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対決急転

 アパートに近づいたとき、それとなく用心はしていたつもりだったが黒トラに不意を襲われた。塀や軒先に気を配りながら歩いたのだが、気がつくと足元に同行者がいた。ひたひた、ひたひたと早足に歩くその小さな影に恐る恐る目をやると黒トラである。

 驚いて足を止めると黒トラも足を止め、ゆっくりとおれを見あげて、にやりと笑った。おれはもうほとんど気も狂わんばかりに動転し、一目散にアパートの階段を駆けあがった。そのとき一歩遅れるように小さな影も階段を駆けあがってきた。閉めようとするドアの、そのすき間をねらって黒トラが床を蹴って飛んできた。一瞬早くドアが閉まり、むこう側でドスンと大きな衝撃音がした。しばらくの静寂ののち昨夜のようなドアを引っかく音が聞こえてきた。おれは両手で耳をふさぎ、シャワーも浴びずにベッドにもぐり込んだ。

 その夜、夢を見た。

 おれは屋根裏にいた。まわりは漆黒の闇で方角がわからず、中腰のまま手さぐりでそろそろと進む。低い天井に頭をぶつけ、大きな梁をよっこらしょと乗り越える。かなり広そうだが屋根裏にはちがいないから、どの方向へ進んでもいずれは出られるはずだ。

 やがて四・五十メートルほどむこうに光が見えた。ああ、やっと出られる。ほっとして足を速めた。しかし暗闇なので思うように足は進まない。梁に足を取られたり、天井を避けて前屈みの姿勢を保持しなければならない。急ごうとあせればあせるほど足がもつれる。あまりのもどかしさに腹が立ってくる。いかん。感情が高ぶればいっそう難渋することになる。もう出口は見えているのだから、ここらでちょっといっぷくと足を止めて煙草に火をつけた。

 煙をふうっと吐いたとき、背後に気配がして地鳴りのような音が轟いた。なんだろうとふりかえっておれは戦慄した。いくつもの光る目が群れをなし、すぐそこに迫っていたのだ。猫の大群だと直観した。乱れた足音が恐怖をあおる。何百という猫の獰猛な形相が脳裡に浮かぶ。あと少しで出られるというのになんということだ。絶望感が襲う。走るしかない。おれは駆けだした。もうすぐそこなのだ。急げ。

 だがいくら駆けても出口の明かりは近づいてこない。おかしいなと足下に目をやるとネズミの足が空しく宙を蹴っていた。

『わ』

 とうとうネズミになってしまった。困ったな。口にくわえた煙草の始末はどうつけたものだろう。猫の大群も迫っている。とにかく全力で駆けつづけた。もはや小さな体に余力はないと感じたとき光があふれた。同時に唸り声がこだまし、大きくあけられた猫の口腔が、真の闇の物凄さで頭上に広がった。もうだめだと覚悟を決めて身をこごめ目をつむる。とたんに目が覚めた。

 その日から黒トラがおれを付け狙う日がつづいた。

 朝、黒トラは階段の下からおれの靴に掴みかかってそのままついて来ることもあった。しかし、人の目があるところでは決して襲ってはこなかった。邪魔が入るのを嫌ったのだろう。寄りそうように歩いて路地の口まで来ると足を止め、通りまで出てくることはなかった。路地の口に立ってじっとこちらを見ているので、猫に見送られているような錯覚を起こす。

 帰宅時はアパートに近づくや、はっと気づくと足元にいる。おれを見あげてはにやりと笑う。人知れぬ恐怖と闘いながらおれは階段をダッシュで駆けあがる。ドアの前で鍵をあけるタイミングが少しでも遅れるとたいへんなことになる。一度などは誤って鍵を落とし拾おうとしたおれめがけて黒トラはここぞとばかりダイビングしてきた。とっさにカバンを盾にして難を逃れたが、油断したり隙を見せたりすると命にかかわる。

 そうこうしているうちに出社最終日となった。同時期に辞める何人かとささやかな送別会をしてもらったが、おれにはなんの感慨もない。もう一年以上前からこうなることはわかっていたし、そうなるようにじりじりと追いこまれてきたのである。居残ったとしても、馴れない営業にでも回されて陰湿ないじめにでもあうのが落ちだ。むしろあと二ヶ月もそのままならおれのほうから辞表を出していただろう。もっとも、離婚などしなくて済んでいたならこんな気にはならなかったかもしれない。ともかくおれは家庭をつくりそこねたのだ。歳からいっても今後はひとりで生きていくことになる。

 その夜は遅くなってもう日付も変わったころ、帰って来たおれを路地の入り口で待っている目があった。黒トラである。おれはもういいかげんうんざりしていた。なんの因果もないのにつけ狙うとはなんという不条理な猫だ。ネズミを片づけたのはたしかにおれだが、そういう善意をこれは人間の勝手な善意ではあるが、これを奇貨として狙いをつけるなど言語道断である。

 おれは黒トラを無視するふりをして足早に路地に入りこんだ。黒トラは不意をつかれたようにあわてて立ちあがり、すぐに追いついて足元をひたひた、ひたひたとついてくる。おれは少々足を早めながらアパートを通りすぎた。そのとき、黒トラはほんの一瞬脚を止め、アパートの階段を見あげたようだった。それを横目におれはなおも足を早めた。路地の奥は袋小路で丸くふくらんだ形の広場になっている。周囲は一軒家ばかりで人影はないはずだ。そこで決着をつけようとおれは考えていた。もう会社なんぞへ行く必要もないのだから、少々のケガぐらいしたってかまわない。いつまでも猫の好きにさせておくものか。黒トラもおれの覚悟を感じ取ったのか、たしかな足どりでついてくる。

 広場に出るとおれはゆっくりとふりかえった。たったひとつの街路灯に小さな獣の姿が浮かぶはずだった。ところが。いない。黒トラの姿が忽然と消えた。街路灯の光が及ばない暗闇にも光る目はなかった。

 この期におよんで逃げたか。なんてことだ。おれはひとり取り残されて途方に暮れる。しかしまだ近くにいるかもしれないと周りに気を配った。ここはおれのアパートの付近とはちがい、家々は静まりかえり、灯りさえともっていない。神経を張りつめて注視深くさがしたが、あたりにはなんの気配も感じられない。

 猫のくせに肩すかしを喰らわすとは。いや猫ゆえの肩すかしか。いずれにせよ仕切り直しだとあきらめ、帰ろうと足に神経を移したその瞬間、強烈な殺気を背後に感じた。殺気の主は黒トラにちがいない。黒トラは知らぬ間に先回りしておれの後ろに陣取ったのだ。背筋を冷水が一気に流れ、おれの体は凍りついた。

 黒トラはおれの隙を狙って頭の後ろに張りつき、顔に前脚を伸ばして爪で引っかくつもりだ。頭に張りつかれたら最期である。目や喉笛を狙われ、確実におれは命を落とすことになるだろう。昔話ではなくこの二十一世紀に、猫に殺されでもしたら格好のマスコミネタになる。もの笑いのタネだ。情けない。

 おれは激しく動揺したが身動きはままならない。おれの体が少しでも動けば、その瞬間を待ってましたとばかり黒トラは宙に身を踊らせるだろう。それを阻止するには黒トラがあきらめるまで耐えるか、もしくは隙をついて逃げるしかない。

 おれは息をつめて呼吸を静かにととのえた。息が乱れたらとたんに黒トラに察知されるからだ。臨戦態勢の猫は相手のどんなスキもけっして見のがさない。気持で負けたらそれっきりである。

 どのくらい時間が経っただろうか。おれは緊張で体がこわばってきた。黒トラも同じように疲れているかもしれない。しかし、ここへきて、おれのほうは酔いが急激に醒めてきたようで気持もしぼみ始めた。これはいかんと活を入れようとするが春とはいえ深夜の街路は冷える。こらえきれなくなって、おれはぶるんと身震いした。

『しまった!』

 その瞬間おれは襲われるのは覚悟の上で駆けだそうとした。だがそれより一瞬早く、運がいいのか悪いのか静寂をはばかることなく背後でガラガラと勢いよく戸が開いた。

 ゴミ袋を抱えたおっさんである。その音に驚いた黒トラがぱっと跳んでおれの頭を踏み台にして飛んで逃げ去った。おれの脚も黒トラの動きにつられて始動した。黒トラは路地の入り口めがけて走っていったが、おれもその後を追うかたちになった。そこへおっさんの声が追いかけてきた。

「どどどどろぼー どろぼー・・・・か?」

 か? とはなんだ無責任な。こういうときにはよくあることで、ちょうど巡回中のパトカーがその声を聞いた。ふだんはこんな路地にパトカーが入ってくることなどないのだが、先週むかいのアパートで女性の下着が盗まれる騒ぎがあり、以来たびたび警察が見回りに来ていたのだ。

 黒トラはヘッドライトの強烈な光を避けて鉤の手に曲がって姿を消した。しかしおれは、光のなかで立ちすくむことになった。逃げるように走ってきたのだから、警戒中の警官にしてみたら怪しいやつ、どろぼうにちがいないと思うのがあたりまえである。おれは警官二人に行く手をさえぎられ、あっさり捕まってしまった。

「おまえだな、下着泥棒は」

「え? ちがう!」

 パトカーの中でおれは抗弁したが聞き入れてくれない。とにかく署まで来いと言う。

「なにも取ってない。おれはドロボーなんかじゃない!」

「じゃあ何をしてた? 走って逃げようとしたな」

 おれはちょっと返事に窮したがありのままに答えた。

「猫と対決していたんだ」

「なんだって! 対決? 猫と」

「そう。猫だ」

「もう少しましな嘘をついたらどうだ」

「では猫じゃなくて相手がトラかライオンなら信じるのか」

「そんなふざけた態度ではもう家には帰れないぞ」

 時間が経つにつれ、それが脅し文句ではなかったと思い知らされることになった。その晩からまるまる一週間ほどおれは拘留され、連日の取り調べを受けるはめになった。下着泥棒の嫌疑である。

 おれは留置場のなかで屈辱と畏怖の日々を過ごした。幸い会社を辞めた後なので下着ドロの疑いで御用になったなどと会社に報告される気遣いはなかった。そんなことをされたら、たとえ濡れぎぬとはわかっていてもたまったものではない。

 係官は妻に、いやおれからすれば元妻だが、連絡するというので、したければ勝手にしろと答えた。あの女ならどうせ面会などにもやってくるはずはない。弁護士を頼むかと訊くので必要ないと断った。

 そうこうする間に家宅捜索もやったらしい。が、けっきょく盗品などは出てこず、どろぼーと叫んだおっさんにしろ、もちろんなんら確証はなく、人影が走っていくのを見て反射的に「どろぼー」と叫んだにすぎない。下着泥棒の件が記憶に新しかったせいもあるだろう。もちろん当日、その近辺で盗られたものなどはなく、おれの疑いは晴れたらしい。

 まだ陽も高いころ解放された。おれはすさんだ気持で家路を急いだ。路地の入り口まで来ると果たして黒トラが来ていた。まるで出迎えているようである。おれは忌々しく思いながらも密かに舌を巻いた。物事の連鎖としてこのような結末になるのをこいつは知っていたのかもしれない。これはたいへんなやつに目をつけられたもんだ。

 まんまとおれをはめることに成功したためか、黒トラは初夏のさわやかな風にヒゲをなびかせ、意気揚々と晴れやかに笑っていた。おれの歩みに合わせるその足どりも、いつになくかろやかに感じられる。ステップもハミングしているようだ。それを横目に見ながらおれは思った。

『こいつ油断している…そうだ、だまし討ちにしてやろう』

 おれはいつものように階段を駆けあがった。気取られてはならないから、つとめてふだんどおりにした。さて、ここからだ。いつもならあわただしく鍵を回すのだが、このタイミングをわざと少し遅らせ、黒トラがおれに追いつく余裕を与えてやった。

 ドアを開けた瞬間、黒トラはいつものごとくおれめがけてダイビングした。そのとき、おれは部屋の中ではなく外のほうへするりと身をかわし、ドアを開け放った。黒トラは勢いあまって部屋の中へ飛びこんだ。

『やった!』

 間髪を入れず、ドアを閉めて鍵をかけた。ドアの内側から小さなものが体当たりをくれる音を確認してからおれは階段をおり、後をも見ずに駆けだした。

『ざまあみろ。これでケリがついた』

 このままおれがしばらく部屋へ帰らなければ黒トラはおしまいだ。餓死する前にあらんかぎりの力を部屋に刻みつけるかもしれないが、そんなことはかまやしない。ぞんぶんに暴れるがいい。部屋に残された爪痕は傷ついたおれの心をむしろ癒してくれるだろう。

 その晩は陽気がいいので野宿でもしようかと思ったが、不自由な留置場から帰ったばかりでもあり、せめてゆっくり湯舟につかりたいと思った。そこでおれは新しい下着を買ってビジネスホテルに泊まることにした。これまでの疲れもあって、その夜は泥のように眠った。

 翌朝、フロントからの電話で起こされた。チェックアウトの時間だという。もう一泊するからこのまま寝かせてほしいと頼んだが、あいにくと本日分は予約で満室でございますとのこと。延長ならいいだろうと聞くと掃除があるからダメだという。勝手にしろと電話を切ったら何も言ってこなかったのでそのまま眠った。起きたら午後だった。浴衣のままフロントにおりると、きのう頼んでおいたクリーニングがあがってきていたので、もういちど部屋に戻って着がえた。

 ホテルを出るとき延長の料金を払うと申しでたが、やたら長い顔にメガネをかけたフロントの男が当ホテルでは延長システムはないので当然ながら延長料金もない、クリーニング代だけでけっこうです、まあそんな意味のことを早口にまくしたてた。

ホテルを出たおれはまずコーヒーショップに入った。パンをかじり、飲みかけのコーヒーの横にくしゃくしゃの青い箱を置く。ホテルのフロントで背広のポケットに入っていたと渡されたものだ。このまえの喫茶店で手に入れたタバコである。まだ半分ほど残っていたが大半が折れてしまっていた。折れ残った一本を口にくわえ、マッチで火をつける。青い煙をななめ上にむかって吐く。ようやく頭がなんとか回りはじめる。同時に腹の底から、ふつふつと解放感が湧いてきた。

 汚れたガラス窓のむこうを人々が歩いていく。宙ぶらりんになると街はやけによそよそしく感じられるものだ。だがそれも馴れてしまえば新しい相貌の街をおれはあらためて受け容れるだろう。それまではふらふらとさ迷うのもいいかもしれない。すでに離婚届けは投函した。下着泥棒の嫌疑は晴れた。仕事は見つかっていない。一週間もすれば猫のことは片がつく。

 その一週間をどうやり過ごそうかとおれは思案した。せっかくの機会だ。宿を転々としながら日を過ごすのも悪くない。美術館や博物館で終日のんびりしたり、映画館で眠ってもいい。フィルムセンターはいま何を上映してるかな。スマホをいじっていると妻からの着信やメールがいくつも入っていた。いまのおれにとっては夾雑物でしかないので無視することにした。

 そうだ、旅にでよう。駅へ行ってこれから乗れる特急なり急行に乗ろう。夜行の長距離列車ならおあつらえ向きだ。行き先は列車が決めてくれる。PASMOで入場して切符は車中で買えばいい。好きなところで降りてまた列車に乗る。成り行きまかせの気ままな旅ができるぞ。

『それがいい。決めた!』

 おれはタバコをもみ消して立ちあがった。

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