決闘
目が覚めたときにはまだ夜にはなりきっていなかった。おれは上体を起こしてあたりを見回し、ここがどこなのか、しばらく考えてから思いだした。やれやれずいぶんと眠ってしまったようだ。早く帰ろうと尻をあげたとき、ふと足のところでなにかの気配がした。もっさりとした塊がもぞもぞと動いた。なんだろうと目をこらすと猫である。目を覚ましたばかりらしく、おれと同じようにあたりをきょろきょろしている。そしておれに気づいてぎょっとしたらしく体を硬直させた。それを見たおれもぎょっとした。黒トラだったからである。
なんでここに黒トラがいるのだ。おれの跡をつけてきたのだろうか。ここへは私鉄や地下鉄を乗り継いで来ているのだ。猫には無理だ。偶然この草ぼうぼうの空き地に来合わせるのも不自然である。猫が歩いてここまで来るには二三日はかかるのではないか。
ちょっと間をおいておれは考えてみる。いちばん理にかなった結論は同じ柄のちがう猫ということだ。こういう柄の猫は希少なのか知らない。街中の猫をあらためて観察したこともないからわからないが、そっくりな猫がいてもおかしくはない。猫から見たら人間の顔だってそんなに違いはないだろう。それと同じだ。
足下の猫はじっと目を細めておれの顔を見ている。表情というのも猫には変だが、不審な顔をしておれを観察している。その目がやがてまん丸くなった。おれが誰だか認識したようで、なーんだという顔をしてあらためて周囲を見まわし、この草原はなんだっけと鼻をあげてまた目を細め、においを嗅いでウンウンとうなずく。なにかを思い出して合点が行ったみたいだ。
その猫のようすを見てやはり黒トラだとおれは確信した。仕草や目の動き、おれを見る目つきなど、まさに黒トラのそれである。
黒トラはおれのほうに歩み寄り、「よお」という感じで顔を上げた。おれも見知った者同士の気軽さで、手こそ差し出さなかったが「うん」とうなづいた。しかし目が合った刹那、おれも黒トラもはっとして気づいたのだった。
「!」
「!」
おれたちはわすれていた因縁を突きつけられた。因果が巡っていまここに至ったのだ。あらためて見直すまでもなく周囲の環境や状況は決闘には絶好の場だった。あの猫占師のビル跡というのも運命を感じさせる。ここなら邪魔も入らない。思う存分たたかえる。
おれの全身の皮膚がそれを感じ取り、この暑いのにぶるっと身を震わせて緊張する。黒トラも状況をいっきょに体感しているようだ。怒気を体躯にみなぎらせて前肢は宙空で静止し、じっとおれを見上げた。
ネズミの一件以来おれたちはいつかはこうなる運命だったのだ。いささか遅きに失した感はあるが闘うのはいまだとおれは覚悟した。
黒トラも同じ思いらしい。目はすわり、おれの足許をじっとにらんでいる。前脚をたたみ、後脚の力をぬいて攻撃の態勢をととのえ、呼吸をはかっているようだ。猫は辛抱強い動物だから一撃必殺の好機をひたすら待つ気だろう。そうはさせるものか。長引けばおれのほうに油断が生じるのは避けられない。陽が沈んだとはいえ、この暑さだ。黒トラは低いところで草原をわたる風に吹かれているからいいが、おれのほうは蒸された熱気に集中力がやがて奪われる。早いほうがよい。先手必勝とおれはわざと視線をはずし、あらぬほうに目をやったまま黒トラに突進した。黒トラはおれの奇襲にびっくりしたらしく前脚を伸ばして体勢を変え、逃げを打った。
『しめた』
おれはおおいかぶさるように黒トラに迫った。しかしこのときおれはどう攻撃したものだろうと躊躇した。パンチかキックかボディプレスか。おれの逡巡を黒トラが見のがすはずはなかった。逃げの体勢から一転、前脚を踏んばって身を躍らせ、爪を出した右前足のパンチがおれの目を襲う。とっさによけたものの黒トラの爪はまともにおれの目を狙ってきた。黒トラは音もなく着地し、首だけでふりかっておれのようすをうかがっている。
爪は空を切ったはずだが頬に流れるものがあった。汗だと思って手でぬぐうと血である。猫の爪や恐るべし。黒トラはおれの挙動を観察しながらこちらにむき直り、ふたたび攻撃態勢に入った。前脚に体重を移動し、やわらかな構えでおれを見すえる。ひと呼吸おいて、やにわに口を大きくあけた。
「フウーッ!」
甲高く唸っておれを威嚇する。猫のくせに小癪なと思った瞬間、トントンと黒トラの前肢が弾むや、おれの顔はパッとなにものかに覆われたらしく視界が真っ暗になった。それが毛の塊であり、黒トラであると知るやおれはパニックになった。
「わぁ!」
その昔、かのドン・キホーテはいたずら好きの公爵夫妻にからかわれ、鈴をつけた猫の大群に襲われた。リラをつま弾きながら朗々と唱っていたところを、いきなり鈴の大音響とともにどっと猫が大挙して窓から押し入ってきた。さては幻術師の仕業とドン・キホーテは剣をふり回し、猫どもを追い払ったが室内に残った猫が反撃に出た。ドン・キホーテの長い顔に取りついて爪と牙とをむちゃくちゃにくらわせた。あげく鼻に噛みついて引き剥がそうにも離れない。あわれドン・キホーテは、やっと公爵に助けてもらったが、ひどい傷を負って包帯でぐるぐる巻きにされ、その後何日も寝こむことになった。
そのドン・キホーテの災難のありさまが痛みや恐怖を伴って脳裡にまざまざと浮かんだ。あまりに無残な窮地に直面し耐えきれずおれはへなへなと膝から草地に崩れ落ち、うつ伏せに前へ倒れた。気を失いかけて顔が地面と激突すると猫が叫ぶ声が聞こえた。はっとして我にかえると顔に張り付いた黒トラは、おれと地面の間のクッションとなっていた。おれの顔は小さな足に蹴飛ばされてはねあがり、そのすきに毛のクッション、すなわち黒トラは走り逃れた。猫のベアハッグから解放された顔を両手でなでてみるが外傷はなさそうだった。黒トラが取りつく位置が高すぎたのだ。もう少し低ければおれの鼻もドン・キホーテと同じ運命をたどったはずである。
黒トラはと見ると、すぐそこで丸くなって左の後脚をしきりに舐めている。落ちたときにぶつけでもしたのだろう。おれはここで一気にケリをつけるべく、黒トラめがけて猛然とダッシュした。しかしどう攻撃したらいいのかやはりわからないので、おれの足は黒トラの手前でストップする。決闘中とはいえおれはどう闘えばいいのか。あの占い師が言ったように素手で猫と対峙しているものの攻撃の仕方がわからない。本気の猫を相手に丸腰では対処のしようがない。たとえ相手が一匹だとしてもやがてドン・キホーテの二の舞になる。こういう場合の最善策は決まっている。
『逃げよう』とおれは思った。
すでに黒トラはおれの気配に飛び退いて草むらのなかへ姿を消した。遠くへは行っていないだろう。飛びかかる距離をはかっているはずだ。うかつには動けない。おれはじっと辺りをうかがう。
草の丈はおれの膝くらいまでだが猫の姿はすっぽりと隠れてしまう。少しでも動けば草がざわつくはずだが、猫の繊細な動作は草の一本一本を精確によけるにちがいない。どのみちビル街から吹きおろす風が猫の気配を消し去ってしまう。夜は草むらにだけひたひたと浸透しているが四方にそびえるビル群から煌々と灯りがあふれ、降り注ぐ光と闇のコントラストに目が眩む。
『いかん。こんなことでは殺られる』
おれは目を激しくこすった。おれはこの草ぼうぼうの空き地から生きて出られるだろうか。少しでも油断すれば黒トラの爪と牙がおれを翻弄するにちがいない。そんな弱気を感じ取ったか黒トラは草の間からぬうとおれの目の前に姿を現した。
黒トラはのろりと顔をあげ、途方に暮れている人間のようすを楽しむように、脚を舐めながら上目づかいにおれを見ている。なんという屈辱だ。なさけないことにおれの足は動こうともしない。動けない。蛇に睨まれたカエルよろしく呆然と立ち盡くしている。おれはすっかり打ちのめされた。
『おのれ、こしゃくな。目にもの見せてくれる』
と足を踏ん張ってみたものの、萎縮した心は逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。しかし迂闊には動けない。黒トラは毛繕いする仕草のまま目だけはおれを注視している。対峙する緊張が高まり汗が滲み出てくる。こんな状況でいちばんマズいのは敵に後ろを見せることである。では前に出てはどうだろう。おれはそう考えて重い足を引きずるように上げてみる。その足が地面に下ろされるより一瞬早く、黒トラはゆっくりと体勢を整え、速やかに攻撃のポーズをとった。しなやかな、ほとんど優雅でさえあるその脚の配りにおれは圧倒された。
『どだい無理な話だ』
猫とはいえ常に実戦にさらされて鍛えられている者を相手に、個体としての戦いなどまず経験することがない人間が、対等に戦うことなど不可能である。せめて武器を持つくらいのハンディをもらわないことには勝負にならない。この状況では体格差は有利どころか的が大きいだけ、かえって不利だ。
そんなことを考えているうちにも刻一刻と時は移り、闇が濃くなっていく。街の灯りは空をぼうーっと照らすばかりで、おれたちのところまでは降りてこない。かえっていっそう草原の闇を浮き立たせるばかりだ。黒トラの黒い部分がもう闇に溶けこむまでになっている。じりじりと闇に同化していくその姿をとらえ続けるのはもう無理だ。うっすらと猫の影が落ちているその場所にはもう黒トラはいないのではないか。そんな錯覚がおれをとらえた。
『まさか』
目を凝らしてよく見ると確かにそれは残像にすぎなくて、そこに黒トラはもういなかった。間近な所に身をひそめているにはちがいない。安全な場所でじっくりとおれに狙いをさだめ、瞬時に決着をつけようとしているのだ。
『どこへ消えた。どこにいる。どこだ』
一陣の風に草がざわめく。猫の気配が草の原ぜんたいに横溢している。背筋にひと筋、戦慄が走る。汗がどっと吹きでて血の気がひいていく。金縛りにあったみたいに手足が動かない。息が苦しくなって喉がひどく渇く。ここに至っておれは死を覚悟した。もう、この草原から生きては出られないだろう。妻にももう会えない。ほんの短い間だったが平穏な暮らしをおくることができて穏やかな気持だ。あわよくばあと数年、この暮らしを生きてみたかった。残念だ。しかし、しかたがない。これがおれの運命なのだろう。おれはその場にすわりこむ。腰がぬけたのだ。
そのとき背後でなにかが動いた。いよいよか。ここでおれがふりかえれば黒トラはまちがいなく飛びかかってくるだろう。身動きしないでじっとしていても、黒トラはじりじりとにじり寄ってくるだけだ。間近に忍び寄って確実に最初の一撃で喉笛をやぶろうとするだろう。おれが逃れられるとすれば、黒トラが下手を打つのを期待するしかない。いきなりこちらでアクションを起こせば黒トラも混乱するだろう。おれはこれに賭けた。おれは手を振り回しながら上体だけですばやくふりかえった。
その瞬間おれの前方で風を切る音がした。
『しまった』
一瞬の隙をついて黒トラはおれの正面に回ったのだ。はっと思って上体を戻すと真っ黒い塊が、猫の大きさの塊がおれのほうへ跳んできた。身をよじってかわそうとしたが遅かった。その塊は一直線におれへ向かってきた。おれは自分の運命を悟り、スローモーションになった思考がゆっくりと黒トラの一撃を見守っていた。衝撃の後におれはもう気がつくことはないだろう。暗がりのなかでもはっきり識別される黒い大きな砲弾がおれに命中するのだ。喉に喰らい付かれたおれは呼吸が止まり、猫との決闘に敗れた哀れな中年男がこの草原で生涯を閉じる。炎天下の空き地で腐臭を空へ上昇させ、肉をミミズやバクテリアに提供する。秋になっても発見されなければ冬に白骨をさらし、身元不明の変死体として処理される。そんな末路のありさまがおれの頭を駆けた。
おれはまちがいなくそうなる運命だった。しかし黒トラは最初の襲撃の着地で左の後脚を痛めていた。そのため微妙な感覚のズレがあったにちがいない。一撃で喉をやぶるはずがジャンプする力の加減が狂ったのだろう、おれの顔にまともに激突したのである。より正確に言うとおれの額にあの狭い猫の額を鈍く重い音とともに思いきりぶつけたのだ。
『ぐわ』
おれのほうのダメージも大きく、まず火花が目の前を明るくにぎわせ、次いで意識が遠くへとしりぞいていった。これが見納めかもと懸命に目を凝らすと、ぼんやりとネオンの光を反映する夜空に、小さな放物線を描いてゆっくりと飛ぶ黒い塊が見えた。それはおれの額にガッチンコした黒トラの姿だった。
幸いなことにおれの目はもういちど覚めた。頭が局部的にずきずきしている。黒トラに一撃見舞われたせいだ。おれは片目をあけてまわりのようすをうかがった。すっかり夜が更けて空はぼんやり明るかったが、あたりには漆黒の闇がただよっていた。体を起こすべきだろうか。起こそうと思えばそれぐらいはできそうだった。しかし危険はないか。黒トラはどうした。気配はないような気がするが意識がしだいに常人のそれに戻り始めると腹がやけに重い。
こんなにおれの腹は重かったのだろうか。なにかが乗っていやしないか。石ではないようだ。大きさはちょうど漬け物石ほどのようなのだが。何だろう。ふかふかしている。動いているような感じもするが。これは毛ではあるまいか。毛の塊がおれの腹に乗っかっている。黒トラだ。
「うわああ!」
空をひとすじの声にならない叫びが突っ走っていった。自分のその叫び声に取り残されたおれはあらためて体を硬直させて懸命に震えを抑えていた。
「ぐおおおお。ぐおお」
なんだろう。
「ぐううぐ。ふにゃ」
いびきのようだ。いびきが聞こえているのだ。もちろんおれのいびきではない。おれの腹のあたりでしている。まちがいない。発生源は黒トラである。黒トラめ、脳しんとうでも起こして昏睡状態にでもなったか。おれは用心してそっと上体を起こし、真っ暗闇に目を凝らす。やがて目が闇に慣れてきた。黒トラがおれの腹の上でだらりと横だおしに寝ている。
「ふぬぬぬぬ。ぐあお」
黒トラは口を開けて鼻をひくつかせては胸部を上下させて大きないびきをかいている。爆睡である。試しに腹をゆすってみたが黒トラは起きない。やはり昏睡状態なんだろう。それならこのままうっちゃっておけばそれで終わりだ。こんな状態でならおれがそっと逃げても気がつかないだろう。しかし、おれはそうしないとわかっていた。放置したにせよ地下鉄の改札あたりで後悔して戻ってくるに決まっているのだ。そんなめんどうはよそう。
「ぐふううう」
おれは黒トラの背のあたりを指でそっと押してみた。べつだん反応はない。おれは安心して黒トラの首の後ろをつまんでひょいと持ちあげた。案外軽いもんだ。そのまま運ぼうかとも思ったが窒息でもすると化けて出そうなのでやめる。いまいましいが抱きかかえて草原を出る。
鉄パイプの柵を黒トラを抱えてくぐり抜けたようとしたときだった。
「あなた!」
薄暗がりでもわかった。妻である。
『え』
どうして妻がここにいるのだ。そう思った瞬間、黒トラがなぜここに来れたのかわかった。妻が連れてきたのだ。実際、妻の足下には先日買ったばかりの真っ赤なキャリーケースが置かれている。助かったとばかりおれは黒トラをケースに放り込む。
「ペットの美容も始めましたって案内があったの」
妻は道すがらここに来た経緯を話す。発端は妻の行きつけの美容院からのメールである。
「あなたが出かけてからメールに気づいて。クロちゃんもやってもらえるならいいなと思って」
その美容院はこの近くだから、おれと待ち合わせてもいいと思ったそうである。おれのスマホはバッグの奥底で電池切れのまま眠っている。だから妻からのメールもラインも見ていない。
「終わって帰ろうとして、あの草原に差し掛かったらクロちゃんが暴れだしたの」
妻はおしっこかと思って扉に手をかけたところをすごい力でどすんと押されてロックが外れた。黒トラは脱兎のごとく飛び出して草むらへ駈けた。呼んでも反応がない。用を足したら戻ってくるだろうと妻は楽観的に構えて待つことにしたという。以前の妻なら考えられない悠長さである。
「探しに入ろうと思ったけど何だか足が竦んじゃって」
「ぐおおおお。わひゃぬうう」
キャリーケースのなかで丸くなった黒トラはやはり大いびきである。妻が不安そうに訊く。
「だいじょうぶかしらクロちゃん。何かあったの? それに、あなたどうしてここに」
おれは派遣会社のことや猫の喫茶店のことなどを話した。黒トラについてはどこかで頭でもぶつけたんだろうと言葉を濁し、決闘のことは口にしなかった。
地下鉄の車内でも黒トラの大いびきはやまず、衆目を集めることとなった。おれも妻も知らん顔して足下のキャリーを見つめていた。




