SAGA
翌日、出社すると机の上におれ宛ての手紙が置いてあった。わずかに空いたスペースにまわりのゴミいや資料の山からかろうじて分別できるように置かれている。角の折れた茶封筒で差出人は別居中の妻だった。封を切ってみると離婚届である。宛先不明で戻ったので会社に送ってきたらしい。印鑑を押して返送してくれとあったのでおれは手早く住所氏名を書いて押印した。
午前中にヒメハルゼミの原稿を書き終え、昼食に出たついでに離婚届の封筒を投函した。午後に机の周辺とロッカーの整理に取りかかる。捨てる物ばかりなので簡単に片づいてしまった。まだ終業時間には間があったが帰り支度をして立ちあがる。いつもなら嫌味な視線の一つや二つは飛んできそうなものなのに、口やかましい部長が一瞥をくれただけでだれも顔さえあげなかった。このときおれはすでに社員ではなくなった自分を認めた。
妻にマンションを追い出され、アパートを見つけて移り住んだとたんにおれはクビを宣告された。以前から整理の対象にされていたのは知っていた。仲人をしてもらった先輩からそれとなく示唆されていたからだ。その先輩は編集にいたのだがいまは人事課に移った。おれも制作や営業に移れば延命できるかもしれなかったが、どのみち長続きはしないだろう。会社は子供向け書籍だけでは今後厳しいとあって業容の見直しを迫られている。おれのような融通の利かない唐変木に居場所はない。
会社を出るやおれは人材派遣会社にむかった。先週電話したら登録にお出でくださいと言うので訪ねてみることにしたのだ。会社と同じ路線の七つほど先の駅である。地下鉄を降りて地上に出ると空の端のほうにまだ光が残っていた。人があふれる大通りで猫の手が目印だというビルをさがす。人材会社ならではの猫の手というコンセプトは分かるのだが建物の目印というのがよくわからない。
「ビルの天辺に見えますから」
そう聞かされていたのでおれは人とぶつかりそうになりながら斜め上を見ながら歩いた。やがて前方の右手にそれは現れた。繁華街に面した細長いビルで、屋上から茶色の猫の腕というか前脚が伸びていた。屋上にはご丁寧に猫の耳らしきものがのぞいている。
派遣会社のオフィスはその猫ビルの最上階にあった。通された面談室からは精巧に造られた猫の手の肉球がよく見えた。面接でそのことに触れると、おれより一回りも若そうな担当者はうれしそうに笑う。
「追加で顔の部分を製作中なんですよ」
「そうですか。手と耳だけでもリアルな迫力がありますけど」
「そうでしょう。ちょっと怖がる人もいるくらいですから。クレームがときどきあります」
そう言って頭を振りながら、まんざらでもないようすで窓外の猫の肉球に目をやり、おれの履歴書に目を落とす。
「ご自分でも動かれることです。コネがいちばんものをいいます」
「当たれるところは当たりましたが知り合いもすくないですし」
「そうですか。ではまあ気長にお待ちください」
予想していたこととはいえ見通しは明るくないようだ。
しずんだ気持で猫の手のビルから出ると暮れなずむ空の下、往来の人混みを避けて裏通りを行くとふと『自家焙煎コーヒー』の文字が目にとまった。ちょっと懐かしく思って足が向かう。学生の頃に通った喫茶店がまさに自家焙煎の店でコーヒー豆を焼くロースターがあった。嗅覚を刺激する香ばしい刺激を思い出す。
その店の前に立つとドアの上にも絵看板があってSの字形に曲がるピアノの鍵盤を、口の端をゆがめて笑う斑猫が頬杖をついて片方の手で弾いている。音符に縁取られた文字列は店の名のようだ。
『喫茶フェリス』
看板を見あげながらおれの手はノブを回していた。
「いらっしゃい」
レジ横のイスに座った白髪混じりの男が新聞から顔を上げる。後ろ手にドアを閉めながら店内を見渡すとテーブル席がいくつか空いていたがカウンターの奥まった端の席にすわる。電球色の照明下に上部がステンドグラスになった窓から黄昏時の淡い光が影を落とす。間接照明でメニューを見ると、『春霞』とか『夕時雨』『秋もよい』などおよそコーヒー店らしからぬ文言が並んでいる。但し書きがあってブラジル2、コロンビア1、グアテマラ4、などと書いてあるところから察するとブレンドコーヒーの雅号のようなものなのだろう。そのなかからおれは『猫の恋』を注文していた。
店内に流れるのは案に相違してクラシックではなく、ラテン系の軽い音楽である。カウンターに常連らしき年輩の客が三人、壁際のテーブル席に買い物帰りらしい女性客が二人。サイフォンがぶくぶくと音をたて、ほんのり焦げた香りが鼻をくすぐる。
「おまちどうさま。ごゆっくりどうぞ」
目の前に出された小さなカップを口に運ぶ。そのやわらかい苦みにほっとする。
心に去来するのは職探しのこと、といいたいところだがおれの心は意に反して猫のほうへむかっていた。
じつは今朝も出がけに階段のすき間からパンチが飛んできたのだ。靴のかかと部分には三本の引っかき傷が残っている。なにか含むところがあっての所業と解するほかはない。それがネズミに起因するのは明らかとしてその謎解きをしなければならない。
猫の「ギフト」について調べたところ、猫は恩義のある相手つまり飼い主などに対して狩りの獲物を見せびらかす習性があるらしい。ネズミに限らずトカゲやカブトムシ、セミ、ゴキブリ、猛者になると青大将なんてのもあるそうで、必ず持ち帰っては自慢げに捧げる相手の目につくところに、猫にしてみれば安置のつもりで結果として放置するという。
しかし黒トラはノラ公である。あえて見せる相手はいない。それとも付近一帯で養ってもらっているから公衆が相手なのかもしれん。だから目立つように道の真ん中に置いた。その善意で置いたものをおれが片してしまった。いわば善意を踏みにじったのだ。それで悪意をもっておれを狙っている。待てよ。おれだって猫の存在は黙認している。消極的ではあるが猫シンパなのだ。
誰かに見られているような気がしておれは顔を上げた。視線の先には斑猫のマスコットがいた。看板と同じようにピアノの鍵盤に肘をついてニヤリと笑っている。どうも神経過敏になっていかん。リストラされたショックが尾を引いて健康的な判断力が欠如しているにちがいない。
サイフォンから二杯めのコーヒーを注ぎおわったとき、ふと正面のガラス戸棚の隅になつかしいタバコのパッケージを見つけた。
『SAGA』
ライトブルーにマリンブルーの羽ばたく海猫の姿、ギリシアのタバコだ。おれが禁煙するきっかけとなったタバコである。そのなんともいえない甘さとゆったりした吸い心地、気取りのない芳香、値段も国産と変わらない。お気に入りのタバコだったがJTの廃止銘柄になったので他のタバコに変えるのを余儀なくされた。しかし、似たようなタバコがあるはずはなかった。他の銘柄を吸うたびに物足りなさを感じてストレスになり、なんのためのタバコかわからなくなった。結果としておれはいっそタバコをやめようと決心した。そのタバコが目の前にある。
おれは興奮を押さえきれず腰を浮かしてそのタバコを求めたが、マスターらしき男は売り物ではないのでと言ってそのパッケージの一つをおれの前に置いた。
「進呈しましょう。このタバコを知る人は少ない」
マッチをもらって火をつけると、むせることもなく煙の香りが体内でよみがえる。夢の中では何回か禁煙を破ったことがあるがこれは夢ではない。腹の底からわき起こる感動におれは酔う。