人形姫と教師
アリシアが退出してすぐに、すぐ隣の書斎に向かう。
淡いピンクの基調の私室とは異なり、茶色に近い黄色の壁紙で落ち着いた雰囲気を漂わせる部屋だ。
ポツンと真ん中に書き物机が置かれていて、側には物を置く為の低めの机。
私が到着して程なくして、別の侍女を伴ってマホガード先生が部屋に入って来る。
恐らく自身の研究に時間を忘れて没頭した結果、慌てて来たのだろう……針金のようなひょろりとした細身に纏う濃紺の上着は少しよれていて、最低限整えてきたと言わんばかりに黒い長髪を無造作に一纏めにしていた。
けれどもトレードマークの眼鏡の奥から覗かせる瞳は、相も変わらず理知的な色を映し出している。
「ここに来る途中、アリシアさんに会いしましたよ。……相変わらず、元気な方ですね」
ふと、マホガード先生は思い出し笑いをしつつそんな言葉を口にした。
「ええ、そうなの。一緒にいて、とても楽しいのよ」
「ふふふ……貴女様も、アリシアのことをいたく気に入っておられるのですね。因みに、アリシアさんは私と会うなり貴女様への思いを延々と語られていましたよ」
「まあ、アリシアったら。ごめんなさいね、マホガード先生」
「いえ、とても興味深かったです」
「……。彼女、どのようなことを言っていたの?」
「ルクセリア様がいかに素晴らしい方か……ということですね。あとは本日の勉強はどのようなものか、難しい課題ならば、いつもよりも甘いものを準備しようか……等々ですかね」
「ふふふ……ならば、とても難しい課題と言ってくれたかしら?私、アリシアが作ってくれる甘いものには目がなくて」
「ええ。元より、ご期待に添えるような課題を準備しておりましたので。……それでは、早速ながら授業を始めましょうか」
けれども次の瞬間、先生が真面目な顔つきに戻ったことでピンと張りつめたような空気に場が呑まれる。
マホガード先生は、私に師事をしてくださる先生の中でも最も若い。
けれども彼の頭に刻み込まれている知識は、その年齢が嘘のように非常に幅が広くて深い。
そのため彼の他者への要求水準は非常に高く、彼の出す課題は非常に難しい。
「……段々と、戴冠式も近づいて来ましたね。王宮に上がれることすら畏れ多い身ながら、それでも宮中は随分と慌ただしいということは存じております。五大侯爵家の当主たちも王都入りしているとの話もございますし」
授業が終わると、マホガード先生はポツリと呟く。
王族ですら無視できないほど力を有している五大侯爵の動向は、当然私のもとにも報告がきていた。
「ええ、そうね。でも、まだ三ヶ月もあるのよ? 皆さん、気が早くて困ってしまうわ」
私の言葉の真意に気がついてかどうか、先生は静かに笑みを浮かべつつ口を開いた。
「それはそれは……とても、楽しみにしておられるのですね」
「……ええ。そうね」
微妙に間を空けてしまったせいか、マホガード先生が眉を顰める。
「おや?私の予想は外れましたか?」
「いいえ。マホガード先生の仰る通り、楽しみにしていますわ。……けれども同時に、大事を前にして少々恐ろしくも思っているのですよ」
「ああ、そういうことですか。それはそうでしょう……貴女様はこれより重責を担う立場に立たれるのですから。だからこそ、アリシアさんのような……裏表なく純粋無垢な方が貴女様の側にいることを、喜ばしく思います」
「そうね。……マホガード先生、本日はありがとうございました。また明後日、よろしくお願い致します」
話は終わりだと言わんばかりの御礼を伝えると、先生は正しくその真意を理解してくれたらしい。
無言で一礼をすると、即座に退出していった。
誰もいなくなった部屋は静かで、この上なく暇だ。
アリシアはいつ戻ってくるのかしら……?
そんな疑問が頭を過って、つい笑った。
ついさっきまで一緒にいたというのに、もう彼女が恋しくなる。
手放せたと、思った。
距離を置くべきだと、ニコルズ伯爵に引き取ってもらったのだから。
けれども、蓋を開けてみればこのざま。
彼女が自らこの伏魔殿に来たことを、これ幸いと受け入れてしまった。
……今からでも、遅くない。
すぐに彼女を解放すべきだと、理性は言っている。
けれども、もう一度……彼女を手放す勇気が、どうしても持てない。
掴んだ幸せに、つい縋り付いてしまう。
そんな自分の浅ましさに葛藤しつつ、けれども、それをも呑み込んでしまうような幸福感に浸っていた。




