帰宅奇話
こうして意気揚々と特急電車に乗ったおれだったが旅の空の下では一転、慚愧に堪えなかったのである。猫を相手に人間としてあまりに破廉恥な、弁解の余地なき非道を遂行したのだ。当然といえば当然である。その思いは日増しに強くなり、やがて旅を楽しむ気分もすっかり殺がれてしまった。あのとき自分はどうかしていたのだ常軌を逸していたのだと後悔し、うろたえる毎日だった。
いまさら取りかえしがつかないけれど猫に対する人間としての恥は消せない。おれはだらだらと日をうっちゃった。梅雨前のさわやかな晴天が無常をいっそう鮮烈なものにする。忘れようとすればするほど黒トラはおれの心を占領していった。
閉ざされた部屋で黒トラはどうしているだろうか。水はひょっとして蛇口ぐらいひねるかもしれないが食い物はない。いや待て。カップ麺やピーナッツの類がある。煮干しの袋もあるはずだ。削り節もある。米もある。ゴキブリも出る。これはひょっとするとひょっとするかもしれない。
いやいやまさかそんなことはあるまい。黒トラはやはり死んでいるのだ暗い部屋でパニックになって。いや猫の目は暗闇でも見えるぞ。いやいやそんなばかな。食い物のありかなどわかるはずがない。いや猫の鼻は犬にはおよばないが人の数十万倍も利くという話だ。引き出しだろうが戸棚だろうが食い物のありかを探し当てるのはそれほど難しくはないだろう。ということは、やはり生存している?
いやいやいやおれの部屋はもう黒トラの死骸ですでにむごたらしい惨状になっているのだ。この陽気のため、そのありさまは酸鼻の極みとなっているだろう。おれは猫の最期を見届けて早く後始末をしなければならない。でも猫はしぶとい動物だから…
これではまるでシュレディンガーの猫だ。けっきょくおれが帰って確かめてみなければ決着はつかない。帰ろうと決心したのが瀬戸大橋の上だった。橋の向こうの徳島にいる旧友を訪ねた後である。そいつは大学で生ゴミリサイクルのコンポストを研究していた。最適な発酵促進剤や菌床の探求である。膨大な数のコンポストを管理していてそこへ野良猫が群がる。どうやって追い払うか遠ざけるか日々思案し工夫しては試行錯誤する毎日だそうだ。なんと牧歌的で健康的な関係だろうか。そんな猫との関係がおれにはうらやましかった。
大阪で降りて腹ごしらえをしていると野良猫にからまれてタコ焼きを二ヶ脅し取られた。ついでに吹田の万博跡にも行ってみたが夕闇迫る帰りのタクシー乗り場で、大阪訛りに聞こえる猫の唸り声を四方から浴びせられておれはふるえあがった。噂には聞いていたが大阪の猫がこれほど凄みのある鳴き方をするとは思いもよらなかった。ようやく来たタクシーが止まるや開きかけたドアにおれは突進していた。
京都では御所まで歩いて行ってベンチで昼寝をしたが大路で踊り狂う半死半生の猫の姿が夢に出てきてうなされた。もう限界だと諦めて名古屋では駅できしめんを食うだけにとどめるも回りの人間がミャアミャア言うのでおれの頭は狂わんばかりになった。一刻も早く帰らねばともう途中下車も回り道もやめた。
おれが旅からもどったのは梅雨に入ったころだった。すでに三週間近くが経っていた。実を言うと戻る途中も、どこか見知らぬ土地へ行ってそのまま居ついてしまおうかと考えた。しかしここだと思うような場所はなかった。失業保険の給付手続きもしなければならない。
出発点のターミナル駅に降り立つと空には重い雲がたれこめていたが天気はなんとかもちそうだった。まっすぐアパートへむかうべきだろうか。それとなくようすを見るべきだろうか。
そうだ、電話をかけてみよう。おれのアパートには固定電話が引いてある。ADSLが廃止になるまで光には変えないつもりで電話機ももちろん設置してある。
おれは人ごみを逆流して地上へむかった。スマホは電池切れのままバッグの底に沈んでいる。地下街にも公衆電話くらいあるが電話ボックスからかけようと思ったのだ。そのほうが落ちつく。ずいぶんと歩いた後やっと見つけて入り、受話器を取ってダイヤルした。
しかしコールが鳴った瞬間、おれはだれか出るのではないかと恐れてあわてて切ってしまった。目の前がグラリと揺れて気が遠くなった。呼吸をととのえるべく深く息を吸う。青々とした草のにいが肺いっぱいに広がった。
少し気持を落ちつかせたほうがよさそうだ。アパートは後まわしにしよう。
おれはハローワークへむかった。失業して求職者として登録するためである。これが済めば失業給付金をもらえる。しかし窓口で離職票を求められて、しまったと頭をかかえた。自宅へ郵送されているはずなのだ。退職して以来、アパートへ寄ったのは猫を閉じこめた日だけである。そのときはポストをのぞく余裕などなかった。三週間以上経っているからポストは郵便物やビラで見るも無惨なありさまになっていることだろう。やはりアパートへ急がねばならない。
ようやくアパートの路地まで来たときにはすでに日が暮れようとしていた。路地の入り口に黒トラの姿はない。当然だ。おれはほっとすると同時にアパートの室内のようすが心配になった。
さんざんに荒れ果てて家具や調度が散乱し部屋のまんなかにはものすごい形相の猫のむくろが…そんな光景が眼前に迫りおれは陰鬱になった。もう暗くなるばかりだからポストの郵便物だけ回収して部屋に入るのはあすにしよう。
おっかなびっくりでアパートに近づき出窓が見えるあたりに来たとき、おれは足を止めた。出窓はカーテンが引かれたままになっていたがカーテン越しにほのかに灯りが見えたような気がしたのだ。上半身が思わずのけぞる。
そんなばかな!
いや消し忘れてそのままだったかもしれない。
立ち止まってそれ以上は近づかず、斜め下からのぞきこむように体を伸ばして目をこらす。通行人がいぶかしげに視線を投げて行く。
日の光がどんどん引いていくとともに事態は明らかになった。灯りはたしかについている。黒トラを閉じこめた無人の部屋に電灯がともっているのだ。
ここで落ちついて考えれば合理的な判断は可能だった。猫が灯りをつけるわけがない。人のしわざだ。おれの消し忘れということもある。だれか他人が点けたとすれば、それは大家以外考えられない。しかし大家といえど正当な理由なく賃借人の部屋にかってに入ることはできないはずである。ただし何か相応の理由があれば別だ。たとえば異臭がするとか苦情があればドアを開けて確認くらいするだろう。おれの長い不在も不審を募らせたにちがいない。
しかし大家なら用が済めば消灯の確認くらいするはずだ。したがって『犯人』は大家ではない。ではやはりおれの消し忘れか。いつからだ。逮捕されて以来、部屋には帰っていないから、かれこれ1ヶ月になる。ずっと点けっぱなしで1ヶ月か。切れさえしなければおかしくはない。
あらためて窓を見あげると煌々と灯りがともり、その光は生気を感じさせた。死のイメージはない。あいつは生きているにちがいないとおれは直感した。おれの思いに呼応するようにカーテンが揺れた。影が映る。動きのある塊だ。さては黒トラにちがいないとおれの足はアパートへの階段に向かっていた。
階段を上がりながらおれの胸に去来するのはもはや恐怖ではなかった。腹の底から激しい怒りがこみ上げてきていた。
黒トラの野郎、引き出しや冷蔵庫のものを食い散らかしているにちがいない。なんてことをしてやがる。おとなしく成仏すれば線香の一本もあげてやったのに。おれのベッドで眠っているにちがいない。糞尿をそこらに撒き散らして部屋は悲惨なありさまだろう。
ドアが目の前にある。おれはあわただしく鍵を差し込みながら全身がふるえんばかりに逆上し、ドアを乱暴にあけようとした。だがドアは、数センチのすき間を開くや思わぬ抵抗をした。
「ガシャ!」
『え。ドアチェーン?』
ひと呼吸おいて、おれはまた本気で思った。
『あのやろう。ドアチェーンまで下ろしやがった!』
このときのおれは一気にパニックに陥って常識思考が吹き飛んでいた。だから突拍子もない発想に取り憑かれたのだ。この何日か思いつめて追いこまれていたことも、まともな判断力をおれから奪っていた。そこへさらにドアのすき間からにぎやかなテレビ音声がもれてきた。
『おのれ! TVまでつけてやがる』
おれの怒りは頂点にたっした。靴でドアを荒々しく蹴飛ばす。埒があかないと見るやおれは数歩後ずさりして半身になった。体当たりをするつもりである。ドアは外開きなので突撃してもあまり意味はない。示威表示のデモンストレーションにすぎない。それでも怒りの捌け口にはなる。おれは腰を低くかまえて反動をつけ、えいやっと肩から突っ込む。そのとき、部屋の奥から水を流す音が聞こえた。同時に女の声がした。
「はーい。どちらさま。いま」
その聞き覚えのある声におれは一挙に常識に引き戻されたが体はもはや意思を離れて慣性力の支配下にあった。制動が利かないおれの体はドアに突撃して衝突した。なんとも形容し難い肉のひしゃげる音とともにおれは弾き返されてもんどり打って倒れた。
「い痛てててて」
うめくおれの目の前でそっとドアが開いた。すき間から覗くのは黒トラ…ではなく妻だった。半年ぶりに見る妻の顔はおっかなびっくりの表情を浮かべていたがおれを見て安心するとともに呆れたようだった。
「わ。なに」
妻は倒れているおれを見てドアチェーンを外した。
「なにしてるの。いやァね。さっさと入って」
妻が先に立って中へ請じ入れる。なぜ妻がここにいる? ここの住所さえ知らないはずなのに。とにかく部屋に入って気持ちを落ち着かせよう。事実を受け入れるのはそれからだ。
しかし居室で目に飛びこんできた光景がおれの怒りを再燃させる。なんと黒トラがおれのイスに腹ばいに寝そべっていたのだ。
「この!」
突進するおれを妻が背後から阻止する。襟首をくいとつかまれて危うくまた倒れるところだった。そしてそのとき頭が振られて不意に脳にインパルスが走り、妙な想念が浮かんだ。これはすべて猫の霊力の仕業で、おれは猫の術中に落ちたと思った。妻がここにいることの不審と黒トラの生存が現実ではありえないからだ。
『ここにいると命を取られる』
おれは本気でそう考え、室内の気配をうかがいながらじりじりと後ずさりした。その間にも猫はおれのイスの上でのんびりと目を細めている。
「ちょうどよかった。食事ができたところよ。話もあるから出ていくなら話が済んでからにして」
妻の声が耳に響く。冷ややかなその声調にこれは現実らしいとおれは正気に戻る。頭を振って観念し、おとなしくテーブルにつく。黒トラはベッドに移動した。ベッドは妻が使っているのか、シーツもカバーも新しいものに取りかえてある。ふかふかしたカバーの中央にくぼみができていて黒トラはそこに収まった。
「さあ、いただきましょ」
おれはめしなど食う気にはなれないはずだった。自分の部屋なのにいたたまれない。さっさと話を片づけて理不尽ながらここを立ち去りたい気分だ。しかし間が悪いことにおれはひどく空腹だった。煮物やみそ汁のにおいにつられて腹がぐうと鳴る。その音を耳ざとく黒トラが聞きつけて鼻をふんと鳴らした。おれは黒トラをにらみつけた。黒トラはぷいと目をそらして爪をなめはじめる。あの爪でおれの息の根を止めるつもりなのだ。
「ねえ、どこ行ってたのこんなに長く。もう三週間になるかしら。猫ちゃんなんか放りこんで」
おれは絶句した。妻があのときすでにこの部屋にいたのだ。ということはおれは妻がいる部屋に猫を閉じこめたことになる。なんてこった。黒トラはさいしょから危難をのがれ、おれのもくろみは初手から破綻していたのだ。旅の途中のあの苦しい思いはいったいなんだったのだ。おれが後悔の悪夢にうなされ幻覚に悩まされていた同じころ、黒トラはおれの部屋でのうのうとエサ付きの安楽な暮らしを享受していたのだ。あらためて黒トラへの憎しみがふつふつとわく。
黒トラはもうエサをもらったのか、知らん顔でベッドに寝そべり、毛づくろいをはじめている。ふてぶてしい。そもそも黒トラはノラ公のはずだ。妻が手なずけたのだろうか。いやそんなことはどうでもいい。早くこの場をのがれよう。妻と黒トラを追いだせないのならおれが出ていくまでだ。おれは箸をあわただしく往来させ空腹を満たした。妻はお茶を飲んでひと息ついてから口をひらいた。
「ケータイにかけても応答なしでさ。メールもいっぱい送信したわ」
「旅先で充電がめんどうで放置してたんだ」
「ふーん。警察から連絡がきたのよ。ここの住所はあなたが離婚届に書いてたじゃない。アパートの管理会社に事情を話して入らせてもらったの妻として。まあこまかい話はいいわ。用件だけ言うわね。あなた会社辞めたんですって」
おれにはピンときた。退職金で慰藉料を払えということだ。わかった半分出そうと言うと全部いただくわと言う。
「当然でしょ。まだ足りないくらいよ。わたしを苦しめてきた当然の代償だわ」
駆け落ち同然でいっしょになったとはいえ結婚してからのおれたちは決して折り合いはよくなかった。先に妻がおれに愛想をつかし、互いに罵りあう日々がはじまった。あまりに気が強くヒステリー気質の妻におれは辟易し消耗するばかりだった。妻のほうでも同じだったにちがいない。そんなとき、ひょっこりおれの浮気騒動がもちあがった。
会社の女の子と飲みにいって遅くなり送っていったあげく彼女の部屋で酔いつぶれて眠ってしまったのである。なにかできる状態ではなかったのだが妻はこれさいわいとおれを責めた。女の子と飲みに行った時点でもアウトだと強弁する。おれのほうでも、もういいやという気持があった。話はあっというまに離婚までいってしまった。
経緯はどうあれ話は決まった。住んでいたマンションは妻に取られ、いままた退職金を取られようとしている。失業中の生活費に退職金をあてにしていたのだが仕方がない。おれは妻の要求を了承することにした。
たいした額でなくとも退職金を取られるのは痛い。しかし拒否すれば必ずや妻は訴訟沙汰に及ぶだろう。裁判などまっぴらだ。なにより、妻との縁を早く切って古い生活の影を過去のものにしてしまいたい。退職金などなくとも再就職先さえ見つければいいのだ。そんなふうにおれは考え、前むきに対処すべく気持の切りかえを図った。しかし妻の要求はそれだけでは済まなかった。。
「失業保険はいつからおりるのかしら」
その言葉を聞いておれは愕然とした。
「半年は出るわね。全額とは言わない。半分でいいわ」
半分も取られたらこのアパートの部屋代でほとんど消えてしまい、生活どころではない。そう訴えると妻は冷ややかに言った。
「それなら、ここを引きはらうことね」
妻はにべもなくおれを突き放す。おれはため息をもらし、妻から目をそらす。目の先に黒トラがいた。人のベッドであつかましくも寝息をたてて眠っている。その姿を見たとたんむらむらと憎悪がわいてきた。
『こいつめ。こんどこそ息の根を』
おれははっとした。殺意だ。その殺意はどちらに向けられたものか漠然としていたが意思は明確だった。首を絞めるとか縛り上げて閉じ込めるとか、幼稚な思いつきが頭をかすめる。考えるだけで残忍な自分に酔って自然と口の端がゆるみ、笑みがこぼれた。
するとやにわに黒トラが目をあけた。体を起こしておれの顔をじっと見る。
「めったなことは考えないことね」
おれはぎょっとして妻をふりかえった。しかし思いすごしだった。妻はおれが支払いを逃れる思案でもしていると思ったらしく断固とした口調で言うのだった。
「いいこと。退職金は差し押さえの手続きを取りますからね。失業手当のほうは、そうね直接いただきに来ようかしら」
「好きにしてくれ。ただ失業手当は三分の一にしてくれないか」
妻はしばらく考えていたがベッドのほうを見てなにかひらめいたらしく「いいわ」とうなずいた。
「そのかわり、猫ちゃんをいただいていくわ」
おれは耳を疑った。猫とはそこの毛のかたまりのことかと妻に確認した。
「そうよ。いやとは言わさないから」
おれは密かに驚喜した。これはありがたい。二ついっぺんに片づくとは。それにしても妻はどういうつもりなのだろう。三週間いっしょに暮らしたから情が移ったのか。それともなにか魂胆があるのか。とにかくおれにしてみたら願ったりである。しかしあまりうれしそうにすると怪しまれる。おれはいかにも残念そうに下をむいてうなだれて見せた。
「ちゃんとめんどうみて可愛がってくれるなら」
「ふん。うそおっしゃい。ノラ猫だってこと分かってるのよ。足の裏を見れば一目瞭然の汚れ。肉球も固いわ」
妻は勝ちほこったように顔をそらし、たたみかけてくる。
「いきなり放りこんでいくなんてこの猫どうするつもりだったの。わたし見てたのよ、そこの窓から。あなたすごくあわてて逃げてったわね。わたしがいなきゃ、この猫、どうなってたかしら」
おれは少々うしろめたいので、うつむいて黙っていた。
「まあいいわ。わたしがこの猫ひきとってあげる。だから飼育費をいただくわ。これも三分の一と言いたいところだけどまけてあげましょう。わたしのと合わせて失業保険の半分ね」
振り出しに戻っておれはけっきょく失業保険の半分の根拠を与えたことになった。
「半分取られては暮らせない。そう言ってるじゃないか」
「だからもっと安いところへ越せばいいわ」
「なんだと! だいたい猫の飼育費とはなんだ!」
おれはかっとなって立ちあがった。
「なによ! どうするつもり!」
どうするつもりもなかったのだが、無意識におれはキッチンに行ってフライパンをひっつかんでいた。さきほど湧いた殺意がおれを動かしているようだ。驚く妻を尻目にフライパンを手にベッドのかたわらにおれは立った。ベッドの真ん中には黒トラが異常を察したか座り直して耳を伏せ、警戒姿勢を取っている。おれはひと呼吸おいてフライパンを振りかぶった。間髪を入れず思い切り振り下ろしたが黒トラは悠々と身をかわした。
しかしおれは怯まなかった。フライパンを構え直して仁王立ちになり、黒トラを狙ってクルッと向きを変えるや次の瞬間、力いっぱいに振り下ろした。しかしフライパンはまたしても黒トラに逃げられ、あろうことか妻の脳天に落ちようとしていた。
このときおれの目にはひきつった妻の顔がはっきりと見えていた。『わ。ヤバい』と思ったがいかんせん慣性力と無意識の意志には逆らえなかった。次の瞬間、にぶい音が大きく部屋に響いた。
「ぱああーん!」
びくんと妻は体をふるわせてその場に昏倒した。黒トラは床の上に着地して居住まいを正していたが、やがてなにを思ったか妻のほうに歩きだし、ぴょーんと妻の顔の上に乗って体を丸くした。
おれは気味悪い手ごたえが残るフライパンをもてあまし、どうしたものかとぼんやり考えていた。
『たいへんなことをしてしまった』
フライパンの平面部分で殴打したのだから妻はまさか死にはしないだろうが、気がついたら厄介である。おれは思案して結論を出した。
『逃げよう』
そう思うやプイと足が玄関へ向かった。靴をはこうとして手に持ったままのフライパンに気がついた。もういちど部屋に戻り、そろりそろりと横切って食器棚の上に置いた。そのとき茶碗や皿が汚れたまま放置されているのが目に入った。
妻のようすをうかがうと、猫の体の下で猫といっしょに寝息をたてている。おれはちょろちょろと水を流しながら食器を洗いはじめた。スポンジを使っているとひしひしと罪悪感がつのってくる。
『せめて謝罪の手紙を残しておこう』
キッチンをかたづけてからおれはペンをとった。
『すまない。とんでもないことをした。きみを殴打するつもりじゃなかった。許してくれ。もうしわけない。おれは精神を病んでいるのかもしれない。思えば、きみには愛想づかしを食らって長年勤めた会社もおれを見放した。家庭と社会をともに失って頭がどうかしているのだ。早い話がこの猫である。おれに闘いを挑んできたこの猫に、おれは為すすべもなく何度も痛い目に遭わされてきた。おれは復讐を思いたち、それはうまくいったように思えた。しかし世界はとことんおれの思うように回ってくれない。猫はきみに助けられ、ここにすずしい顔をして眠っている。すべては天の采配である。おれは猫や世界の仕打ちを甘受しなければならない。原因はおれだ。おれがネズミを拾ったのが発端だ。愚挙を犯したおれはこうなって当然なのだ。
預金通帳と印鑑を置いておく。来月には退職金と失業保険金がふり込まれるはずだ。大した額ではないが好きなように使ってくれ。せめてもの償いだ。ほんとうに悪かった。さようなら』
そこまで走り書きした便せんを通帳と印鑑を添えてテーブルの上に置いた。離職票などの郵便物をまとめ、着がえの衣類といっしょにカバンに押しこむ。灯りを消し、毛布を妻にかけてやっておれは部屋を出た。階段をおりて窓を見あげると、そこにはぴくとも動かないカーテンが見えるばかりだった。