猫精降臨
高揚したまま街へ出る。足どりが妙に軽くなったような気がする。いわゆるハイである。人混みに水を差されたくないのでそのまま裏道をたどる。あの二つむこうの交差点を左に大通りの方向へ抜ければ地下鉄の駅があるはずだった。ここらでもう一本と火を点けて目線があがったとき、斜めむかいに『三毛の館』という目にも彩な建物が誘いをかけてきた。占いの館のようだ。
『手相』『人相』『風水』『タロット』
さまざまな書体の文字が不規則に光っている。元来おれは占いにはまったく興味も関心もない。見てもらったこともなければ相談に乗ってもらおうなどと考えたことさえない。それがどうしたことだ。あたりをはばかるように恐る恐るその建物に近づいたかと思うと足を踏み入れ、あまつさえ『キャッツアイ』なる部屋を一目散にめざしているのだ。およそふだんのおれとは考えられない。これはやはり常ならざる世界に魅入られているからであろうか。
「ようこそ。お待ちしていました。さあどうぞ。こちらへ」
え。予約なんかしていないのだがと思いながら言われるままに靴を脱いでスリッパをはく。照明が外見のケバケバしさとはちがって地味な白色灯で、歯医者かなんかの待合室のようだ。ソファの正面に小窓があって女の子が座っている。
「少しお待ちください」
ソファに腰をおろすと奥のほうで声がする。その声が耳に入るやおれの体はぞくっと震えた。はじめて体験する耳の感触である。女の声だ。鼓膜が痺れる快感にふらふらと腰が浮き、おれはソファから立ちあがる。声は小窓のさらに奥から空気をふるわせていた。右手のこのドアを押して入れば声の主に近づけるのだろうか。そう考えるやノブに手をかけて回していた。それを見ていた受付の女の子があわてるようすもなく小窓から顔を出す。
「少しお待ちください」
おれははっとして正気を取り戻し、おとなしくソファに戻って腰をおろした。
どのくらいの時間が経ったろうか。ソファに体を押しつけて制動し、耳に神経を集中していると声はますます魅惑的になって高揚感が横溢し、やがて静寂に変わった。奥の部屋のドアが開くと初老の紳士が出てきて小窓のほうに歩み寄った。たぶん料金を支払っているのだろう、そのまま顔を見せることなく出ていった。
「お待たせしました。どうぞ」
うながされてドアのむこうへ入って驚いた。間接照明の中に浮かびあがったのは三台の歯科用診療椅子である。真ん中の椅子のかたわらに細い女が立っていた。これで着ているものが白衣ならばまちがいなくここは歯医者である。しかし女は大きなスカーフを頭巾のようにかぶっているほかはフリースなどを身にまとい、少なくとも医療関係者には見えない。
頭巾のせいで顔がよく見えないがそれより声だ。早く聞かせてくれ。そんな期待を見すかすように女はただ手招きし、椅子に座れとうながす。もどかしげにそそくさとすわると椅子の背が後ろにたおされた。あわてるおれの顔めがけて強烈なライトが光を放つ。目がくらんで両眼を閉じると女の声が耳元でささやく。
「手足の力を抜いてください。体中から余分な力が出ていくように」
『あれ?』
ちがう。この声じゃない。どういうことだ。明らかにちがう声だ。えも言われぬあの声はまさか、さっき出ていったあの男の声だったのか。想像すると吐き気がこみあげてくる。
「じき楽になりますよ」
落ち着いた声だ。そんなに若い声ではない。
しばらく沈黙が続いた。リラックスどころかなにが始まるのか不安になる。おおかた店名から察するに水晶玉のかわりに猫目石でも使って運勢でも見るのだろうと踏んでいたがようすがおかしい。口を開けろと言われたらどうしよう。そんな心配をよそに瞼の裏で強烈な光がゆっくりと点滅したかと思うと消えてしまったり、小さなノイズのような音がいきなり耳をつんざくほどの大音響で鳴ったりした。
同じことが何回か繰りかえされ、神経がささくれるような不快さが募る。もう限界だと感じて目を開けた。とたんに氷のごとき戦慄が走る。うす闇に光る猫の目が静かにおれを見おろしていたからだ。その目は執拗におれを睨めまわしている。これはまずいとおれはもういちど固く目を閉じる。またしばらくの時が経った。
ノイズの調子が変わってきた。反応をさぐりながら振幅を徐々に狭めて当たりをつけ、調整しているようでもある。同時に光の点滅も回数が減り、かなり低い照度に落ちついた。
「もう目をあけても大丈夫ですよ。閉じたままでもけっこうです。耳を澄ましてください。音に近い声が聞こえます。それはあなた自身の心の声かもしれません。だれかからのメッセージかもしれません。意味不明の歌かもしれません。その声はあなたが聞かなければ聞こえません。そのためにあなたの心の声は消えます。印象も消えます。意志をつらぬいて耳の準備だけをしてください」
おれは言われたとおり耳を澄まして聴覚だけに集中する。呼吸も止めて待つことしばし。耳元で低い唸り声がした次の瞬間あのえもいわれぬ音色の声がささやき始めた。さきほど聞いた声とはちょっとちがうが紛れもなく同じトーンの音色である。おれはもっとよく聞こうと耳をそばだてる。
音のような声、声のような音は上からも下からも左右からも聞こえる。椅子にスピーカーが仕掛けられているようだ。肉声も聞こえる。おれが出している声だろうか女が出している声だろうか。どの音も声も発信源は定かでなく混ざり合い溶け合いひとつに融合して耳に打ち寄せる。
ことば以前の音の波動なので意味は取れないが気分はいい。ふるえるような快感が耳の奥からふつふつと湧いてくる。おおおおああああああと嗚咽が聞こえてそれが自分の口から出ているのだとやっと気づく。
そこは真白い世界だった。おれが歩いている。ひと足ごとに草木が生い茂り、やがて木漏れ日がふりそそぐ。おれはまっすぐ前を見つめて歩いている。足場は悪そうなのに歩調は軽やかだ。真横から見るおれの顔はまるで見たことのない穏やかな表情で、そこが楽園か天国ででもあるかのようだ。そのまま歩き続けることが涅槃であり楽土を踏むことだと感得された。至福がおりてくる。
かすかに風のながれが変わったような気がした。生い茂る葉にときおりぽっかりと顔の高さに穴があく。左の前方に人の頭が見える。同行者だ。少し前を歩いているから先導者か。女だ。その女がいきなりふりかえったが逆光になっていたため顔立ちや表情はとらえられなかった。
豊かな緑の園を女はもう横顔を見せることなくしっかりとした足どりで行ってしまった。おれはかつてない充足感にみたされて歩いている。もとよりあてはない。永遠の時間を約束された桃源郷めざして遙かな旅路の端緒にようやくついたのだ。だれにともなく感謝の念がこみあげてきた。涙があふれる。
時がすぎ、何日も何ヶ月も何年も経った。しかし風景は変わることなく陽も沈まない。西へ歩いているからだ。空を雲が流れ、風がまとわりつく。疲れもなく腹もへらない。さまよう魂に世界はひらかれる。おれはうれしくなって脚を速めた。やがて、前をゆく女が見えた。おれの足音か気配に気づいたのか歩みを止めてこちらを振り向いた。遠目にもはっきりわかった。女は猫の眼をしている。
静かな声が聞こえた。
「一匹の猫があなたに闘いを挑んでいます」
「え」
「その猫はあなたの顔に取りついて爪と牙を総動員して攻撃します。必ずや決着をつける覚悟です」
夢見心地の風景に浸かっていたおれは不愉快きわまりない思いで顔を背けた。しかし内心ではもちろん思い当たった。黒トラだ。しかしこの猫目の女ははたして黒トラのことを言っているのだろうか。それとも何か例えばある種の社会勢力とか人物とかを比喩して『猫』と言っているのかもしれない。おれは質問してみた。
「あ、あのう。猫とは猫のことでしょうか」
女はおれをにらんだまま返事をしない。ストレートに余計なことは交えずにそのままの意味で解釈したほうがよさそうだ。猫の眼の凝視から目を逸らしたいが体がいうことをきかない。金縛りに遭ったように風景にへばりついている。おれは女の話に合わせることにした。
「ではどうやってその、おれはですね、猫と闘えばいいのでしょう。なにか武器とか用意したほうがいいのですか」
「動物愛護法に抵触するので素手で闘うことになります」
女は真顔で言う。
「ちょっと待ってください。猫のあの鋭い爪や牙は武器ではないのですか」
「体格差を考慮すれば当然のハンデです」
「はあ」
素手でも体格差があるから虐待だ。いや敏捷性を考慮すればいい勝負かな。いかん。すでに猫と闘うのを前提にしている。
『猫と決闘?』
ケットウ けっとう、決闘! 猫と! ばかな。おれの頭はますます混乱する。そもそも猫と闘うこと自体が愛護法違反だろう。それとも決闘だから免責されるのか。いや、これは現実ではないのだ。あくまで夢想のなかでの話だ。真に受けるほうがどうかしている。しかもちょっとした立ち話にすぎない。
「決闘をするわけですかおれが。えーっと、その。猫と」
おれは架空の話として理解しようとした。
「そうです。あなたは身に覚えがあるはずです。話してみなさい」
おれはひきつづき混乱したまま、一昨日から昨日に起きた黒トラとの事件を一つひとつ順を追って思い出しながら話した。ネズミに話が及ぶ度に猫の目の女はフーッと威嚇するような息をもらした。
「そのネズミが挑戦のしるしです。中世の騎士が手袋を投げて挑戦を申し込むのと同じ。あなたはその挑戦を受けたのですよ」
え。いや、あのネズミは地域住民への贈り物だったのではないか。おれがそう抗議すると猫目女はほっほほほと笑った。
「あなたが拾い上げた瞬間に意味合いが変わったのですよ。うかつでしたね。おっほほほほ」
あれが挑戦を受けて立ったしるしとなったって? そんなばかな。しかし、だからこそ黒トラは深夜にやってきたのだ。果たし合いのために。ほんとにそうなのか。この女のでまかせをではないのか。
女の話に乗るとして、なぜ黒トラは決闘する気になったのだろうか。猫は縄張り争いぐらいはやるだろうが、猫にとってたいして意味も益もない決闘など考えられない。
「理屈などはヒトの側のかってな言い分ですわ。通用しません。おっほほほ」
たしかに猫に理屈は通用しない。いや、話はそういうことではないのではと思ったが女が笑いながらにらむので口をつぐんだ。
「世界には人知の及ばないことだらけです。おっほほほ」
太陽は西の空にあいかわらず高く、木々は青々と豊かな葉むらを風にそよがせている。ときおり葉の間からまばゆい光が落ちてくる。
「回避する手段はありませんか」
「あなたが怖れを抱くのもむりはありません。なにしろ猫は熊をも退散させるほどの攻撃力を持っていますからね。おっほほほ」
「え? 熊を!」
「怖れてはいけません。それこそ猫の思うつぼです。あなたはいいようにあしらわれてしまいます。人間として毅然とした態度でのぞんでください。おっほほほ」
そんなことを言われても困る。おれはうつむいて放心する。この女の話はおれにとってはけっして荒唐無稽ではないのだ。身に覚えがあるばかりに日常感覚が崩壊するようなめまいに襲われる。足元に落ちる猫の目の女の影がふっと大きくなったような気がした。顔を上げる間にその影は巨大に膨張して光を完全にさえぎった。おれのなかで突発的に芽生えた恐怖が爆発する。
「わ」
目をあけると猫の目の女が見おろしていた。はっとしてあわてて身を起こす。気を失っていたらしい。おれは歯科治療用の椅子にすわったままだった。
「気分はいかがですか」
「はあ」
よくはなかったがなんだかすっきりしたのもたしかだった。
「なんか霧が晴れかけてきたような。そんな気がします」
「そうですか。それはまあ」
猫の目の女は言葉を濁して背をむけた。
「ではまたどうぞ。お待ちしています」
なんだここは。占いではなくリラクゼーションルームの一種か。女にそう尋ねてみた。
「ごめんなさい。わたし、よくわからないんです。どういうシステムなのかメカニズムなのか。ただ、ここにすわっていただければ、どなたであれ多少の満足を得ていただけるらしい、そういう能力をわたしがもっているということしかわかりません」
そう言いながら洗面台から顔を上げた女の目はもう猫の目ではなかった。
「では、猫との決闘というのは」
「え」
女はなにも知らないようだ。おれが気を失って体験した夢のなかのできごとはおれだけに起こったことらしい。この女は客にその契機を提供しているだけなのだろう。
「ここは歯科医院だったのですか」
「ええ。便利なのでそのまま使っています」
おれは部屋を出る。あとの客がすでに数人、ソファで待っていた。安くはない料金を支払って裏通りをさ迷い歩き、やがておれは駅に吸い込まれた。