幕間 その1 「掃除屋さんの朝は早い」
掃除屋さんの異様なまでの身体能力、そして掃除やその他の熟練した技術は、彼の長い旅路の中で培われてきたものです。昨日よりもより良い掃除を、そして今日という日をより良き日にするために、彼は旅を続けていました。
身長は150cmにも満たない小柄な体つきですが、その体に内包するものは計り知れません。彼の掃除に対するひたむきな態度、そして信念。彼が掲げる掃除とは、なにもただきれいにすることだけではないのです。
目に見える汚れはもちろんのこと、見えない空気の汚れや淀み、人々の軋轢、居心地の悪さ、悪意、恣意などなど。それら全てをまるっと掃除することこそ彼の生きがいであり、そして掃除屋さんとしての誉れでした。
掃除屋さんが親しみやすい雰囲気を纏っているのも、いつもマイペースでいるのも、ひいては世のため掃除のため。人の波に揉まれ続けながらも、その日々を彼はのんびりまったりと過ごしてきたのです。
……あ、顔立ちは生まれつきですよ?
***
赤の国を出発してから少し経ったある日のこと。掃除屋さんはとある山の頂で野宿をしていました。組み立て式のテントを張り、簡単な調理場を作って一夜を過ごしたようです。
旅の身である故に、掃除屋さんは荷物を最低限しか持ち合わせていません。だからこそ、資材や食料などはいつも現地調達をしていました。
そして掃除屋さんは、用意しておいたテントの中で熟睡しており、可愛らしい鼻ちょうちんを膨らませて、むにゃむにゃと寝入っているようです。このテントは熱気や冷気を遮断し、使用者に一時的な寝床を提供してくれる優れものであり、その上折りたためば手のひらサイズまで縮めることが出来るという、旅には最適の代物でした。
もちろんこのテントも掃除屋さんが自作した……と言いたいところですが、こればかりは違います。このテントは、かつて訪れた国で仲良くなった技術者から頂いたもので、彼のお気に入りの道具の一つでした。
と、その時。突然、パァンと何かの破裂する音がテント内に響きました。一体何の音なのでしょうか?
「……朝か……ふあぁ」
目をこすりながら、のそのそと掃除屋さんが起き上がりました。どうやら、さっきの破裂音は彼の鼻ちょうちんの破裂した音だったようですね。
そしてテントから出た後、掃除屋さんは軽く体操を始めました。体を伸ばしたりほぐしたりして、体中の血行の流れを良くし、眠気を吹っ飛ばしているようです。一日の計は朝にあり。体を万全の状態にしなければ、良い掃除など出来ません。
体操を終えた後、掃除屋さんはテキパキとテントの片づけを行いました。そして周囲の掃除をひとしきり行った後、少ない荷物をまとめ、出発する準備を整えたようです。まだまだ日の出が見え始めたばかりだというのに、彼はかなりの早起きさんなんですね。
荷物を纏め終えた後、近くを流れる川の水を汲んできて、掃除屋さんは体を洗い始めました。掃除を本業としているのですから、やはり身だしなみには気を付けなくてはなりません。掃除屋さんは清潔感が売りなのです。
彼は今ほとんど裸に近い状態ですが、ここは自然豊かな山の頂。そんな環境ですので、人の目を気にする必要はありません。彼は近くにあった切り株に腰を下ろし、タオルで体を拭き始めました。
ふんふふーんと陽気に鼻歌を歌いながら、しっかりと丁寧に体を拭いております。朝の心地よい風が頬を撫でるように通り過ぎていき、彼は自然の恵みをその身で感じていました。辺りには小鳥のさえずりが響き渡り、まさに穏やかな日和。今日はなんだかいいことが起こりそうだと、なんとなく感じているようです。
……さて、唐突ですがここで問題です。なぜ人気のないような山の頂に、丁度腰の高さほどの切り株があったのでしょうか。
答えは至って簡単。ただ単純に、ここは人の来る場所だったのです。
そしてなんともタイミングのいいことに、そこに一人の老婆がやってきてしまいました。ほぼ裸の掃除屋さんと、突然やってきた老婆。その二人が、景色の美しい山の頂でばったり出会ってしまったのです。ラブコメだったら恋愛に発展しそうな状況ですね。
穏やかな朝日が、二人を優しく照らしていき、見る見るうちに顔が赤くなっていっています。 ……もちろん、掃除屋さんの方が。
「キャァァーーーー!!!」
彼の可愛らしい悲鳴が、小鳥のさえずりと共に山へと木霊しましたとさ。
*
「あっはっはっ! そうかい掃除屋か! そいつはなんとも面白そうなことをしてんだねぇ」
場所は変わり、掃除屋さんはおばあちゃんの家に招かれておりました。彼女の家は山の中腹辺りに建っており、二階建てのそこそこ広い家でしたが、今は彼女一人で住んでいるようです。
「にしても驚いたよ。わたしゃ日課で日の出を見てんだけど、まさか先客がいるたあね。しかもそれがほぼ裸だってんだから、初めは自分の目を疑っちまったよ」
「いやあ、まさか人が来るだなんて思いもしませんでしたから」
掃除屋さんはおばあちゃんとテーブルをはさみ、談笑を交えつつ朝食をとっていました。おばあちゃんお手製のパンを頬張り、ご満悦のご様子。良い食べっぷりですね。
「まあ、私も人を見るのなんて数年ぶりだからねぇ。旦那が病気で死んじまってから、もうすっかり、人とは縁がなかったんだよ」
「旦那さんが……。おばあちゃんは寂しくないんですか?」
「はっ、もう何十年と生きてんだ。今更寂しいもくそもないさね」
掃除屋さんが座っていた切り株は、生前旦那さんが切り倒したものなんだそうな。旦那さんが存命であったころから夫婦で日の出を見るのが日課となっており、旦那さんが亡くなってからも一人、おばあちゃんはその切り株に座って毎日日の出を眺めているのだとか。
「ま、これも何かの縁。お前さんさえよければ、この老いぼれの話し相手になっておくれよ」
「ええ、俺もおばあちゃんの話が聞きたいですしね」
「そうかいそうかい。 なら、ゆっくりしてきな」
掃除屋さんのいつもの一人称は俺だという、衝撃的な事実が発覚してしまいました。 ……意外!
「ところで、おばあちゃんはどこの国の出身なんですか?」
「んあ? ああ、わたしゃ黒の国の出身だよ、知ってるかい? で、旦那ともども戦乱から逃れるために、この山へと逃げてきたのさ」
「戦乱?」
「そう。もう長いこと続いてっからね……。今じゃどの国も、ピリピリしてて敵わねえさ」
「……それで、おばあちゃんはここに?」
「ああそうさ。ここはいい場所だよ。自然は豊かだし、空気が良い。そしてなにより、人がいない。あんな泥臭い存在なんてのは、人間くらいのもんさ」
「おばあちゃん……」
「っと、ついつい辛気臭い話になっちまったね。いけないいけない、老いちまうとどうも昔話をしたくなっちまう。……そういえば、あんたは旅する掃除屋だってんだろ? なら、今までの旅の面白い話とかを聞かせておくれよ」
「……ええ、いいですよ。ふっふっふ、とびきりのお話をして差し上げますよ!」
そして掃除屋さんとおばあちゃんはしばらく談笑を続けました。彼のこれまでの体験や経験、行った先々の国などを聞いているときのおばあちゃんは、どこか穏やかな表情を浮かべており、まるで息子や孫と話をしているかのように、それはとても優しい眼差しでした。
*
「……おや? もう昼頃か。時間が経つのは早いねえ。わたしはちょっと出かけてくるから、留守番頼めるかい?」
「え? いいですけど……逆にいいんですか?」
「ああ、わたしゃ人を見る目だけはあるんだ。お前さんが悪い奴じゃないってのは、一目見ただけでわかるさ」
「おばあちゃん……」
「というか裸を見られて悲鳴をあげるような若造に、悪事なんできっこないさね」
「ぶり返さないで!」
「あっはっはっ! ま、そういうことで、ちょっと出かけてくるよ」
「は~い、いってらっしゃい」
そう言って、おばあちゃんは出かけていきました。ぽつんと一人残された掃除屋さんは、することもないので掃除を始めました。朝食のお礼も兼ねて、気合を入れています。
あっちでふきふきこっちでふきふき。 頑固な汚れは愛用のデッキブラシで落としていき、気づいたころには家中の隅々まできれいになっていました。
そして最後に残ったのは、家の奥にある物置です。入っていいものかと少し迷いましたが、どうせなら全部やってしまおうと、彼は物置の掃除も始めました。
他の場所とは違い、いろんなものが散在しているので、掃除屋さんは慎重に掃除をしていきました。詰まっている埃を雑巾でふき取り、散らばっているものを整理し、壁や床の染みを取り除き……ありとあらゆることをしているうちに、すっかり物置はきれいになっていました。彼も満足のいく掃除が出来たようで、少し誇らしげにしています。
そんな折、ふと一つのロケットペンダントが掃除屋さんの目に映りました。それを手にとって蓋を開けてみると、そこには写真が埋め込まれており、その写真には子供と大人の男女が写っているようです。両親と、その息子さんでしょうか。
掃除屋さんがそれをまじまじと眺めていると、不意に後ろから声がかけられました。
「まったく、帰ってきたら家の中が何故かきれいになってたから、もしやと思ったけど……。 あれ全部、あんたがやったのかい?」
「ええ、暇でしたから」
「そうかい。掃除屋というだけあって、やっぱり腕がいいんだね。……良さすぎる気もするけど。ん? それは……」
おばあちゃんは、掃除屋さんが手に持つペンダントを見て顔をしかめました。このペンダントに、なにか嫌な思い出でもあるのでしょうか。
「これ……おばあちゃんですか?」
「……そうだよ。とっくの昔に失くしたと思っていたけれど、そんなところにあったとはね」
「じゃあ、この人達は……」
「旦那とバカ息子さ。……まったく、嫌なことを思い出しちまったよ」
「嫌なこと?」
「……昔の話さ。それよりもどうだい、そろそろ昼飯にしようじゃないか」
おばあちゃんはぐらかすように話を切り上げ、リビングへと戻っていきました。掃除屋さんは不思議に思いつつも、人の過去にとやかく首を突っ込んでしまうのもよくないと思い、ペンダントをもとの場所へと戻し、彼女の後を追うようにリビングへと向かいました。
*
そして昼食を終え、おばあちゃんとまたひとしきり話し込んだ後、掃除屋さんは立ち上がりました。もうそろそろ、この家をお暇するようです。
「……もう、行くのかい?」
「ええ、お話しできて楽しかったですよ」
「そりゃこっちのセリフさね。……わたしゃ人嫌いだけど、あんたは嫌いになれなかったよ」
「あはは、掃除屋ですからね」
そして扉に手をかけ、家を出て行こうとする掃除屋さんを、おばあちゃんは無意識のうちに呼び止めていました。彼女には何か、心残りがあるのでしょうか。
「どうしました?」
「ああ、いや……。そう、あんたに頼みたいことがあってな」
「頼み事? なんでもお受けしますよ!」
掃除屋さんのその言葉を聞き、おばあちゃんは少しその場を離れた後、何かを持って戻ってきました。……それは、先ほどのロケットペンダントのようです。
「このペンダント……あんたに預けるよ。いつか黒の国に行ったとき、その写真のバカ息子に渡してくれないか」
「……承りました。息子さんに、バッチリ届けて見せますよ!」
「頼もしいねぇ、そりゃ助かるよ」
掃除屋さんはおばあちゃんからペンダントを受け取った後、それを大事に荷物の中へとしまい込み、そして今度こそおばあちゃんの家を後にしました。その後ろ姿を、彼女は名残惜しそうに見送っています。
そして一言、穏やかな表情で、言葉を紡ぎました。
「……ありがとよ、掃除屋さん」
***
おばあちゃんの家を出発してから数日後、掃除屋さんはある旅団と行動を共にしていました。その旅団も黒の国へ向かうということで、せっかくだからと一緒についていっているのです。
その旅団の団長さんに、掃除屋さんは山の中にあったおばあちゃんの家のことについて、何か知っていることはないかを尋ねてみました。息子さんに預かり物を届けるため、ちょっとでも情報を得たいと思ったのです。
しかし……。
「……その山にあるのは、廃墟だけのはずだぞ?」
「……え?」
彼が出会ったおばあちゃんとは、果たして。