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黒トラ見参

 目覚めるとすでに日は高く日曜でおだやかな日和ではあったが、蒲団を干すとおれはもう仕事に取りかかっていた。おそらくはこれが最後の仕事になるはずだった。会社からは来週中には私物の整理をしてほしいと要請があった。つまり来週いっぱいでおれの身のほうも片をつけねばならない。

 小さなテーブルにノートパソコンをのっけてネットで下調べをする。いま担当している仕事は子どもむ向けのニュースペーパーで、果物や動物をテーマにたとえばヘラクレスオオカブトはこんな生き物なんだよと平たく説明するコラムの執筆である。ネット上に氾濫する情報を取捨選択して整理する。ざっと流せばだいたい情報は揃うがそれでも不明が残れば学術誌の論文に当たったり、図書館で専門書を引いたりする。概論、態様、生態、環境共存関係などを簡明に記述していく。

 コピペしまくってお茶を濁すライターもいる。外道である。おれはそんなことはしない。文章に対する自負があるからだ。文章をバラバラの単語に還元してあらためて構築する。消化するのに時間がかかるが作り上げる楽しさがある。そうやっていつものようにきょうはアメフラシの原稿を作成する。夢中になると時間はあっという間に過ぎる。

 午後の日もかなり傾いてきたのできりのよいところで買い物に出る。外に出たときふと気になり、階段の下の植え込みを覗いてあっと驚いた。埋めたはずのネズミの死骸が掘り起こされている。死骸は穴から数十センチのところに放置されていた。

 なにごとであろう。

 それとも暗かったからおれが埋めそこなったのか。いやそんなはずはない。しっかり土もかけたし、いまネズミが放置されている位置は穴のところから離れすぎている。何者かが掘りかえしたにちがいない。考えるまでもなく犯人は明らかだ。

 犬はこんなところに登っては来ないしヒトは端から見むきもしない。仲間のネズミが救いに来たか。それなら穴蔵へでも死骸を持ち帰るだろう。けっきょくこんなことをするのは猫のほかにない。

 しかし猫の仕業にしてみても、これ見よがしに穴の近くに死骸を転がしておくとはどういう料簡なのか。おれがしたことはすべてお見通しだとでもいいたげな所業だ。おれは不意をつかれてすっかり動転してしまった。まだ明るい日の下で自己満足の小さな偽善、いや善行をあざ笑うしっぺがえしを食らった気分だ。

 おれは落ち着きを失ったままスーパーマーケットのレジに並んでいた。支払いをするとき魚をまた買っているのに気がついた。きょうは生の真アジである。帰り道をたどりながらとにかく埋め直さねばなるまいとおれは考えていた。

 買い物から帰ったおれは再確認すべくアパートの階段下でおそるおそる植え込みのなかをのぞき見て唖然とした。なんとこんどはネズミの死骸が跡形もなく消えていたのだ。ほんの十数分前の記憶をもういちど呼びもどしてみる。いや、あれは見まちがいではなかった。たしかに掘り起こされたネズミがここに横たわっていた。それが忽然と消えている。ひょっとして誰かが見つけて埋め戻したのかもしれないと昨日埋めた穴を見てみると乱雑に土が掘りかえされたままである。となると、これもまた猫の仕業にちがいない。猫がネズミを口にくわえて持っていったのだろう。

 顔を上げて周囲を見回してみるが猫の姿はない。しかし猫の不在は逆に猫の存在を強く意識させた。いつもなら猫の二三匹もそこらにごろごろしている時間なのに姿が見えないのは怪しい。

 だがいったい猫のなにが怪しいというのだ。おれは自問し冷静になろうと努めながら階段をあがった。相手は猫だ。人知の及ばない行動をしたとてそれを咎め立てる筋合いではない。発端がネズミなのだから猫が関わってくるのは必然である。すべて猫の仕業だろう。

 植え込みはたまたま猫がトイレにでも使っていたか腐敗臭を嗅ぎつけて掘ったのだ。どちらにせよネズミを運ぶ途中でおれの足音を聞きつけネズミを口から落とした。そしておれが去ったのを確認して取りに来た。そう考えるのが穏当である。しかしいったん口にくわえたものを重いものでもないのだからそのまま持ち去ればいいものをヒトの気配に驚いて取り落とした?

 猫のことなのでその行動になんらかの意図があるとは思えないが、人にわざわざ見せるために掘り起こし、これ見よがしに放置したとも考えられる。いや待てよ。こういう所業は猫に限ったことではない。カラスの仕業かもしれん。

 アパートの階段を上りきったおれの目の前に大きな脱糞の跡がある。カラスの糞である。二階の通路には高さ一・五メートルほどの側壁があってゴミ収集日になるとこの側壁上にカラスが陣取って踊る。それはもうたいへんな興奮状態でうれしくてたまらぬといった声で歌うわ、がなるわ、羽ばたくわといった有りさまで吹きさらしの通路には興奮状態でひり出した糞がバシャバシャとまき散らかされているのだ。

 カラスとネズミか。そういえばカラスがゴミの集積所を荒らすのは実はそこに集まるネズミをねらっているのだという話を聞いたことがある。しかし道の真ん中ならともかく、あんな植え込みからカラスがネズミを掘り出すだろうか。なによりカラスなら食い物としてのネズミをあんなふうに放置しないはずだ。ここはやはりカラスのいたずらよりも猫の仕業と見るのが自然な気がする。

 とにかく夕食のしたくをしようとおれはアジをオーブンに入れ、焼けるまでの時間を利用して再び原稿に取りかかった。下調べで保存した資料にざっと目を通して対象のイメージを練る。ここではむつかしいことは考えない。起承転結や序破急など古典的なプロットを利用する。焼きあがるまで三十分余おれはパソコンに相対してヒメハルゼミのジジーヤー、ジジーヤーという鳴き声に耳を澄まし、イメージを文字で作りあげていく。

 羽の先ていどのイメージまでは書いたがなかなか進まない。そんなに急ぐわけではないのであす会社で続きをやればいいとUSBメモリに保存する。

 アジが焼けたので飯を食う。見るともなくプロ野球の映像を見ながら塩焼きの身を取る。骨を猫にくれてやるべきかと考えている自分に気づいてはっとする。テレビでは村上がホームランを打った。食器を洗おうとして魚の骨が目にとまった。

 ゴミを出すついでに骨を持って階段をおりる。どこに置こうかと思案する。さすがに植え込みでは砂だらけになるので階段の下のコンクリに置いてやった。階段をあがってくるとき足の下でさっそく気配があった。

 風呂で湯につかっていても脳裏に浮かぶのはネズミの一件である。そもそも最初になぜ道路のど真ん中に放置したのだろうか。ひけらかしたいのなら尻尾をくわえてぶらさげて歩けばよい。あんなところに置いだけでは誰の獲物かわからないし、クルマにつぶされたら跡形もなくなるではないか。それを・・いやまてよ。あの場所で見せることが目的だったとすればどうだろう。往来のど真ん中に置くことでなんらかの示威表示になっているとしたら。

 昼日中に道の真ん中だ。いやでも目につく。まさか人間に見せたかったわけではないだろうから猫がターゲットか。縄張りの境界の目印、そんなところだろう。

 早めにベッドに入ってうとうとしかけたころ玄関からガリガリとひっかくような音が聞こえた。きょうは酒は飲んでいないので意識ははっきりしている。おれは起きあがって玄関に行き、のぞき穴からドアの外を見る。人影はない。音はやんでいたが玄関ホールの灯りをつけてそっとドアを開けた。細い光の筋がしだいに太くなるにつれ、ドアのむこうにくっきりと浮かびあがるものがあった。その姿はほかでもない。猫である。

 黒トラだ。

 黒トラは電球の光を浴びておれを見あげていた。毛を逆立て耳を伏せ低くかまえた姿勢には緊張がみなぎっている。強烈な眼光に見据えられ、おれは凍り付いた。

 いかん。飛びかかってくる。

 おれはドアノブに手をかけたまま重心を落として低く身がまえ、猫を見すえるようにした。視線を一瞬でもそらせばその隙を狙われる。息を詰めた対峙が狭い玄関に展開される。猫は身じろぎもせず緊張を持続させている。威嚇すらせず、攻撃対象と定めたおれの油断をひたすら待っているようだ。猫の武器は爪と牙だ。猫の爪の威力をおれは身をもって知っている。

 上京してひとり暮らしを始めたころ、子猫が部屋を往来するのを好きにさせておいたことがあった。その折、ふと、猫を相手にボクシングをやり合い、猫が本気になって爪を出した。よけた手の甲に直撃を喰らい血の色もあざやかな筋が三本走った。その傷は深く、直るのに一ヶ月近くかかった。傷跡は今も残っている。

 そのときのことが頭をかすめ、これはえらいことになりそうだと壮絶な戦いを覚悟したとき、いきなり隣室のドアが開いた。その音に猫がすばやく反応する。おれを見据える目はそのままに反対方向へ身をひるがえして消えた。替わってドアの隙間に隣室の女子大生が現われる。

「こんばんは」

 ゴミ袋を手にこちらに目を向けることなく通りすぎていった。

「こんばんは」

 おれは追っかけるように返事をかえし、ほっとしてすばやくドアを閉めた。

 おれは興奮したまま室内に戻り冷蔵庫をあけた。まだビールがあったので引っつかむ。栓を抜いてイスにすわる。気持ちのたかぶりを静めようとゆっくりと飲む。テーブルの上で手を組み、じっと玄関に注意を集中する。ゴミ出しの女子大生が戻ってしばらくしても音はしない。今夜はもう来ないのだろう。

 しかしあの敵意はなんだ。おれには猫にケンカを売られるおぼえはない。猫に悪さをしたおぼえもない。それなのにあの黒トラは明らかにおれを攻撃しようとしていた。なぜだ。思い当たることはない

 あ

 ネズミ!

 そうだ。ネズミ。

 あれはやはり黒トラのネズミだったのだ。おれが動かして片付けたことが黒トラの気にさわったのかもしれない。縄張りの誇示、ハンティングエリアの標識、スプレーの代替、そんな言葉が脳裏をよぎっていく。ギフトかもしれない特定のだれかではなく、なにかへの捧げ物だとしたらおれが禁を犯したということである。邪魔する意図などなかったのだが相手は猫だから通用しない。おれが儀式なり掟を破ったと黒トラは捉えたのだ。しかしおれは邪魔立てする気などさらさらなかった。誤解だ。これは人間のほうで解いてやらなくてはと急激に回り始めた酔いのなかでおれは考えた。

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