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主任と私  作者: まあく
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01.いきなりピンチ

「長峰さん、今大丈夫?」

「はい」


 返事をして振り向くと、そこに一人の営業マンがいた。


「悪いんだけど、このお客さんの請求書、作って送ってもらってもいいかな」


 そう言いながら、営業マンが一枚の折りたたまれた紙を差し出す。

 受け取った紙を広げて、私は眉をひそめた。


 納品書?

 しかも、このタイミングで?


「えっと、先月の請求処理はもう終わってるんですけど」


 いちおう聞いてみる。

 すると、大きく頷きながら営業マンが答えた。


「分かってる、よーく分かってる。でもね、おとといね、急ぎだって言うから、俺が直接持って行ったのがあるんだよ。その時のが、それ」


 営業マンが納品書を指さす。


「でね、その時先方から、先月分として請求してほしいって言われてたんだよねー」


 軽~く言ってのける営業マンに、私は渋い顔を向けた。


「だったら、どうしておととい言ってくれなかったんですか」

「それは、俺が忘れてたからさ!」


 言い訳なしの潔い返事が返ってきた。

 呆れ顔の私に、営業マンが手を合わせる。


「ということで、ごめん、よろしく!」


 逃げるように部屋を出て行く背中を睨み付けて、私はため息をついた。

 今日は月初第三営業日。請求処理は第一営業日に行うので、ほかのお客様にはもう請求書が届き始めている頃だ。

 月初に納品させておいて前月分にしてくれというお客様もどうかと思うが、それを忘れていた営業マンもひどいと思う。

 などと文句を言っても始まらないので、仕方なく私は重い受話器を手に取った。


「いつもお世話になっております。シータテックの長峰と申します」


 電話の相手は請求先のお客様。先月分の請求書をこれから送ると伝えたら、予想通り嫌味を言われた。

 お詫びをして電話を切ると、続けてうちの経理課に内線を掛ける。先月の売上が漏れていたことを伝えたら、やっぱり嫌味を言われた。


 私のせいじゃないのに!


 不満をこらえてそっと受話器を置き、かわりにパチンと強くエンターキーを叩いてファイルを開く。

 このお客様は、請求書の書式に指定があった。システムで自動作成できないので、手作業で作らなければならない。

 納品書を見ながら、私は急いで請求書を作り始めた。


 株式会社シータテック。今年で創業三十年になる中堅の機械部品メーカーだ。私は、その本社で営業事務をしている。

 入社して三年。仕事もそこそこ覚えてきたし、社内の人たちとも親しくなった。そのせいか、最近では無茶振りも増えてきている。

 多少の無茶は何とかしたいと思うが、お客様に迷惑が掛かることだけはやめてほしい。


「まったくもう」


 小さく呟いた時、隣の席から呑気な声がした。


「由香先輩、いつも大変ですよね。何か飲みます?」


 私を覗き込むように見ているのは、今年入社したばかりの後輩だ。

 キーを叩きながら私が答える。


「会社では”長峰さん”でしょ。あと、コーヒー、ブラックで」

「はーい、長峰先輩」


 反省ゼロの声で立ち上がると、後輩は私の机からマグカップを取って給湯室に向かった。


 笹山志保。

 大学の二つ下の後輩で、私を追い掛けてこの会社に入ってきたという変わり者だ。

 可愛らしい顔でキツイことを言う子で、しかもそれを本人に直接言ってしまうものだから、いつもハラハラしてしまう。それなのに、なぜか男性社員に人気があるから不思議だ。


「はい、コーヒー、ブラックです」

「ありがと」


 画面を向いたままお礼を言って、私は請求書の印刷を始めた。


「もう出来たんですか?」

「ここのは何度も作ってるからね」

「それでも、やっぱり早いです」

「志保もそのうち出来るようになるわよ」


 話しながら立ち上がり、プリンターから請求書を取ってきて内容をチェックする。

 問題がないことを確認すると、社印を押して、それを志保に渡した。


「ついでだから説明しとく。このお客様は、紙とは別に請求書をメールで送るの。メールに添付する時は、PDFに変換してね。圧縮しないでPDFのまま送ればいいわ」


 突然始まった説明に、だが志保はすぐ反応した。請求書を机に置き、素早くメモ帳を手に取ってペンを動かす。

 これが志保のいいところだ。口は悪いが、仕事に対する姿勢はいたってまじめ。責任感も強いから、割と安心して仕事を任せられる。


「それにしても、お客様ごとの個別ルールが多過ぎますよね。とくに、圧縮ファイルとパスワードを別メールで送るっていうあの無駄な作業、何とかならないんでしょうか」

「文句言わないの。メールは私が送っておくから、志保はそれの郵送をお願い。ちゃんと送付状も付けてね」

「分かりました。”遅くなりまして申し訳ございませんでした”って書いておけばいいんですよね」

「その通り」

「これ、速達にしときます?」

「そうね、そうしておいて」

「了解です」


 封筒を取りに行く志保を見送りながら、私はまたため息をついた。

 先方はメールに添付するPDFで処理を進めるのだから、本当は速達で送る意味なんてない。速達にするのは”急ぎましたよ”というただのポーズ。


「社会って、ほんと無駄が多いわよね」


 愚痴をこぼして画面に向いた時、内線が鳴った。


「はい、長峰です」

「お疲れ様です、人事部の岩田です。長峰さん、今すぐ第一会議室まで来てください」

「今すぐですか?」

「そうです。今すぐです」

「……分かりました」


 受話器を置いて、とりあえず私はコーヒーを一口飲んだ。

 人事部に”岩田さん”は一人しかいない。それは、部長の名前。

 人事部長とは年に二回の評価面接で会うくらいで、普段は接点などない。その部長が、やけに強い口調で、しかも今すぐ来いという。

 とてつもなく嫌な予感がした。

 もう一口コーヒーを飲んでから、私は急いでメールを打ち始める。


「社内事情より、お客様優先よね」


 今年の三月に寿退職した先輩の教えだ。

 手を動かしながら、ふと私は、先輩の別の言葉を思い出す。


 自分を守るために、社内事情を優先した方がいい場合もあるわ。その辺は臨機応変にね


 果たして今回はどちらを優先すべきだろうか、などと考えながら、高速で文章を打っていく。

 メールを送り終わると、席に戻った志保に言った。


「ちょっと外すわ」

「あ、はい」

「郵送よろしくね」


 最後にもう一口コーヒーを飲み、深呼吸をしてから私は席を立った。




「失礼します、営業部の長峰です」

「入ってください」


 人事部長の声だ。その声は、とても機嫌がいいとは思えない。ますます嫌な予感がする。

 覚悟を決めて、私はドアを開けた。広い会議室の一番奥に、人事部長が一人で座っている。


「遅くなって申し訳ありませんでした」

「どうぞこちらへ」

「……はい」


 やっぱり不機嫌だ。音を立てないようにドアを閉めて、ドキドキしながら部長のもとに向かう。

 心当たりはまったくなかった。あれこれ考えてみるが、呼び出された理由が分からない。

 冷たい汗が背中を伝う。緊張でじわりと手汗が滲む。

 重い足取りで奥へと進み、部長の横にそっと立った。


「あの、私、なにか……」


 小さな声で聞く私に、部長が言った。


「率直に聞こう。きみ、営業部長の松田さんと、不倫してるの?」

「はい!?」


 あまりの不意打ちに声が裏返る。


「不倫ですか?」

「そう、不倫。しかも社内で」

「……」


 今度は声が出なかった。

 入社以来最大のピンチは、こうして突然訪れたのだった。


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