刺の枚数を数えてたでしょ。十枚くらいはあったよね」
私が凍り付く。
「リボンを直したり髪を気にしたり、女の子らしくて可愛いよねぇ」
見られていた。
その事実が私をパニックに陥れる。
男性はまだ何か言っていたが、私はそれを言葉として認識できなくなってしまった。
どうしよう……どうしよう……
ただそれしか考えられない。
これだけ人の目があるのだ。男性も下手なことはできないはず。丁重かつはっきり断れば、諦めて去って行くだろう。
そうやって冷静に考えれば対応できたのだろうが、この時の私にはまともな思考を巡らせる余裕はなかった。
頭に血が上っていく。
体がどんどん冷たくなっていく。
誰か……
私が目を閉じる。
誰か助けて!
強く目を閉じ、無言の叫びを上げたその時。
「失礼します」
突然低い声がした。
私と、そして男性が驚いて声の方向を向く。
「ご質問でしたら私が承ります」
とても丁寧な言葉遣い。しかし、その声の主の表情は、とても”承る”というものではない。
その人に向かって、私が情けない声を漏らした。
「主任……」
主任が私を見る。表情がますます険しくなる。
その表情のまま男性に向き直ると、主任がさらに低い声で言った。
「弊社は機械部品の会社です。どのような部品に興味をお持ちでしょうか」
「いや……」
男性が怯む。
主任が一歩近付く。
「場合によっては、個人の方への販売も可能ですが」
主任が迫る。
男性が後ずさりする。
「よろしければカタログを……」
「いらない! 帰る!」
叫ぶようにそう言うと、男性は逃げるように去って行った。
その姿が完全に見えなくなったところで、主任が長く大きく息を吐き出す。そして、改めて私を見た。
「展示会には、時々ああいうのが来るんだ。関係ない質問が始まったら、丁重かつ断固としてお断りすれば、大抵は諦めてくれる。覚えておけ」
「はい。すみませんでした」
頭を下げて、私は力なく椅子に腰を落とした。
主任に言われるまでもなく、そうすればいいとは思ったのだ。でも、出来なかった。
あんなことでパニックになるとは思わなかった。自分が情けなくて、私はうなだれた。
うつむく私の隣に主任が座る。パイプ椅子がギシッと音を立てる。
主任、怒ってるのかな
さっきの怖い顔を思い出して、私は泣きたくなった。
すると。
「長峰。お前は何も悪くない」
小さな声がした。
私がゆっくりと顔を上げる。
「いきなりブースに座らされて、いきなりあんな男に絡まれたら、誰だって混乱するだろう」
思い掛けない言葉を聞いて、私は横を向いた。
「お前を責めるつもりなんてなかったんだ」
そう言うと、主任が体を私に向けた。両手を足の付け根に添え、背筋を伸ばして私を見る。
そして主任は、私に向かって頭を下げた。
「すまなかった」
後頭部の寝癖が見えるほど深く頭を下げている。
私はびっくりして腰を浮かせた。
「主任、やめてください!」
主任の肩を両手で掴んで、無理矢理その体を起こす。
「悪いのは私なんです。主任が謝ることなんてありません」
肩を掴まれたまま、主任が言う。
「いや、違う。長峰は悪くない。悪いのは俺だ」
まるで懺悔でもしているような顔だ。
その顔を見て、私は不思議な気持ちになった。
主任が気にしていたのは、私の対応の拙さなどではなかった。
主任が気にしていたのは、混乱し、落ち込む私の気持ちだった。
主任の肩を放して、私が椅子に座り直す。
主任と同じように両手を足の付け根に添え、背筋を伸ばす。
そして私は、にこりと笑った。
「では、二人とも悪かったということで、おあいこにしましょう」
主任が目を見開く。
主任が私を見つめる。
そして、主任も笑った。
「そうだな。そうしよう」
二人で笑い合って、私たちは前を向いた。
気持ちはすっかり落ち着いた。むしろ、さっきより元気になっていた。
だから、しっかりとした声で私が言った。
「私はもう大丈夫です。主任はほかを見てきてください」
その言葉に、意外な返事が返ってくる。
「気遣いはありがたいが、俺はここにいる」
丁重かつ断固とした答えだ。
その気遣いにこちらこそ感謝したいところだが、私のせいで主任に迷惑は掛けられない。
「私は本当に大丈夫ですから」
「いや、いい」
再度言葉を掛けるが、主任は揺るがなかった。
もう、なんて面倒な人だろう
「私は主任の足を引っ張りたくないんです」
「お前は足など引っ張っていない」
「主任は主任の仕事をしてください」
「これが俺の仕事だ」
何を言っても動かない。
呆れて隣を見れば、相変わらずの綺麗な姿勢で真っ直ぐ正面を睨んでいる。
それを見て、私は諦めた。
まったく、何だと言うのだ
頑固にもほどがある
この後主任は、本当に最後までブースを離れることがなかった。さらに言うと、会社まで一緒に帰ると言ってきかなかった。
主任と並んで電車のつり革に掴まりながら、その横顔を間近で見る。
ほんと、おかしな人
心の中で呟いて、私は小さく微笑んだ。




