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月夜遊戯

あんな話を聞かされたとあってはまっすぐアパートに帰るのも憚られて、電車を降りると線路際の焼鳥屋へ入った。

 晩めしもここで済ませるつもりだったがカウンターだけの店内は月曜だというのに満席である。しかたなく壁にもたれて立ったまま、手羽先などを食いながらビールを飲む。ビジネス街とちがって客は腰が重い。いくら飲んでも家まで歩いて帰るだけなのでなかなか立たない。立ち食い連はいつの間にやら四五人になる。釜飯を注文したものかと悩みはじめたころ、やっと空いたのでさっさと座った。

 釜飯を平らげて日本酒をちびちびやり始めたころ、耳の奥で猫の目の女の声が響いた。

「一匹の猫があなたに闘いを挑んでいます」

 ばかばかしい。そんなことがあるものか。しかし決闘か。そんなもん人間相手にもしたことないもんなあ。まして相手は猫だ。猫の爪はすごい。ここんとこ、親指の付け根んとこ、まだかすかに筋が残っている。もう何十年も前のことなのに。ありゃりっぱな武器だ。ふざけ合ってこれだから、本気になったらさぞ恐ろしいことだろう。

 店を出ると月が大きい。酔ったついでに大きな月に誘われてふらふらと遠回りをする。かつてあった上水にふたをして作った公園に入る。上水路だから細長い。公園というよりは遊歩道に近い。もう深夜だがのんびりと歩く。明日のために早く寝なくてはと案ずる気遣いはもはや無用だ。机回りの片づけは終わったから、あすからは会社に出ようが出まいがどちらでもいい。原稿も区切りがついている。あとはバイトに任せればいいさ。

「バイトだってうまいもんだ。な」

 おれはいつの間にか石のベンチに座っている。「な」と呼びかけた相手はなんと猫の背中である。その猫はすでにおれの値踏みを済ませたらしく振りむきもしない。ただ耳をぴくと動かしただけである。

 周囲をよく見ると猫は一匹ではない。反対側のベンチの上に一匹寝そべっている。さらに二メートルほどむこうに三匹が、それぞれすわったり寝転がったりしている。いずれもこちらに背をむけた格好である。ここいらの地面は土ではなく、大きな石が敷きつめられて石畳となっている。その石の上で猫たちは気配に注意しながらじっとしている。ときおり猫の頭のどれかがこちらをふりかえる。二三匹が同時にふりかえることもある。しかし持ち場は離れない。

 持ち場? そういえば陣形のような位置関係を猫たちは保っている。これはおれに対して布かれた陣なのか。いや、みんなむこうをむいているのだからそうではあるまい。だいいち猫たちはおれが来る前からここにいたのだ。おれのほうが闖入者だ。あらためて観察するとおれは陣の中心にいる。なにを相手に陣を敷いているのだ?

 猫たちの背や小さな頭のむこうに目をやると上水公園の木立があり、遙かに高層ビル群の赤色灯やシルエットが夜の闇に浮かぶ。おれはあそこに通勤していたんだ。当分は行かなくてよいと思うとせいせいする。あの高層ビルを猫たちも見つめているのだろうか。

 おれは猫たちを見守る。顔を上げると大きな月が、ちょうどおれを中心と仮定する陣の背後に来ている。じっとしているとゆるやかな空気の流れが、猫とおれとで布いた陣に降りてくる。猫たちは静かである。身動きはするけれど持ち場は離れない。おれも動かない。時間もここでは止まっているみたいだ。おだやかでのんびりした風が陣に舞う。この陣でなにかが始まるのだろうか。だとすると、これは見のがすわけにはいかない。なにしろおれは猫と決闘するかもしれない身の上なのだ。だから猫についてはなんでも観察しておくべきである。

 どのくらい時間が経っただろうか。不意に風の向きが変わり、陣の先のほうで小さな渦巻きが発生した。そのとき、先頭にいた一匹がふにゃりと身を踊らせた。

 はっとして見ると猫の口元に白いものがある。なにかを口にくわえているようだ。目を凝らすとそれはヤモリだった。身動きしないので死んでいるのかと思ったが次の瞬間みょうな声で猫が鳴き、口元をゆるめたら敷石に落ちて四肢で踏ん張った。生きている。ヤモリはじっと身構えて不用意な動作を排除し、硬直して動かない。そこへ先頭の次の猫が手でくいくいッと地面をなでた。ヤモリは身を翻して猫の手を逃れる。しかし逃れた先にも三番目の猫の手が待っていて、同じような仕草をして地面をなでた。次の猫の番になったときおれは忽然と悟った。猫の手は地面をなでるようにひょいひょいとヤモリを追っているのだ。

 ヤモリはみごとにコントロールされていた。猫たちは逃げ道をふさぎながらヤモリをたくみに翻弄して陣の底へと追い込んでいた。漫画で猫のゴキブリキャッチを見たことがあるが、それのヤモリ版である。

「ほおーっ」

 おれは感心する。同時にはっとした。あのヤモリはやがて陣の底に位置するおれのところに回ってくる。考えたり身がまえたりするひまはなかった。猫の手から手へ追われたヤモリはおれめがけて身を躍らせて突っ込んできた。

「来た!」

 とっさにおれは両手を広げてヤモリをすくい上げようとした。しかし地面に手が着かないうちに白い獲物はするりとおれの背後へ逃れ、ベンチのうしろの草むらに走り去った。

 猫たちは頭だけこちらにめぐらせておれを見ていた。おれに何を期待していたのだろう。おれとしても精一杯の努力をしたつもりだがそこはやはり猫の手すさび、人間がかんたんに参加できるわけがない。しかし猫たちはヤモリが草むらに消えるのを見て興ざめしたようである。その場が凍りついてひんやりとした空気が舞いおりる。

 やがて陣の先のほうの一匹がなにごともなかったようにしっぽをひと振りして向こうをむいた。それを潮にほかの猫も、あごを掻いたり足の毛をひと舐めしたりしてむそっぽをむいた。場がしらけたようだ。おれは猫に非難されたような気持ちになり、気分はしぼんで酔いもさめてしまった。立ちあがったおれを猫たちはしっぽのひと振りであしらい、もはや一瞥もくれなかった。

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