人形姫と恋心
……その日の夜、私は遅くまで執務室にいた。
人形姫として褒められた行動ではないと理解しながらも、どうしても考え事に集中したかったのだ。
昼間の、ヴィルヘルムの言葉がどうしても頭の中で引っかかって。
……まさか、彼も『あの時』の約束を覚えていたなんて……と。
静かな空間に、ノック音が響く。
「……どうぞ」
こんな時間に、誰? と思いつつ、入室を促した。
入ってきたのは、トミーとギルバート。
いつもの二人の姿に、思わず笑みが浮かんだ。
「……どうした? こんな時間に」
「無駄な業務と工程に関する検討報告書をお持ちしました。明日昼までに、ご一読いただければと」
「うむ。……その机に置いておいてくれれば、後で読んでおく」
「承知しました」
「……ルクセリア様。聞きましたよ。今日、婚約者殿と接触があったと」
動揺を悟られないよう、表情筋に力を込める。
「流石、トミー。既に、知っていたか」
「むしろ、隠してたつもりだったんですか? 一応、漏れることがないよう対応しておきましたけど」
「そうか。それはご苦労であったな」
「……俺としては、婚約者殿の言葉にルクセリア様が過剰に反応したということが、気になってます。……まさかここに来て、婚約者殿への情から計画を変更するなんてことはないですよね?」
トミーの言葉に、一瞬固まった。
「無論、計画に変更はない」
……計画に、変更はない。
ない、けれども。
私の中で揺らぎがあるのは、事実。
何を犠牲にしても、復讐を遂げると決めたのだから。
……両親を失った、あの日に。
未だに耳を澄ませば、遠くからガラスが割れるような……何かが壊れる音が聞こえてくる気がする。
今になって思えば、あの日、確かに壊れたのだ。
穏やかな前世と温かい今世で育まれた、優しい価値観が。
一面の花畑が白に覆われ、残ったのは冷たい雪景色のみ。
……それが、今の私の眼に映る世界。
後悔はしない。
決して、逃げない。
例え白に私自身が埋もれようとも、前に進みつづけると決めた。
……それなのに。
彼の一言が、私の決意を鈍らせた。
どこかで、違う道があったのではないか。
どこかで、違う道があるのではないか。
……そんな風に、ある筈のない仮定の話を考えてしまう自分がいた。
「確かに、彼の言葉に揺らぎもした……それは、認めよう」
後悔はしない。
決して、逃げない。
……だって、私はもう決めてしまったのだから。
私の、進むべき道を。
例えどれほど困難であろうとも、苦しくとも、何を捨てようとも、どれだけ非難を浴びようとも……その道を進むと決めた。
……今更道を変えるなんて、できない。
少しでも自分を甘やかしてしまえば、私は進めなくなってしまうから。
だから、ここで立ち止まることは許される筈もないのに。
「だが……余は、自身の誓いを違えぬ。違えられぬ」
そう言って、私は震える唇を引き締めて……笑った。
「……それを聞いて、安心致しました。ご無礼のほど、平にご容赦を」
トミーはそう言って、頭を下げる。
「良い。其方の懸念は、尤もなこと。……これからも、余を支えてくれ」
私の言葉にギルバートとトミーは二人揃って、無言で膝をついて頭を下げていた。
二人が去った後、私は静かに夜空を眺める。
とても美しい、景色だった。
闇の中に浮かぶ、数多の星の輝き。
そしてその中央に浮かぶ、三日月。
……息を呑むほどに、美しい。
『好き』
たった一言。
その一言を伝えられたら、どれ程良かったことか。
そして、彼の手を取り別の道を進めることができたらどれだけ良かったのか。
けれども、全てはもう遅い。遅過ぎるのだ。
彼に伝えられない代わりに、誰もいないこの場で独り呟く。
勿論、誰も答えることはない。
吐き出した言葉は、ただただ静かに夜闇の中に溶けて消えていったのだった。