終章「うた」
目を覚ますと、やまとは山の中の小さな庵にいた。
一人だった。
見回すまでもなく、狭い小屋の中には他に誰もいない。
戸を開けて外に出る。いつの間にか、世界はすっかり春らしくなっていた。
植物が芽吹き始め、獣たちは冬眠から覚めて活動を始める、再生の季節。
すうっ、と空気を大きく吸い込んだ。
生命の息吹が、身体の中に入ってくるのがわかる。
自分は今ここで、生きている。
思い出せない昔の自分も、自分。
今ここで息をしている自分も、自分。
全てが、今の自分を形作り、そしてこれからの自分に繋がっていく。
やまとは思う。先に何が起こるかわからないのが今であり、これからなのだと。
それ以上何も嫌なことが起こらない過去にだけ生きられたら、きっと甘美なのだろう。
僕も、封じられた辛い時を避けて楽しかった時だけを切り取り、ただひたすらにその時を繰り返し、その流れに自らを沈めたのなら……。
そこでは、
誰も、自分を傷つけない。
誰も、自分に悪意を向けてこない。
誰も、自分を騙したりしない。
誰も……
……きっと、楽しいだろうと思う。それは言うなれば理想郷。
自分が傷つくことのない場所に、ずっといられるのなら……。
ふっと、やまとは息を吐く。それも良いという気持ちも、あるのだ。
そんな弱い自分も、自分だ。
でも、彼は選んだ。そこに後悔はない。時を先へ進めるのだ。
「そうだ。約束でしたね、さくら、ゆう……。初めてなので、笑わないでくださいよ?」
やまとは、歌を詠んだ。
思い出したわけでなく、自分は既に、歌を詠めるだけの教養を持っていたのだと、わかった。
たとえ思い出せなくとも、過去があるから今の自分がある。それは当然のことだ。
冬過ぎて 春来にけらし 白妙の
夕も桜の 花は散らざり
白妙の、という枕詞は衣や、木綿……ゆうを導く。
そして、春にはさくらが咲くもの。
たとえ散ったとしても、再び花は咲く。
どんなに今が辛くとも、再び。
当たり前のことだ。人より、そして神よりも自然は偉大なのだから。
もしも奇跡を望むのなら、人はそれを、言霊を導くために言葉にしなくてはならない。
言ノ葉にのせて、この世界に送り出してあげなければならない。
やまとは望んだ。そして歌を詠んだ。
背後で、庵の扉が開いた。
「やまと……」
咲良の前が立っていた。頭巾を被っていない頭に、小さな角が見える。
「さくら、お帰りなさい。 ……目が、覚めましたか」
やまとの言葉に、彼女はゆるゆると首をかしげる。
「……そうね。なんだか随分と長い間、夢を見ていたような気がします。楽しかったような、苦しかったような……何だか、奇妙な気分」
やまとは微笑みを浮かべる。
「夢ですからね。そのようなものです。見ている間はどんなに大切と思っていても、所詮夢は夢です」
「そうです! 夢にうつつを抜かすなど愚か者のすること! さあ、目を開いて天をご覧なさいまし! 既に陽は中天を過ぎております! よって」
「……そうだね、ゆう。昼には人がすべきことがある。とても大切な」
それは、と宙に浮かぶおかっぱ頭を軽く撫でてやる。
「家族みんなで、おいしいお昼ご飯を食べることだ」
やまとは言い、振り返ってさくらに笑顔を向けた。彼女も、優しい笑みを浮かべる。
「その通りです! さすが兄様。……ところで、そうしてゆうの頭を撫でるのは、どういった理由からなのでしょうか? ゆうのことを褒めていただいた? それとも何か、兄様の中に抑えきれないほどの可愛い妹に対する愛情が……?」
山を下りてミヤコへ向かうべく足を踏み出した三人の耳に、山道を登ってくる足音が聞こえてきた。
「おー、居たいた。冷てぇじゃねえか、お前らだけ先に帰っちまうなんてよ!」
「やまと。拙者は検非違使としての任務を放棄してまで付き合ったのだぞ? 埋め合わせは、してもらうからな」
「なんだ、おろちとけびいしではないですか。まだ生きていたのですか?」
ゆうの憎まれ口で、久しぶりにおろちとの口喧嘩が始まる。
「……ったく、お前はメシ時になりゃ出てくると思ってたぜ。案の定だな」
「失礼な! ゆうは、ずっと兄様の帰りをお待ちしていたのです! 実に辛い日々でありました! それが先程、兄様のなでなでによって報われたのです。この感激をもって、ゆうは再び生きてまいりましょう。兄様の最愛の妹として!」
「あー、うるせえ。久しぶりにうるせえ! 訳のわかんねえこと言ってんじゃねえ座敷わらしもどきが!」
「おろち! 違うと何度も申したでありましょう!」
放っておいて先に行こうと刀兼が提案し、三人は山を下り始めた。
「あ、待てお前ら! 誰が路銀を預かってると思ってんだ」
「お待ちなさい! か弱きゆうを取り残して何とします!」
「早くおいでよ! みんなで行こう!」
振り向いて、やまとは言った。
自分の『家族』に。
了。
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