静謐再起
その後、何日かするとおれの頭も少しづつまともな働きをするようになって妻のようすが変だと確信するにいたった。とげとげしさが影をひそめ、かいがいしい働きぶりなのがおかしい。けなげな態度も断然おかしい。あるときなどおれの手にすがりつき、真剣な面持ちでこんなことを言った。
「再出発だわ。いっしょに助けあっていきましょう」
おれは思わずフライパンのありかを目でさがしたものだった。
しかし実際に猫と妻とおれとで暮らしはじめてみると、これまでになく居心地がいい。猫も妻も、たとえどういう意図があるにせよ、おれのことをいつも気にしてくれている。他者の思いのなかにおれがいると思うと適度な緊張を強いられ、気持に張りがでて安心感も得られた。
黒トラについてはたしかに獣に狙われているのは不気味ではあるが、相手が虎や豹ならいざ知らず猫である。油断はならないが恐れるにはあたらない。スリルを楽しめばよいのだ。
妻もおれも朝は早く起きた。なにをするということもないのだが、なにやかやすることはある。そうじせんたくに始まって、化粧箱の留め具の修理、抽出や押入の整理、本棚を見るとまだ読んでない本も目につく。そんなこんなで陽が高くなっても、おれたちは部屋の中にたれこめてすごす。出かけるのは黒トラだけである。
軽く昼食をすませるとおれたちは窓を明けはなって昼寝をする。妻は床に敷いた花ござに横になり、おれはハンモックに登る。このハンモックは以前ネット販売で手に入れたもので、一度も使うことなく押入におしこんであったものだ。壁に穴をあけてフックを固定し吊ってみた。ちょっと危なっかしいが慣れればバランスも自然ととれる。ときたま黒トラがおもしろがって、いっしょにハンモックにあがってきて寝る。最初のうちはつまみあげて放り出していたが、いちいちめんどうなので好きにさせるようになった。
遠くでセミが鳴き、子どもたちが騒ぐ声がまどろみの彼方で聞こえる。時間がゆっくりとおれたちの部屋を横切っていくのがぼんやりと見える。おぼろな世界におれたちは住みはじめたようだ。
陽が西にかたむくとおれと妻は買い物に行く。なにが食べたいかと妻はおれに聞き、ではあちらのスーパーへ、それならちょっと遠いけど隣町の商店街へと、買うものによって店を変える。こんなところも妻は以前とは別人である。おれは黙って妻にしたがい、妻は買い物袋を捧げ持つおれの腕にそっと手をからませてくる。やはりまったくの別人である。でも姿かたちは、まちがいなく妻である。
変貌の原因はフライパンしかおれには思い浮かばない。しかし、性格というものはかくも当てにならないものなのだろうか。あんなフライパンの一撃でこうも変わってしまうとは。それとも、おれが旅の空にあるとき妻の身に別のなにかが起きたのかもしれない。原因が何にせよ、おれはいまの毎日に満足している。妻も同じだろう。妻の顔にはこれまで見たことのない満ち足りた笑みが浮かんでいる。
生活費はローンを引いた家賃収入と失業保険がすべてである。おれの退職金と合わせれば暮らせないことはないが、早く職に就くに越したことはない。失業給付はやがて打ち切られる。この平和な生活を維持するには仕事が不可欠だ。おれはハローワークに出頭する日に、いつぞや登録したきりの派遣会社に行ってみることにした。
ツクツクボウシが鳴きだしたころ、おれは妻に見送られて駅へむかった。通勤のラッシュにはまだ間があり、冷房の効いた車内に乗客はまばらである。シートに座ってやっといま自分が独りではないと感じた。見なれた車窓風景も精彩をとりもどし、おれは解放感をかみしめる。
ハローワークが開くまでコーヒーショップで時間をつぶすことにした。コーヒーの香りとともに朝のあわただしい空気が店内にみなぎっている。張りつめた空気に触発されたのか、おれの体のリズムが小気味よく高まってくる。つま先でトントントンと床をたたいたほどである。隣のテーブルの若い男がびっくりしておれの足下を見た。おれはなんでもないというふうに手をひらひらと振った。男はうさんくさそうにすぐ視線をそらし、広げた資料とノートパソコンのほうへ向き直った。
おれはあらためて店内を見回す。ホットドッグやサンドイッチをほおばりながら朝刊に目を落とすサラリーマンたち、待ち合わせのために人を待つ男や女たち、大きなリュックを足下に置いてノートを広げる学生たち、打ち合わせに熱が入るちょっとコワモテの一団、散歩の仕上げに寄った老夫婦、なんでもない人たちの朝の一幕がここにあり、端役の一人がおれだ。中年の失業者などありふれていておもしろくもないが、どっこいおれは新しい世界への意欲に満ちている。生きるのだ。
そろそろ行こうかと立ちあがると、それを合図にしたように客の何人かが立ちあがった。同じようにトレイを棚にかえし、陽の下へ出るとみな同じ方向へ足をむけた。待ち時間をつぶしていたおれと同じ失業者たちである。
すでにハローワークの窓口はごったがえし、手続きを済ませるまでには何時間もかかりそうだった。じっさい型どおりの短い面接を終えたのは正午に近かった。かるく食事を済ませ、地下鉄を乗り継いで地上へ出ると、陽はさらに高く、おそいかかる熱気に思わず足がすくむ。
大通りの日陰をたどり、いつぞやの猫の手ビルをめざす。その細長いビルにたどりついたとき、おれはあっと息をのんだ。猫の大きな顔が歩道をにらみつけていたのだ。ここを以前訪れたとき猫の顔を作っていると聞かされたが、それが完成したらしい。明るいところで見ると異様である。リアリティレベルが物凄く、ほんものを凌駕している。
汗を拭って見上げるとビルの窓ガラスに乱反射する陽光がおれの目を眩ませ、ネズミになって天井裏で猫に追っかけられた夢がフラッシュバックする。
「ひ」
おれはつま先立ちになった。視線は猫に釘付けだったが、そのバカでかいスケールが現実感を減衰させてくれたおかげで正気を保つことができた。おれは視線を引っ剥がして涼しい社屋へ入った。ほっとひと息ついてエレベーターに乗る。受付を済ませてミーティングルームに通される。応対に出てきたのは以前の担当者ではなかった。よその部署に移ったそうでこのビルにはいないという。おれは前回の面接時に猫の手が話題になったことを話した。
「ご覧になってどうですか猫の顔は。すごいでしょ」
「ええ。リアルを遙かに超えていますね」
「瞳が細いのに気がつかれましたか。夜になって暗くなると大きくなるんですよ」
「ほお。凝ってますね」
「評判がいいんです。お客さまも増えました」
「招き猫ってわけですか」
本題に入ると担当者はおれの登録カードを見ながら、中高年には厳しい時勢なので何カ所かほかにも登録しておいたほうがいいと以前とまったく同じ忠告をしてくれる。
「なにかありませんかね。どんな仕事でもかまいません。なんでもやります」
「なんでもやるというのは若い人や外国人の特権です。ご自身の年齢にふさわしいお仕事を考えてください」
「やっぱり私のような者にできる仕事はなかなかないんでしょうか」
「気長にお待ちください」と、これまた以前と同じことを言う。
「はあ、とにかくお願いします」と、おれもしかたなく同じ返事をする。
気持が沈む。思いどおりに仕事に就ける時代ではないのだ。むしろホームレスの生活のほうにおれは近いとあらためて実感する。コネなり口コミなりを駆使しないことには人間らしい生活はのぞめないということだ。しかしおれにはそのどちらもない。いまはいいとして何年か先はどうなるか。暗澹たる思いでおれは猫ビルを出た。
大通りを逃れて裏通りへ足を踏み入れる。ちょっと休んでいこうと目を走らせるが、あの『自家焙煎コーヒー』の文字が見つからない。昼間は雑多な看板や標識が目に入るぶん、以前歩いた夜の記憶が当てにならなくなっていた。たっぷり汗をかいてようやく見つけたその店は自家焙煎とは大書してあるものの店の名前が『フー』となっている。たしか『フェリス』とかいう名前ではなかったか。
『おかしいな。いや、たしかにここだ』
おれは数歩下がって店がまえを確認する。見覚えのあるつくりだがドアの上の猫の絵はサバトラに変わっている。前はブチ猫だったはずだと思いながら、おれは何故そんなことまで覚えているのだと我ながら訝る。気を取り直して店内に入る。入ってすぐ記憶がよみがえった。
『やっぱりここだ』
涼しい店内にほっとしておれは汗をぬぐう。店名や一部の装飾を変えたようだ。
「いらっしゃいませ」
カウンターで声をかけてきた人物は以前とは違う。あの数字配列のブレンドメニューも姿を消している。おれはメモ用紙のようなメニューを見てブラジルベースのブレンドを注文する。注文のついでに水を向けてみる。
「お店、変わりましたね」
「ええ。改装したんです」
それだけ言うと水を置いてくるりと背を向けた。オーナーが替わったのかもしれない。前回と同じようにサイフォンがぶくぶくと音をたててコーヒーが抽出される。煎れている人物がちがうだけだ。奥のほうのカウンターの上には大きな猫の置物が丸くなってうずくまっている。サバトラ柄である。じっと見ていたら動いた。よく見るとほんものの猫だった。
その猫はちょっと薄目をあけて辺りのようすをうかがい、異常のないことを確認するやまた目を閉じてしまった。
目の前のガラス戸棚にはまだライトブルーのタバコのパッケージがある。そのマリンブルーの羽ばたく海猫のタバコ『SAGA』の文字を見るとおれはがまんできなくなった。アパートでは禁煙していたのだ。
「すいません。そこのタバコを」
おれはマッチをもらい、ゆっくりと煙を吸う。なつかしさが再びこみあげてくる。くゆらす煙がたゆたうのを猫がぼんやりと見ていた。
何本めかのタバコをくわえたまま店を出る。前回は売り物ではないと言っていたが今回はちゃんと勘定書にタバコ代も記載されていた。
街は陽が傾いて色調を赤みのほうへ変化している。ここまで来たのなら、やはりあの『キャッツアイ』という占いの館へも行ってみようとおれは考えた。たしかこの道を駅へ帰る途中でみつけたはずだ。
サイケデリックなビルだったからすぐにわかると思っていたのだが、なかなか見つからない。おかしいなと汗を拭き拭き何回か路地を行ったり来たりした。もう一本大通りに近い路地だったかもしれないと行ってみたが、ない。おかしい。おれは先ほどの喫茶店『フー』の近くまで戻って、もういちどゆっくりと左右を見ながら歩き直した。
すると、この辺りにちがいないと立ち止まって見た先に、ぽっかりと空き地がある。ちょうどビルひとつぶんくらいの広さだ。ここなのだろうとおれは思った。あれほど人目をひく建物がみつからないはずはないのだ。ビル自体がなくなっていたのなら納得がいく。おれはそうするのが当たり前のように鉄パイプで組んだ柵をくぐり、雑草が生い茂る敷地内へ入ってみた。
伸びほうだいの草をかきわけて奥へと進む。ちょうど真ん中あたりまで来たところでおれは足を止めた。
尻をおろす。冷んやりとした感触におどろく。丈高い雑草のせいで地面まで陽が入らず、土が冷気を保ち続けているのだ。そのままあおむけに寝てみる。気持がいい。草の間には風が流れていた。風はおれの体を撫でるように通りすぎていく。空のずっと高みへと街の喧噪がゆらゆらとたち昇っている。それはしだいに遠く耳から離れ、それにつれて意識もはるかな宙を浮遊しはじめ、そのままおれは眠ってしまった。




