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錯乱新世界

 ベッドの上で指先の感覚がよみがえると、とろとろと意識がとけていくような心地よさがおとずれた。逃げなければと思いながらもおれはもういちど眠りに落ちた。

 次に目覚めたときには、すっかり明るくなっていた。ひょっとしたらまる一昼夜眠っていたのかもしれない。身を起こそうとしたら、こんどはなんの抵抗もなくすんなりと体がいうことを聞いた。テレビの音や話し声がカーテンの外でしている。

 腹がへった。

 サイドテーブルには着がえらしきものが置いてあるが、食べ物はない。おれはベッドから降りた。点滴はもう外してあった。スリッパが見あたらないので裸足のままカーテンから出る。廊下にスリッパが転がっていたので借用した。寝巻が臭う気がしたがかまわず歩く。売店をさがすつもりだったのだ。

 足がふらつく。気が遠くなりかける。ずいぶん長い間、腹になにも入れてなかったらしい。歩きかたがおかしい。足がもつれ、からまり、方向がずれる。配膳台にぶつかる。大きな音がして食器がいくつか廊下にころがった。ひろおうとして足下が大きく揺れて落ちるような感覚に襲われる。立っていられず、しゃがみこむ。廊下のリノリウムが沈んでいく感覚にとらわれ墜落の恐怖が襲う。同時に気味悪い叫び声が聞こえた。おれ自身の声だった。

「だいじょうぶですか」

 何人かの顔がおれを見おろしていた。いくつもの目に見られておれはひどい罪悪感にさいなまれる。

「ううう! ぎゃあああ」

 おれはこんどは自分の声だと認識した。裏声を張りあげている。何本もの手が伸びてきておれを押さえようとする。おれはあらがい暴れ、引っかき、かみつき、他人の赤い血が流れるのを見て恐慌に陥った。目は見えていたがモノの気配は希薄で、意識はあったが混濁してわけがわからなくなった。世界が歪み、猛烈な勢いで収縮しはじめた。目くるめく世界に、次いで暗黒が降りてきた。


 目が覚めるとおれはまたベッドに寝かされていた。うす明るい天井が目に入った。またも夜が明けるようである。

 おや。この部屋は。

 なんとしたことか、まぎれもないおれの部屋だ。病院で寝ていたはずなのに。夢か。夢だとしたら、どちらが現実なのか。目覚めてから消えかけた夢の細部を強引に召喚しようとするようにおれは記憶を引っかき廻した。とっかかりをさがして言葉をランダムに明滅させ感覚で探った。

 救急車のサイレン、雨のなか傘を差し掛けてくれていたのは誰だったのだろう。救急隊員が手際よくストレッチャーにおれを乗せ、震動に揺られて病院へ運ばれた。混濁して喚いて暴れてやがて静寂に暮れて眠り、他人のような自分の体を持て余して目が覚め、ベールに囲まれた覚束ない意識下で言われるがままに着衣し、誰かのおぼろな姿に付き添って明るい日差しのなかへ足を踏み出した。タクシーに揺られたその先は混沌の淵にしずんでいる。

 おれは救急搬送されて入院し、日を経て退院した。それは確かだった。暴れたときに精神安定剤や睡眠薬が処方されていたのだろう。おれは心も体も疲れ切って認知能力が減退し、夢遊病者や離人症の態様にあったようだ。そんな状態で退院させなくても正気を取りもどすまで入院させておいてくれればよかったのに。

 意識がはっきりしてきたので起きあがろうとしたが体が抵抗する。胸がどしりと重い。まるで何かが乗っているようだ。猫のようにふわっと柔らかいものが想像されて体を起こして驚いた。胸のあたりに黒っぽい毛の塊が見えたのだ。おれが顔をあげるとその物体も気配に気づいて頭をもたげた。

 黒トラである。

 おれと黒トラは至近距離でしばらくにらみ合う。やがておれは首がつらくなったので頭を枕に戻す。黒トラは前脚を伸ばして上体を起こし猫の正座をして顔や耳を掻いていたようだが、ふと首をぬうと伸ばすやおれの顔をのぞきこんできた。その目は獰猛な野生のそれに変貌し、冷徹な光を帯びていた。

 猫は繊細な動物である。かすかな物音にも耳をそばだてて反応する。黒トラはおれを見すえたまま空気の流れを読みとってようすをうかがっているようだった。おれをどうするつもりなのか。なにが望みだ。問いかけるおれに黒トラは口の端をかすかにゆがめてにやりと笑った。

 次の瞬間、フーッと唸る声がおれを恐怖のどん底につき落とした。身がまえる寸暇もなく黒トラの前脚が跳躍し、あごまで裂けた口とともに襲いかかってきた。黒トラの野生の息がおれの顔に吹きかけられて絶望感をあおった。おれの人生はもはやこれまでだ。

 何もかもが凍りついて凄惨な結末を待つばかりになったとき、黒トラの牙よりも一瞬早く、ぷうーっと間のぬけた音が高らかに響いた。

 黒トラは敏感に反応した。牙はそのままおれののどに落ちてきたが、明らかに気を殺がれたようで、ちくりとかすかに触れただけで離れていった。漂う臭気を確認するまでもなく高らかに響いたのは、まちがいなく屁である。恐怖のあまりにおれが放ったのかと思ったが、おれではなかった。

 おれが寝ているベッドの下から小さないびきが聞こえている。

 妻だ。

 屁は妻が放ったのである。その屁が黒トラとおれの因果を破り、おれを救った。黒トラはばつが悪そうに妻を見おろし、ため息をついて肩をすくめた。

 おれは妻のほうに手を伸ばし、顔のあたりをさわった。冷たい! 凍りつくような感覚にぞっとして手をひっこめたが、しばらくして鼻ではないかと思いあたる。妻の鼻はいつも湿っていて冷たいのである。いまあらためて思い出した。病院の行き帰りは妻が付き添っていたのだ。ぼんやりとしていた人影の、その具体的なディテールをおれは圧殺していたのだ。不快な記憶に基づく現実忌避だった。

 屁をひったことで明らかに生きている妻を眼前におれの恐れが解消された。おれは殺人の容疑者ないし重要参考人ではないのだ。この点についてはほっとした。だが妻に対する道義的な責任はある。なにしろ事情はどうあれ、妻の脳天をフライパンで殴ったのだ。妻にしてもここにおれを寝かせているのは善意や義務感からではないだろう。なにかしら計算づくの魂胆があってのことにちがいない。生命保険などをかけられる前に逃げたほうが無難だ。

 おれは体を起こす。目まいがしたが歩けないほどではない。猫はすでに妻の足のほうに寝場所を変えていた。パジャマを脱いでクローゼットをあけ、てきとうに服を着て部屋を出る。靴下もはかずに靴をはき、ドアを押して外へ出た。

 すでに明けた空はどこまでも青く、早くも澱みはじめた真夏の空気がどっとおれを押し包む。後ろ手にノブを戻そうとするとき、ちらと目をやると黒トラがドアのむこうでおれを見あげていた。おれは乱暴にドアを閉めた。しまった。物音に妻が起きだすかもしれない。おれはふらつきながらも足早に階段をおりて人気のない街路を全速で駆けた。

 駅に着いたとき、ひどくふらついて気がとおくなりかけた。座るところがないので券売機にむかって手をついて体をあずける。腹がへってるだけかもしれないが体調が変なのはたしかだ。

 どこへ行こうかと考えた。行くあてはない。どこでもいいのだと切符を買おうとして財布がないのに気がついた。着の身着のままで出てきたのだ持っていなくて当然である。しかし切符は買えない。となると歩くか戻るかしかない。吹き出る汗をぬぐうタオルもなく、炎天の街を歩くのは病みあがりの身としては甚だ困難だ。かといってアパートに帰るのはいまさら気がひける。進退ここにきわまり、おれはあおむけになって券売機にもたれかかる。天を仰ぐと、駅舎のガラス天井から果てしない空の青が見える。吸いこまれそうな、落ちていきそうな気がして目を閉じた。そのときだった。

「あなた」

 おれに呼びかける声が聞こえた。まさか。いや空耳にちがいない。いよいよおれは危ないのだと観念すると手のあたりになにかが触れた。はっとして目をあけると、かたわらに妻が立っている。

「帰りましょ」

 そう言って妻はおれの手を取り、ゆっくりと歩きだした。おれにはもはやあらがう力などなかった。まるで母親に手を引かれる子どものようにおれは妻にしたがった。それにしてもこの女はどうしてまだこの世に、いや、あのアパートにいるのだろう。自分のマンションになぜ戻らないのか。ローンが残っているので売るに売れないあの、かつては二人で住んでいたあのマンションに。そのことを訊ねてみると妻はあっさりと言った。

「貸すことにしたの。やっと借り手が見つかったわ。わたしたちはアパートで暮らすのよ」

 わたしたち?

 それはどういう意味だ。おれのことか。いや今さら、そうではあるまい。きっと妻と猫ということなのだ。ではおれが出ていくことになるのか。だとしても仕方あるまい。アパートも妻に引き渡してしまおう。新しい生活をはじめるためには何も持たないほうがいい。

「なに考えているの。あそこで暮らすのはあなたとわたしよ。猫もだけど」

 おれと妻はすでに離婚が成立しているはずなのにどういうつもりなのだろう。フライパンでひっぱたかれておかしくなったか。そういえば、ようすが妙といえば妙だ。

「あなた。わたしね。離婚届ださなかったの」

「え」

「だから、もう、どこにも行かないでね」

「は。あ。え?」

 やっぱり妻はおかしい。おれのせいだ。

「そうだ。ちょうどいいわ。朝、食べるものがないの。なにか買っていきましょう」

 まだ人影のまばらな通りにはコンビニくらいしか開いている店はない。妻はおれの手を取ったままゆっくりと店内を見て回り、パンと牛乳、ウインナーや卵などをおれが持ったカゴに入れていく。

「そうそうこれも」

 レジのむかい側にあったネコ缶にも妻は手を伸ばした。

 アパートへの路地を曲がると、いつのまにか黒トラがおれたちの足もとを音もなく歩いていた。

「まあクロちゃん、おりこうさん。お出迎えね」

 妻は猫に名前をつけたらしく親しげに猫に呼びかける。黒トラはおれたちを振り仰いで満面に笑みをたたえる。おれはぞっとして顔をそむける。そのまま黒トラは部屋の中までついてきて、ベッドの上に寝そべった。おれはイスに体をほうりだし、妻は朝食の準備にかかる。テレビのスイッチを入れるときょうも暑くなりそうだと言う。カーテンのない出窓から真っ青な空が見える。北向きの窓とはいえ、レースのカーテンぐらいつけたほうがよさそうだ。

「はい、いただきましょ。さ、クロちゃんもいらっしゃい」

 妻の呼びかける声で、おれたちの新しい生活が始まった。

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