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病床回顧

 こうしておれは二度めの逃亡生活に入った。さいしょのときとちがい、楽しむ余裕はまるでなかった。そして、とうとうさいごには一度めと同じように精神的に追いつめられた。神経をなだめるためとはいえ、おれは性こりもなく戻ってきてしまった。

 その日は本格的な梅雨のころとて重い雲がたれこめ、いまにも雨が落ちてきそうだった。アパートへと近づく一歩一歩が耐えがたいほど重くなっていき、心臓は早鐘のごとく鳴り響いた。呼吸ができているのが不思議なほど胸が苦しい。腹もへっている。きのうの夜からなにも食べていないのだ。

 ぽつぽつと雨が落ちてきた。アパートの窓の下に立つころには、まだ昼間だというのにまるで夜のように暗くなり、雷鳴がととどろきはじめた。雨にけむるおれの部屋の窓には、ぴくとも動かないカーテンが、内部をおおい隠しているはずだ。しかし窓を見あげたとき、そこにカーテンはなかった。

 一ヶ月以上にわたって留守にはしてきたが、部屋代の振り込みは済ませてある。強制退去にはなっていないはずだ。ではなぜ、カーテンがない。

『まさか』

 最悪の事態が起きたのだろうか。いや、たしかにおれは部屋をあとにするとき、妻の寝息を聞いている。まてよ、あの黒トラが、そういえば妻の顔の上に乗っていた。猫の体で妻は口と鼻をふさがれて息が絶えたとか。そんなはずは。ありえない、だろう。まさか。いや、猫の体面積は思う以上に広く、あれで乗られたら顔はすっぽり見えなくなるにちがいない。ということは。

 もう一度、恐る恐る顔をあげたとき、雷が一閃、光が窓をつらぬいた。そのまばゆい光に人影が映しだされた。耳をつんざく雷鳴にふるえながら、その人影がだれあろう妻にほかならないことを悟った。その腕には猫が抱かれている。こちらを見下ろすその猫の形相のもの凄さにおれは息をのんだ。ショックでへなへなと力がぬけ、その場にへたりこむ。

 おれは枯れ木のように前のめりにたおれていく。アスファルトの路面に顔がぶつかる。容赦ない雨はおれの背を打ちはじめた。遠ざかる意識のなかで、猫を抱いた妻の残像をおれは追った。妻はかすかな微笑みをたたえているように見えた。


 気がついたときにはおれはベッドの上に寝ていた。カーテンが引かれたせまい空間はひと目で病室とわかった。あたりはうすぼんやりとしているのに天井が明るい。光が少しずつ強くなっていくようだ。夜が明けようとしているらしい。おれは体を起こそうとして意外な抵抗にあった。体が言うことを聞かない。全身が痺れているようだ。麻酔でも打たれたのだろうか。おれは体のあちこちに神経をめぐらしてみる。違和感はない。そのままじっとしていると、氷がとけるようにゆるゆると体がほぐれてくる気がした。指先の感覚がよみがえる。

 どうして病院にいるのだろう。自分で来た覚えはない。妻が救急車を呼んだのだろうか。しかし、もしあれが妻でなかったとすれば通りかかった人が行きだおれとして一一九番通報してくれたということだ。

 腕には点滴の針が刺さっている。体を感覚で確かめてみる。どこにも支障はないようだ。輸液は栄養剤か鎮静剤だろう。

 意識がはっきりしてくると不安が頭をもたげてきた。アパートの下から見た光景がよみがえり、この世ならぬ妻と猫の形相がおれの脳裏を埋め尽くした。妻は窒息死し、おれは変死事件の重要参考人、いや、被疑者だ犯人だ。

『逃げよう』

 おれは本気でそう思った。もう一度あの逃亡生活に戻るのだ。電車でさまよう旅へ回帰する。路線はどこでもかまわない。

 思い返せばこの一ヶ月はのべつまくなしに電車に乗っていた。日がな一日、同じところをぐるぐる回っていたこともあった。妻には秘密の預金をたいせつに使った。もちろん特急などには乗らない。目的地がないのでだらだらと乗り越しをする。ほとんど駅から出ることはない。腹がへるとそばを食う。月見そばなら体力もまあまあ維持できる。本数は少ないが夜行の普通電車や急行電車もまだ走っている。乗り換えのホームや駅舎でも寝た。ときにはぶらりと改札を出て銭湯へも行った。たまにはサウナで一泊ということもあった。

 妻や猫に自分のしたことで後悔の念にさいなまれる日々だったとはいえ、そんな旅の毎日は慣れると案外平気だった。駅舎をねぐらに電車を生活の場としてそのまま暮らせないことはないとおれは思った。金が底をつきそうならバイトで小銭を稼げばいい。ふらふらとこんなふうに流れ流れて命をつないでいくのも一興だ。

 そこまで達観してなぜその流れを断ち切って戻ってきたかというと原因はまたしても猫だった。生活のさまざまな場面に黒トラが現れるようになったのである。

 車中で深夜うとうとしているとき不意に腿が重くなる。気がつくと黒トラが乗っかっている。駅のスタンドでそばを食っていると足下に丸くなっていることもある。あくびをした拍子にふと視線が上向いて網棚に寝そべっている姿を見たこともある。トイレに立ったとき通路ですれ違うことなどはしょっちゅうだった。

 深夜や早朝、車両に人の気配がなくなったとき、ボックス席のむかいに寝っころがっていた黒トラがむくと起きあがり、前脚を浮かせて狙いをさだめ、おれめがけて飛びかかってくることはよくあった。

 最初のうちこそ、よけ損なって猫パンチと爪の攻撃をもろに蒙ることもあったが、だんだん慣れるとタイミングを見計らって体をひょいとひとひねり、黒トラは空しくシートに激突となった。おれはなにごともなかったように黒トラのいたむかいの席に移る。黒トラも、ちょっと飛んでみただけだとでも言いたげに頭をかき、なんでもないような顔をして脚を伸ばすのだった。

 傍目から見ればおれと黒トラは遊んでいるように見えただろう。しかしだれも関心を払わないのが不審だった。おれの風体が怪しかったわけではない。髪こそ伸びていたが髭はちゃんと剃っていたし、洗濯だってしている。

 ただ車掌にだけは見つかるとまずいので、とっさに黒トラにタオルをかけたりして気取られないように努めた。それでも危ういときがあった。いつものように人の気配がなくなったとき黒トラが襲ってきたのだが、おれは熟睡していて顔に乗られても気づかなかった。ここぞとばかり黒トラはおれをさんざんに攻撃し、その結果おれは上半身を通路にどたりと落としてしまった。

 そこへ車掌がドアを開けて入ってきたのだ。おれは馬乗りにおおいかぶさる黒トラをぐいと抱えて後ろむきになり、間一髪おれの体で隠してボックスに逃げこんだ。

「どうかしましたか」

「つい寝ぼけて落ちたようです。いや、だいじょうぶですから」

 おれは猫を足下に隠す。黒トラも心得たもので、じっと身を潜めて協力する。やはり、よい道連れなのかもしれない。

 ではなぜ戻ることになったかというと、ほかならぬ妻が現れるようになったからである。黒トラの出現にはおれは驚きもしなかったが、妻が現れたことはさすがにまずいと思った。

 それは白昼のことだった。騒々しい混み合う時間をやり過ごしてほっとひと息ついたときおれの視界に忽然と妻は現れた。空いたばかりのボックス席、おれの斜め向かいで妻は黒トラを抱いて座っていた。妻も膝の上の黒トラも同じように過ぎ去る外の風景を一心に追っていた。おれは凍り付いた。不自然な構図だった。

 そこに居るはずのない存在が複数いっしょに現れたのだ。おれの気が狂ったと結論づけてもすこしも不思議ではない。見えているのは確かでそこに居るのも確かなのでおれとしてはどうしようもなかった。

 妻はごく自然におれを無視していたが目線はどうあれ顔だけはおれのほうを向いていた。それにいつもおれのそばにいたわけではない。おれがある駅で降りてしまっても妻はそのまま乗っていく。妻のほうが降りていくこともある。そしてまた気がつくとそこにいる。しかしおれに寄り添うというより見張っている感じだ。

 朝の気配にふと目があくと低く連なる山々が紫色の雲をたなびかせている。めずらしく妻がじっとおれのほうを見ていた。黒トラの姿はなかった。妻は言った。

「帰りましょう。きりがないわ。それともこのままずっと逃げつづけるの。そんなことができると思ってるの」

 できないわけではないとおれは心のなかで反論した。むしろ気楽でいいじゃないか。だがおれは妻の言葉にしたがうことにした。妻にした非道な仕打ちに気がとがめたわけではない。ハローワークへの月一度の出頭義務を思い出しただけである。その期日が迫っていた。

 その三十日に一度の面接をさぼると失業保険金の給付が中止されてしまう。妻が帰るよう勧めたのも口ではなんと言おうと、これが理由だろう。なんとなれば妻はおれの失業保険の上前をはねていたからだ。そんなふうに勘ぐったのも、このときはまだ妻が変死したかもしれないとはつゆ思わなかったためである。だからあの稲光に浮かびあがった妻の姿を窓の下から見たとき、とんでもない事態が想像され、その衝撃につぶされそうになったのだ。

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