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六章「望み」

 さくらは、夢の中にいた。

 二度と会えないと思っていた、あの方に……太刀華さまに再び、巡り会えたのだ。

 彼はあの時と同じ、優しい笑顔で自分を迎えてくれた。

 あの時と同じように、この醜い角のある頭を優しく、撫でてくれた。

 その、低く甘い声。

 鋭くも優しげな眼差し。

 肉親を知らない自分にとって、兄のようであり、父のようでもあり……

 全てが、あの時のまま。自分は戻ったのだ。

 もう他には何もいらない。そう思った。

 そう、何も。


「あと少しですね」

 ぱちぱちとはぜる焚き火を見つめながら、やまとは言った。

 ミヤコを出てから約ひと月が過ぎていた。最短距離を選んだ真冬の山越え、積雪もあるので馬も使えない。山岳地帯に入ってからは自分たちの足を頼りにここまでやってきた。

 折角預かった路銀もほぼ手つかずのまま、ひたすらに足を速めての旅。

 あと少し、いま自分たちのいる山を越えれば死海まで一日もかからないはずだ。

「ああ。もうすぐだな」

 応えるおろち。刀兼は周囲の闇に警戒の視線を配っている。三人とも野宿を続けた旅で汚れ、山賊と見紛うような外見になっていた。

 だがその目はひとつの目標に向かって、力強く輝いていた。

「明日には、死海が見えるはずだ」

 そう言う刀兼は、ミヤコの広場からそのまま旅路についてしまい、検非違使の任務を放棄してしまっているのだが、大丈夫なのだろうか。そう思いやまとは聞いてみたが、

「なに、全てが無事に終わってから考えれば良い。検非違使庁に自分の居場所がなかったら、そうだな。お主らと拝み屋でもやるとしよう」

 以前の彼ならば冗談でも言わないような……いやそもそも、刀兼は冗談など口にしないが……そんな事を言って笑顔をみせたのだった。

「明日は、晴れるな。どこかの雪解け水で身を清めてから死海へ行くとしよう。何せ、神の聖域へ乗り込むのだからな」

 降るような星空を見上げ、冗談とも本気ともつかぬ口調で言う。季節はもうすぐ、春。すでに雪解けが始まっていた。


「……そう。やっと来たのぉ。待ちくたびれちゃったわよ」

 風鬼は、式神の報告にそう言った。やまと達三人が、あと少しまで迫ったという。

「それじゃあ、お出迎えの準備をしなくっちゃねえ」

 ぱたぱたと浮かんだ彼女は残忍な笑顔を浮かべる。

 ……まちがっても、あんな魚もどきにやられるんじゃないわよ。人間ども……。


 夜明けとともに三人は活動を開始した。すでに八合目まで登っていた山の頂上を目指す。霜の降りた地面を踏みしめ、一歩ずつ確実に上り坂を進む。

 昼前には、頂上へたどり着いた。

「あれか」

 おろちも、実際に見るのは初めてだった。眼下に見えるそれは、湖という概念からかけ離れた規模の巨大さだった。

 水面が陽の光を浴びて、きらきらと輝いているのは幻想的と言っていい眺めだった。

 その水辺にぽつんと見える、小さな赤いあれは鳥居だろう。あそこから人が拝む、とすると……

「あの島でしょうか」

 いくつかある湖の中の小島のうち、やや大きいものが鳥居から正面の位置にある。

「ああ、そうみてぇだな。あれが牛鬼神社……敵の本拠地ってわけだ」

「まずは、あそこまでたどり着くことが目標というわけだな。策は……相手の出方次第、出たとこ勝負になるのは致し方あるまい」

 刀兼は、腰に差した刀の柄に手を添えて、改めて覚悟を決めた。今度の相手は、あやかしやもののけではない。奴らの首領は、まごう事なき『神』なのである。

「いつのまにか、神さま相手の勝負になっちまったな……ま、関係ねえ。俺たちゃ、お姫様を救い出すのが目的だ。その相手がたまたま」

 神だった、てぇだけだ。あえて軽い口調で口に出す。言ノ葉にのせて自分の外に出してやることで、軽くなる気持ちもあるのだ。

「さ、行こうぜ。さっさと助けてやらねえと、姫さんが待ちくたびれてら」

 三人は山を降り始めた。


 ゆうは、地獄を彷徨っていた。

 とうに忘れたはずだった、この世の生き地獄。

 でも、思い出してしまった。

 思い出したくなど、なかったのに。

 そして、囚われた。

 兄様……。

 ゆうは、もう

 お会いできないのでしょうか。

 兄様に、もう一度……

 

 三人は死海のほとりに着いた。すでに日暮れが近い黄昏時だ。だが、彼らは歩みを止めずに朱塗りの鳥居まで足を運んだ。

 間近に見る死海は更に大きく感じた。ここからでは対岸が見えない。海という名に恥じない巨大さだ。ただし夕暮れの暗い水面は穏やかで、海のような波はない。遠くに牛鬼神社の島が、かろうじて見える。

「さて……これから湖を渡って、あの島まで行かなきゃならねえ。そのためには当然、舟に乗らなきゃならねえよな。泳いで行くにゃ、遠すぎる」

 当たり前のことを、おろちは口にした。

 あえてそうして考えをまとめ、目の前の現実に対する自分たちの行動を決めなければならないからだ。

 目の前の、現実。

 それは、鳥居に縄で繋がれた、三人で乗るにはちょうど良い大きさの舟である。

「なあ、どう思うよ。やっぱり罠……だよなあ? でもよ、ここまでわかりやすくやるか?」

 二人を振り返り、意見を求める。なにしろ三人分の櫓まであるのである。

「……そうだな。だが、目の前の舟であろうがなかろうが、いずれ乗らねばならないのは確かだ。であれば、あえて乗るというのも一興」

 刀兼は、彼なりにだいぶ柔らかくなってきた考えを披露する。

「そうですね。確か、死海に人が入るのは禁じられていたはずです。近くに人の気配もありませんし、誰かに舟を貸してもらう、というのは難しいと思われます。つまり」

 他に選択肢はない、という事である。

「……よし。じゃあ行くか! ……おいやまと、お前から行けよ。若いモンに先を譲るぜ。年寄りはもう、おとなしくしていた方が」

「……おろち。まさか、怖いのですか?」

 実に直截的に、やまとは言った。おろちは水恐怖症なのだ。

「ば……馬鹿言ってんじゃねえ。今更そんな事……そう、そうだ。俺は動いてねえ水は、怖くねえ。死海ったって湖だ。波もねえし川みてぇな流れもねえ、大人しいもんじゃねえか。ちっとも怖かぁねえってんだ」

 明らかに強がっている彼に対し、二人は同情を禁じ得なかった。

「どうでしょう刀兼。おろちにはここに残ってもらって、後方支援の任を担ってもらうというのは?」

「おお、奇遇だなやまと。拙者も今、その策を口にしようと思っていたのだ」

 あからさまな二人の態度に、さすがにおろちも

「いや待て、大丈夫だ。さくらの命が掛かってんだ。俺だって昔の恐怖くれぇ、抑えてやらぁ」

 ですが、とやまとは言う。あくまでも冷静な口調で。

「本当に、おろちには残ってでも足止めしてもらわなければならないかも知れませんね。いきなり、厄介な相手のようですから……」

 やまとの視線の先。小舟の繋がれた縄のすぐそばにいつの間にか仁王立ちしていた、金髪碧眼の大柄な青年。

「ナイストゥ・ミーチュでありまーす! エヴリワン、用意はいい?」

 半分くらい何を言っているのかわからないのだが、妙に癇に障るこの物言い。

 金鬼だ。このクニの民にはない金色の髪で、金色に輝く巨大な盾を構えている。

「ここから先は、一歩も通しませェん。死海の四天王・四鬼が一鬼、キンキのネームにかけて!」

 相手の口上はもう気にしない事に決めた三人。

「ここは俺に任せてお前らは行け、なんて事になると、八方丸く収まるんだがな……行くぜ!」

 先制攻撃をしかけるおろち。『攻』の言ノ葉を殴り書き、相手に投げつける。

 続けてふたつ、みっつ、よっつ。

 だが、相手の盾に容易く防がれてしまう。まるで巨大な障壁が存在するかのように、言ノ葉は盾の周りの空間で消滅してしまうのだ。

「ゆるい! ユルイデぇス! こんなもの、いくら打っても無駄、無駄、無駄デェす!」

 言葉通り、まったく打撃を受けていないようだ。

「ならばこれなら、どうだ!」

 刀兼が抜刀し、気合とともに斬り込む。

「甘ぁい。甘いデェす。まるでストロベリー…… 話になりまっせぇん」

 やはり全く効かない。

「……では、これはどうです?」

 やまとは、二人の攻撃の間に編んでいた言ノ葉を放つ。


 『滅』


 それは、強大な攻撃力を持った言ノ葉である。簡単には防げるようなものではない。

 だが。

「駄目駄目ェ! ワタァシの盾の前には全てが無力、無力なのデェス!」

 くそっ、と三人は攻めあぐねる。


 ………………。


「くっ。どうすりゃあ、いいんだ?」


 ………………。


「……おい、金ピカ」

 おろちが、我慢できずに言った。

「何でショウ?」

「お前、なんで攻撃してこねぇ?」

 その言葉に、相手はむしろ胸を張った。

「HAHAHA! ワタシ、ディフェンスオンリー!」

 言葉の意味はわからなかったが、それでも伝わるものはあった。

「何だかよくわからねぇが、どうやらあいつは防御しかできねえみてえだな」

「そのようですね……では、こういうのはどうでしょうか」


 『転』


 ゆっくりとやまとが編んだ言ノ葉が、相手の大きな盾に吸い込まれていく。

 次の瞬間、盾は金色の光を発し、三人を攻撃し始めた。

「な……ナンデスカこれは! ワタシがオフェンスなど……ありえません! キンキのネームに傷が、傷が!」

 予想以上に取り乱す金鬼。ガッデームと盾を放り出し、金髪を掻きむしる。

「よし、よくやったやまと! そんじゃ行くぜ!」

 意気込んたおろち。先程まで、なぜか先には進めなかった彼らの足は、金鬼の脇をあっさりと通り抜けた。

「ま、待つでェス! ここから先は一歩も……」


 『攻』 『攻』 『攻』


 矢継ぎ早に編まれた言ノ葉が金髪碧眼の青年を襲う。先程までの鉄壁の守りはなくなり、相手は打撃を受けた。

「お前の相手は俺だ。悪ぃな。水に入りたくねぇんだよ、正直なところ。 ……言うぞ? ここは俺に任せて、お前らは行け!」

 自信満々に、相手の前に立ちふさがるおろち。

「あとは頼みます!」

 二人は小舟に飛び乗り、死海へと漕ぎ出していった。

「さあて。そんじゃ、おっぱじめるか? 胡散臭ぇ兄ちゃんよ」

 おろちは相手を見据え、言った。まったく負ける気がしなかった。


 陽は完全に沈み、暗い水面はどこまでも続いているように見える。

 やまとの手元にある絵地図は、ほのかな光を発し、牛鬼神社の方向を指し示している。

「……聞こえるか?」

 櫓をこぐ手を止め、刀兼が言った。

 そう言われて初めて、やまとの耳にも『それ』が聞こえた。

「ええ……うた、でしょうか? きれいな声ですね」

 それはどこからか聞こえてくる、美しく澄んだ女性の歌声だった。

 月のない闇夜の静かな水面に響き渡り、あたりの大気の全てに染み入るような。

 無言のまま立ち上がった刀兼は抜刀し、あたりを警戒する。そうしても、死海の高濃度の塩水は二人の乗った小さな舟を安定して浮かべている。

 水面との境すらも明瞭でない暗闇に、不思議な歌だけがあたりを包み込んでいた。

「……ああ。何だか、眠くなってきました。妙に、心地よい……」

 やまとは、まどろみ始めた。

「意識を保て! これは心への侵害……敵からの攻撃だ」

 刀兼は自分の持つ刀の重みに意識を集中した。

 ……今、拙者はここに在る。自分の鍛えた肉体と、自分の信じる刀と共に。

 その静かな集中力が、傍らのやまとにも伝わったのか、目に力が戻った。闇が支配する空間に指を走らせる。

「大いなる和のもとに命じる。闇を祓い、声の主を照らせ!」


 『照』


 ちょうど、満月くらいの明るさがあたりを照らした。

「あら。こんなに可愛らしい坊や達だったの?」

 意外な程近くを泳いでいた、美しい女……だが、水中で動くその下半身は人間のものではなく、鱗がはえ、大きな尾ひれのついた魚のようになっている。

「ねえ、どっちがこの光をつくりだしているの? 何もないところに光をつくるなんて、人間のする事じゃないと思うけど?」

 無邪気な表情で半人半魚の女は言う。死海の塩水に濡れた髪が肌に張り付いている。こちらに興味を持って質問しているせいで歌がやんだ。二人は正気を取り戻す。

「僕です。言ノ葉という力で光を生み出しています。確かに、普通の人間はしないですね、こんな事」

 素直に相手の問いに応えるやまと。隣の刀兼は呆れ顔になる。会話をすれば歌はやむようだが、それにしても緊張感のない……。

「そうなの。言ノ葉、っていうの? 言霊の力なのかしら? すごいじゃない。それで、どうするの? 死海に人が入ると恐ろしい事が起きる、って聞かなかった?」

 脅しているつもりか? 刀兼は思ったが、どうもそういう雰囲気でもない。妙に楽しげに、のんきな口調で女は話す。やまとも警戒せずに返事をする。

「ええ。聞きましたが、僕らはさくらを……龍の角の女性を迎えに行きたいのです。牛鬼神社に、彼女は居るのですね?」

「居るわよ?」

 女は何の躊躇もなく答えた。

「やまと、気をつけろ。罠かもしれんぞ」

 小声で刀兼が言う。

「あら。わたしを疑うの? なぜ?」

 何とも心外そうに女は言う。

「その方は四鬼であろう。であれば拙者らの敵ではないか」

 刀兼の言葉に、あらやだ自分のこと拙者とか言うの? と女は腹を抱えた。

「……あーおかしい。そうよ、わたしは四鬼の一鬼、水鬼。でも今更警戒しても無駄よ? だってもう貴方達は逃げられないのだから。気づいてなかった?」

「何?」

 あわてて周囲を見回す刀兼。いつの間にか、二人は岩場に座っていた。

「こ、ここはどこだ! 舟に乗っていたはずがなぜ」

「刀兼、幻術の類では?」

 やまとの言葉に刀兼は周囲に目を凝らすが、いや、と首を振る。

「違う、と思う。拙者らは今、間違いなく本物の岩場の上に居るようだ」

 彼は陰ノ行者との戦いを経て、幻術を見分ける能力が向上していた。

「どう? まやかしじゃないわよ。貴方達は、これから悠久の時をこの小島で過ごすの。大丈夫、退屈なんてさせないわよ? だって、わたしの歌に身を委ねれば、ずっと楽しい夢の世界にいられるのだから……」

 水鬼は、再び美しい声で歌い始めた。

 二人はその歌を聞いてしまった。耳ではなく、心で。

 それは誘いの歌。聴く者の心に入り込み、そして、招く。

 その者が望む夢の世界へ。


 ……わたし達はね、ここから遠く離れたクニでうまれたの。もともとは三姉妹だった。実を言うと、神々のつくった失敗作だったのね? でも、わたし達には唯一の取り柄、歌があったから。それを神様……今は牛鬼様ね? あの方が、見出してくれて……

 長い時を過ごしたわ。ずっと、幾多の海で、船に乗った男たちを惑わせてきたの。

 それが、わたし達の使命だったから。

 数えきれないほどの歌を歌った。

 数え切れないほどの男を惑わせた。

 そして、わたし達も、色々なものを失った。

 いつの間にか、わたしはひとりになっていたの……。

 星の数ほどの光景、言葉、歌……そうしたものが奔流となって、一気に刀兼とやまとの中になだれ込んできた。

 様々な、異邦の地。その光景の殆どは海だった。

 惑わせてきたという男たち。

 その中には、水鬼が心を惹かれた男もいた。

 ……さあ、今度は貴方のこと、聞かせてちょうだい? どんな子供だったの?

 どんな事を学んで、身につけてきたの? どんな傷を受けて、強くなってきたの?

 水鬼は、自分の記憶を相手の心に侵入させ、それを依代にして相手の記憶を引き出す。その中で一番楽しかった時を探し出し、その擬似世界を脳内に作り出して固定する。場合によっては更に脚色を加えつつ、相手の最も居心地の良い世界に取り込んでしまう。

 二人は記憶を遡り、過去を見せられていく。自分自身も忘れていたようなことまで、はっきりと。


「ははうえ! きょうは、ちちうえに、けんをおしえていただきました!」

 物心がつく前から、刀兼の母は病床に臥せっていた。

 治らぬものであると、本人も周りの者もわかっていたらしい。

 幼い頃の刀兼は、母の枕元でその日の出来事を話すのを日課としていた。ひとつひとつの言葉にやさしく頷いてくれる母の笑顔が大好きだった。

 そして、あの日。

「刀兼。母はこれより浄土へ行き、拙者たちのことを見守ってくれるのだ」

 父は幼い刀兼の肩を抱き、そう言った。あまりに強く掴むので、ひどく痛かった事を覚えている。

「ちちうえ。ははうえにはもう、あえないのですか?」

「お前が立派な検非違使となり、ミヤコのためのお勤めを果たし終えたあとに、また会える。拙者も同じだ。一足先に浄土に行った妻とまた会うために、日々のお勤めを果たしていくのだ。わかるか?」

「はい……」

 刀兼はそう答えたが、よくわかっていなかった。ただ何となく、父の方が先に母に会えるようなので、ずるいな、と思った。


「あら? ちょっと行き過ぎたかしら? お母さんが死ぬ前で……そうね、奇跡的に元気になって一緒に暮らす、て感じにしようかしら?」

 現実の岩場の上では、水鬼が後ろから二人の体を両手に抱き抱えるようにして夢を見させていた。

 彼女の手は左手が刀兼の、右手がやまとの脇腹あたりから体の中へ吸い込まれるように消えていた。水鬼は相手の中に入り込み、自分の記憶を依代にして……つまり呼び水のようにして相手の記憶を引き出すのである。


 やまとは目を開いた。明るい春の日差し。大きな畳敷きの広間。

 それは、やまとがやまとになる前、東国に暮らすただの少年だった頃の記憶だ。

 爽やかな風がやさしく吹き、布団に身を起こした母の髪をそっと、揺らした。

 寝間着姿の母は、白い清潔な布にくるまれた小さな赤子を胸に抱いていた。

 やまとは……少年は、まだ少年と呼ぶには幼い年頃であった。そして、それよりもさらに幼い、生まれたばかりの新しい家族。 

 彼の、妹だ。

「今日からは、お前も兄だぞ」

 父が、嬉しそうに、どこか誇らしげに言った言葉が耳に蘇る。

 そうだ、僕の妹。ゆう……いや、

「結……」

 僕には妹がいた。かけがえのない、たった一人の妹が。

 ……結は、兄様のおよめになるのです。

 ……もう。兄様は面白みに欠けます!

 兄様。

 兄様。

 ……そうだ、そして……。

 壁に叩きつけられ、ずるりと床に滑り落ちた首が、あらぬ方向を向いていて……

 父と母の、血が床に。布団に。

 欲に染まった、鬼畜の如き男ども。

 それを、僕は

 殺してやった。

 当然の、報いだ。

 あいつらは、僕の家族を……! 

 ごうごうと音を立てて燃えていく屋敷。僕が生まれた家。家族とともにすごし、育った場所。それを……

 何故だ?

 何故、奪われなければ、壊されなければならなかった?

 あの、鬼どもが。畜生どもが。

 

 ……憎い。

 

 憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い 憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い


 憎い! あいつらが。人の皮を被った、鬼畜どもが!


「あぁぁぁぁぁぁあああぁぁぁぁああぁ!」

 周囲の空気がびりびりと震えだした。静かだった死海の水面に波紋が広がり、波立ち始める。岩場のあちこちに亀裂が入り、崩れ始めた。

「な、何? なんなのこれ!」

 水鬼は驚き、二人の心の戒めを解いた。

 刀兼は目を覚まし、すぐに目の前の現実を正しく認識した。

 隣のやまとは目を閉じ、気をうしなったまま唸り声をあげ、周囲が異常な状態になっている。

「これは……! 封印が、解けかけているのか。拙いな……おい、水鬼とやら」

 おろちから事情は聞いていた。これは、やまとの『解いてはならぬ封印』が壊れかけているのだろう。解いてしまうと、理を無視して世界に傷をつけるのだったか。

「な、何かしら?」

「今すぐ、やまとの心から過去の記憶を引き上げさせろ。再び、過去を忘れさせるのだ」

「な! 何言ってるの? そんな事簡単に」

「容易でなくともやらねば、この世の大きな理にヒビが入るやも知れぬぞ」

「え。じゃ、じゃあ……?」

 この少年が、そうなの? 遥か昔に、聞いたことがある。神々の力に人間が対抗できるとすれば、神ですら逆らえない理を壊してしまう存在……『理の破戒者』が現れた時であろうと。

 可能性としては、言葉が生まれ、進化するに従って言霊の力が備わった時からあったという。しかし、それが現実になるのは、到底ありえないような低い確率であったはず。

 だが、それが……いま、現実に目の前で起こっている。

 大気の震えがさらに大きくなっていく。星のない夜空にも亀裂が入りそうだ。

 このままでは、天が裂ける。

 そんな事がある訳がないのに、何故かそう感じる。

 起こりえないことが起こる。これが、理の破戒……。

 理屈ではない、根源的な恐怖。

 今まで、数えきれない程の人間を陥れてきた彼女ですら、怖かった。ただひたすらに、底知れない恐怖を感じた。

「わかった! わかったから、もうやめて?」

 水鬼は慌ててやまとの心の中から右手を引きぬく。力づくだ。本当はこんなこと、絶対にしたくなかった。何しろそのせいで、相手の記憶を引き出すための寄り代にしていた彼女の思い出が、半分近く壊れてしまったのだ。

「ああ……。レウコシア、パルテノペ……思い出せない! なんてことよ! また失ってしまった! また消えてしまった!」

 水鬼は悲痛な声をあげ、天をあおいだ。

 解放されたやまとは、気を失ったまま力なく岩場に倒れる。

「やまと! 大事ないか? おい!」

 声をかける刀兼は変わらず水鬼に囚われたまま、身体の自由が利かない。

「そこまでよぉん。言ノ葉遣い……いいえ、理の破戒者。牛鬼様がお会いになるわぁ」

 いきなり現れた、羽の生えた小人。

「風鬼じゃない。何よ、あなたの出番はまだ後でしょう? 今はわたしが……」

 その物言いに、風鬼はキッと鋭い目をやる。

「うっさいわね、この魚もどきが。牛鬼様が連れてこいって言ってんのよ。あんたと違ってあたしは、お言葉を直接受けてるんだからね!」

「そんな! 何のためにこんな思いまでして……。もう、わたしの役目は終わりってこと?」

 そうよ、もうすっこんでなさいと言いながら、風鬼は小さな手をやまとの肩のあたりにかざす。

「空間移転、術式展開」

 やまとの身体を、不思議な光が包む。

「待て! どうするつもりだ」

 声をあげるが、刀兼は一歩も動けない。

「待つのは貴方よ? これからここで、ずっとわたしと過ごすんだから。失くしたものの一部だけでも、埋め合わせはしてもらうわよ?」

 後ろから絡め取るように刀兼を押さえつける水鬼。心の底から湧き上がる喜びに凄惨な笑みを浮かべる。

「は、離せ!」

 必死にもがくが、水鬼の腕は振りほどけない。

「じゃ、行くわぁ。その坊やは好きにしなさいな」

 言葉とともに、小人とやまとの姿はかき消えた。


 やまとは、目覚めた。

 いや、目覚めた……のだろうか? 本当に現実なのか自信がもてない。それくらい、その場所は現実離れしていた。

「ここは……どこだ?」

 身を起こす。手をついた床は妙に冷たい感触で、木でも土でもなく、金属……刀か何かのような素材で出来ているようだ。

 あたりを見回してみても、似たような質感の壁と天井。

 その天井から昼のような光が降り注いでいるが、明らかに太陽のそれとは違う、つくりものめいた光だ。目を細めて見ると、四角い光源があり、それ自体が光を放っているのがわかった。

 やまとは意識を集中させて思い出そうとする。自分は、なにをしていたのだったか。

 さくらを助けるために死海まで来た。おろちに金鬼を任せて、二人で舟に乗って……

 半分魚の女の人がいて……

「……そうだ、刀兼。居ないのですか?」

 立ち上がる。床も、壁も、天井も妙に滑らかな感触の奇妙な空間。何なのだ、ここは。

 夢を見ていた。いや、見せられていた。あれは……?

 両親がいて、自分の家があって、そして……

「くっ……。頭が」

 こめかみの上のあたりが痛む。

 何か、禍々しいものを見た。

 でも、あれは夢だ。

 現実じゃない。


『そう、現実ではない。現実は、おまえの望みによって形を変えよう』


 声が聞こえた。頭の中に直接届く、声。

 鬼か? また、幻術の類か?


『幻術ではない。ここは、神の座である。我は……そう、鬼だ。今となってはな』


 いつの間にか。

 やまとの目の前に現れた、異形のもの。

 宙に浮かんだその姿は後ろから光が差し、影になってはっきりとは見えない。

 頭の両側に長い角が生えている。顔は明らかに人間のそれではない。鼻が長く、黒目だけの目は大きく両側に離れて付いている。

 手が長い。細い腕を左右に広げ、脚は座禅を組むようにあぐらをかいている。身体は滑らかで光沢のある不思議な素材の着物で覆われている。

「あなたは……?」

『我は、牛鬼。はるかな昔に天帝と戦って敗れ、鬼に堕ちた神である』

 やはり、という想いもあったが、これほど容易に神との対面が叶ってしまって良いのだろうか、という戸惑いもあった。

 あまり牛には似ていないなと、やまとは思う。どちらかというと神話で語られる龍を人の大きさにしたような……。

「牛鬼……。咲良の前を返してください。僕は、彼女を連れ戻しに来ました」

 余りにも直截な言葉に、異形の神はふ、と息を吐いたようだった。

『そう言われて、すぐに返すようならわざわざ攫ってなど来ぬ。そうであろう?』

「そうですね」

 やまとは懐から札を取り出したが、死海の水に濡れて字も判読できない状態だった。これでは使い物にならない。するとあとは……。

 腰の帯から木刀を引き抜く。ぼう、と淡い光が刀身にともる。こちらの言ノ葉は無事なようだ。

『言ノ葉遣いの少年よ。我の力にならぬか』

 相手が木刀を手にしたことには構わず、牛鬼は言った。

「……どういう意味ですか」

『そのままの意味よ。我の力となり、共に人類を導かぬか。未開の……未だ神の恩寵を受けておらぬ地へ行き、文化と文明を与え、新たなクニを築くのだ。それが神たるものの務め。その手助けをせよ、と言っておるのだ』

 やまとは耳を疑った。神の片腕になれと言うのか。

「人を導くのは神様だけでして下さい。僕は、普通の暮らしがしたいのです」

『普通の……? 何を言っている。お前はとうに人の領域を超えているのだ。あの娘もそうだ。龍のあるじなのだからな』

「龍など……、さくらが望んだことではありません」

『言ノ葉使いの少年よ。我の誘いを断るか』

「そうですね。申し訳ありませんが」

『……そうか』

 言うや、結跏趺坐の体勢で宙に浮かんでいた身体が素早く動いた。

『長らく大人しくしておったが、我もかつては荒ぶる神。本来の流儀に戻るとしよう……相手に言うことを聞かせるには』

 床に足を着けるや、あっという間にやまとのすぐ近くまで詰め寄る。思わず身を引くやまとの鼻先を、眩く光るものが一閃した。

「な、何を」

 牛鬼の手に握られているもの。それは、刃の部分が蒼く輝く不思議な剣だ。言ノ葉の光とも違う、神の力か。

『力ずくだ!』

 俊敏な動きで次々と剣を繰り出してくる牛鬼。必死に避けるやまと。

「くっ!」

 やまとは木刀を構える。相手に打ち込もうとするが、鋭い打ち込みに対して反撃できず、防御一辺倒になる。木刀には『擊』の言ノ葉を宿らせてあるが、相手の攻撃を相殺する役にしか立っていない。

 新たな言ノ葉を編むのも間に合わない。いつも、おろちがその時を稼いでくれていたのだ。

『どうした少年。打ってこぬか! 言霊などに頼らず、おまえの覚悟を見せてみろ!』

 床に立った牛鬼は、やまとよりも身長が低いが腕は地に届きそうなほど長く、その分攻撃の範囲が広い。そして何より身軽な素早い動きで、鋭い剣を振るう。

 やまとは剣の心得などない。ただただ、相手の動きに必死になって対応しているだけだ。

 あっという間に壁際まで追い詰められる。

『さあ、どうする少年。もう後がないぞ。おとなしくここでやられるか、それとも我と共に神となるか?』

 堕ちた神は光の剣を喉元に突きつけ、勝ち誇ったように言う。

「僕は、そんな事に興味はありません。ただ、平穏を取り戻したいだけです。たとえ僕らが普通でないとしても、静かな暮らしをしたいのです」

『なぜだ。それはあの娘の望みか? それともおまえの、欲か?』

 欲? ……そうかも知れない。でも。

「彼女も、そう望んでいるはずです。僕たちと再びミヤコで平穏に暮らす。それが」

 やまとの言葉は途中で遮られる。

『本当に、そう望んでいると? 龍の角が衆目に晒され、自分が人でないことが知られているのだ。もうミヤコに居場所などない。官位も既に剥奪されておる』

「そんな……。でも、それなら僕らと一緒に、どこか別の場所で」

 言い募る言葉は、またも止められる。

『必要ない。かの者は既に、安住の地に居る』

 言うと、牛鬼は剣を収めた。腰に差したそれは刃の部分が消え、柄だけになっている。

「牛鬼。さくらは、本当に無事なのですか? 彼女は今どうしているのです」

 見るが良い、という言葉とともに左手の壁に亀裂ができ、まるでそこに扉ができたかのようにすうっ、と開いた。

 まさに、扉だったらしい。その奥には別の空間があった。

 巨大な、透明な箱の中に水が満たされている。その中に白い着物姿のさくらが、目を閉じ、まっすぐに立った姿勢で浮かんでいた。ちょうどやまとの方へ顔を向けて。

「さくら!」

『眠っておるだけよ。自分の望む世界の中に沈んで』

 水中にたゆたう彼女は、確かに生きているようだった。やまとは安心すると同時に、複雑な気持ちになる。笑顔なのだ。それも、見覚えのある優しく包み込むような笑顔ではない。むしろ逆に、誰か心の底から信頼できる人に甘えて、すべてを委ねているような、そんな笑顔なのだ。

『龍の角の娘は自分の過去に沈んでおる。現在を捨て過去を選び、既に亡き者と悠久の時を過ごすことを選んだ。それが、本当の望み』

「そんな……。ではもう僕らは必要ないのですか?」

 やまとは水の中の彼女に問いかける。

 過去に沈んだ少女は、目を閉じ笑顔のまま何も答えない。

『言ノ葉遣いの少年よ。おまえは何を望む。我は、おまえの力が欲しい。龍の角と同じく……いや、それよりはるかに貴重な、おまえのその力が。我の力となるのなら、どんな望みでも叶えてやろう。今すぐ娘を目覚めさせ、おまえと添い遂げさせても良い』

 やまとの心の奥で、何かが疼いた。

「何を言っているのですか。僕の望みは……」

『少年よ。本当の心を明かすが良い。おまえは、何を望む?』

 少年、少年と……。

「僕には、やまとという名があります。それに」

『ほう、天帝の狗に与えられた名がそれほどに大事か。大いなる和、など。奴らの魂胆が透けて見えるではないか』

 牛鬼は、その時確かに笑った。もう一柱の神、天帝に対する嘲りの笑い。

『ならば』

 牛鬼はその時、何かをした。身体を動かしたわけではないが、明らかに何かを。

『自らの目で、確かめてみるが良い』

 その言葉とともに、やまとは意識を失った。


 目を開けると、どこかの屋敷のようだった。

 どうやらミヤコの……やまとが足を踏み入れたことのない地域にある、貴人の住まう屋敷のようだ。広い畳敷きの部屋で、幼い少女が文机に向かって筆を運んでいる。

 その面影に、はっきりと見覚えがあった。

 いや、何よりその頭にある角を見れば一目瞭然であったのだが。

「さくら……」

 咲良の前の幼少期を見ている……いや、見せられているようだ。

 やまとの声は彼女には届いていないようで、姿もどうやら見えていないらしい。この場でのやまとは完全な傍観者、観客でしかないようだ。

 誰が語ったわけでもないのに、この頃の彼女が実際にさくらという名だった事……つまり、幼名であったことが伝わってくる。

「姫様。お食事の時間です。こちらへ」

 襖が開き、無表情な従者らしき女が無感情な声で告げる。はい、と無表情でさくらは立ち上がり部屋を出て行く。

 場面が変わる。

 牛車に乗り、ミヤコの路を行くさくらは、御簾の向こうに見える庶民の子供たちを興味深げに眺めていた。

「姫様、なりませぬ。あのように下賎なものをご覧になる必要など」

 さくらは何も言わずに下を向いた。その頭は冠のようにしつらえられた飾りで隠されている。

「……やはり、どの子供も頭に角など、ないのですね」

 小さくつぶやいた彼女の言葉は黙殺され、そのまま消えていった。まるで、少女のそんな悲しみなど存在しないかのように。

 再び場面が変わる。

 先ほどより少し成長したさくらが、剣を構えた精悍な若者を見つめている。

 すくと立ったその青年も、傍らの地面に座り込んださくらも、互いに血を浴びた、ただならぬ様子である。

「危ないところでした。お怪我は、ありませんか」

 青年は剣を収めると、さくらに問うた。

 その言葉に答えることもせずに、さくらは必死に自分の頭を隠そうとする。

 たった今暴漢に襲われた拍子に、角を隠す飾りが脱げてしまったのだ。

 月に一度の、些細な用事で出かけただけだった。極力屋敷の外へ出ないようにされている彼女だが、それでも表に出ることはある。

 以前より狙われていたのか、それとも女二人の駕籠と見て獲物に選ばれたのかはわからないが、人通りの少ない路地に入った途端に襲われた。

「よ……余計なことを。わらわを助ける必要など、なかったのです!」

 路地に倒れる、暴漢に殺された従者の娘と駕籠担ぎの男ふたり、青年に斬られた暴漢がふたり。五人分の血が地面に広がってゆく。まだ身体から溢れ続けているそれは、いくらかは地面に吸われるものの、水たまりのように広がってゆく。

 何故かさくらは、それを恐ろしいとは感じなかった。ただ、悲しかった。

「なぜ、そのような事をおっしゃるのです?」

 青年は涼しげな目でさくらを見て、言った。

「……見たでありましょう? わらわは貴人として扱われておりますが、父も知れない鬼子です。だから……頭にこのような呪いを……」

 少女の目に涙が浮かぶ。

 今まで尽くしてくれた従者に対する哀れみの気持ちが湧き上がる。あからさまに自分に対して嫌悪感を抱き、ただ役目であるから従ってくれただけの者だったが、自分のせいで殺されてしまったのは確かだ。どうせなら、自分が殺されて彼女が助かれば良かったのに……。

「角、ですか。浅学ながら、聞き覚えがあります。この世にはごく希に角を持つ者が現れると。そしてそれは神聖なものと……違いましたかな」

 恐る恐る、さくらは目をあげ、青年の顔の辺りに視線を向けた。

 青年の目は、やさしく自分を見つめていた。

「……わらわを醜いと、お思いになりませぬか?」

 今までに、こんな事を口にしたことなどなかった。そんな気になったことも、問う相手もいなかったし、そもそも周りにいる人間がすべて、自分のことを蔑み、それでも表面的には父の地位に遠慮して謙っているのが、はっきりとわかっていたから。

 青年はしゃがみこみ、まだ地面に座り込んだままの少女の頭をそっと撫でた。彼女が生まれてからずっと忌み嫌ってきた角のある頭を、慈しむかのように。

「いいえ。人は皆、それぞれです。そして検非違使はミヤコのすべての民の安全を守るのが使命。どなたであっても、理由なく奪われて良い命など、ありませぬ」

 その青年、太刀華将加斗は、その日から彼女の唯一の救いとなった。

 さらに、場面が変わる。

 目を見開き、血まみれで地に倒れた検非違使の青年、太刀華。

 いくつもの刀傷を受け、既に絶命しているのは明らかだ。

 それを見下ろしている、やまと。

 ……そうか、こうしてさくらの想い人は殺められたのか。

 やまとの心へ直接、またも伝わってくる、声無き声。

 検非違使として喧嘩の仲裁に入った太刀華を、喧嘩の当事者二人がなぶり殺しにしたこと。単なる庶民同士の喧嘩のはずなのに、二人とも大きな刃物を持っており、検非違使である彼を死に至るまで刺した事。

 不審な死、とはこういう事だったのか。

 やまとがやりきれない思いでいると、すぐ後ろに人の気配を感じた。

 振り返る。角の生えた少女が恨みのこもった目をして立っていた。

「なぜ、思い出させる! こんな事は、なかったことに……起こらないようにするのに! 邪魔者が入ってくるから、時が進んでしまったではないか!」

 大粒の涙を溢れさせながら、まだ幼いさくらは言う。

 やまとという異物を、目の敵にして。

「さくら。僕はただ……」

「出て行け! わらわはずっとここにいる。もう、悲しい事なんて起きて欲しくない! もう嫌! 一人になりたくない!」

「聞いてください、さくら。僕は」

 やまとの言葉は彼女の耳には届かない。まっすぐな怒りのこもった目を向けてくる。

 ……そうか。見たのか……いや、『視てしまった』のだ。太刀華の死の瞬間を、離れた所にいたのに、龍の角の能力で。

 かわいそうに。知りたくなどなかったろうに。

「さく


 やまとは目を覚ました。

『どうだ、わかったか。龍の角の娘は自ら望んで、もっとも幸せな場所に身を置いているのだ。それを壊してまで連れ帰るのはおまえの欲であろう。いや、おまえの罪だ。それでも望むか? 普通の暮らしとやらを』

 牛鬼は勝ち誇ったように言う。

 やまとは、打ちのめされていた。彼女の目を覚ますのが、本当に正しいことなのかどうかわからなくなった。

 自分だって、彼女と一緒にいることくらいできる。もう一人になどしない。

 でも、さくらのあの目。憎しみのこもった、まるで敵を見るような。

 耐えられない。恐ろしい。

 自分が背負えるのか? 彼女の業を。悲しみや苦しみを。

 牛鬼の言うとおり、さくらを置いていくのが正しいのではないか。

「望みは……僕の、望みは」

『ふん。やはり自分が傷つくことを恐れ、他人への干渉をためらうか。ならば娘と同じように自分だけの夢に沈むが良い。そうして、時が来るのを待て。その時が来たら、我に力を貸せば良い』

 どうすれば良い? こんな時、おろちならどうする? 刀兼なら?


 ……ここまで来てなに言ってんだ。ウジウジすんじゃねえ! 自分のやりてえようにやりゃあ、いいんだよ。

 ……自分の使命を果たせば良い。人は為すべき事を為すために生きているのだ。


 僕は、どうしたいのだ? どうするべきなのだ?

 やまとは自分の心に問う。

 思い出す、これまでのこと。

 小さな庵での、さくらの笑顔。

 いつも肩肘張ってばかりの、刀兼。

 言葉は乱暴だけど、とても優しい、おろち。

 ミヤコまでの半年余りの旅。

 いつも、笑っていたような気がする。


 僕は、幸せだった。

 そうだ。僕は、死んだ家族を取り戻したいのではなく、新しい家族が欲しかったのだ。

 ……それは、僕の欲だ。

 僕は一度すべてを失っている。思い出せないけれど、きっと思い出してはいけないくらいに、辛い過去だったのだろう。

 そして、じじ様が僕に新しい名前と、言ノ葉遣いとしての人生を与えてくれた。

 ……そうだ。何故、忘れていたのだろう。彼女のことを。

「ゆう。情けない兄に、力を貸してくれ。僕は、神を倒さなければならない」

 木刀を手に立ち上がったやまとは、決意を言ノ葉にのせて口から放った。

 目に見えない、形にもならなかったがその言ノ葉は、その時やまとの口から放たれ、確かに力を得た。

『……面白い。そうだ、やはり望むものは自らの力で奪わなければな!』

 牛鬼は再び光の剣を構える。やまとの木刀は何度も牛鬼の剣を受け止めたせいで、言ノ葉の力がほとんど残っていない。

『行くぞ、少年! 下手な小細工などない真っ向勝負だ。この一撃を受けて立っていられれば、お前の勝ちだ。あとは好きにすれば良い』

 牛鬼の体から、燃えたぎるような闘気が立ち上るのが感じられた。間違いなく全身全霊を込めた攻撃が来る。神の一撃を、受け止められるのか。

 ……いや。ここまで来て弱気など! 

「僕は、勝ちます! 皆で帰ると約束したのです!」

 凄まじい気迫とともに牛鬼は地を蹴り、一気に距離を詰め、やまとへ剣を振り下ろした。

 と、その体が不自然に左手へふらついた。

 まるで、何か見えないものに引っ張られたかのように。

「今だ!」

 やまとは思い切り、木刀を振るった。弱まっていても言ノ葉の力が加わり、牛鬼の身体に打撃を与えた。床に転がる異形の神。

「や、やった……けど、何が……いや、誰ですか? そこに居るのは」

 牛鬼が体勢を崩したあたりの空間が揺らぎ、それは現れた。

 腰まで届く長い黒髪、白い着物に赤い袴。それはミコの服装の少女だった。床に倒れて目を閉じた彼女は、やまとと同じくらいの年齢に見えた。

「……ゆう? ゆうでは、ありませんか」

 気を失っている彼女を抱え起こす。

 やまとの知っている彼女よりも明らかに年齢を重ねているが、間違いない、ゆうだ。

 しかも……。

「これは……人です。ゆうが、人間になっている」

『戻った、と言うべきであろうな。本来の姿に』

 床に手をついて身を起こした牛鬼が言う。

『その者は、天帝が健在だった頃に生きていたミコの見習いだ。戦さに赴いた兄へ断食の祈りを捧げて死に、浮遊霊となっておった。遥かな時を経て、本人も何を待っていたのか忘れてしまっていたのだ。それを』


 おまえが、呼び寄せたのだ。


 ゆうは、地獄の中にいた。

 自分の苦しみなど、ものの数ではない。空腹も既に感じなくなっている。

 ……兄様。

 母は違えど、同じ父より生まれた、たった一人の兄。

 本来なら、出会うはずなどなかった相手。

 だが、他の神による侵略という非常時の混乱が二人を出会わせた。

 ミコが人間の男性を愛することは許されない。でも、兄であれば。

 だからゆうは、彼を兄として、愛した。

 きっともうこの世には居ないであろう、あの人を。

 彼を待つ。祈りを捧げる。それだけがゆうに出来る事であった。

 待ち続けることをやめてしまったら、本当に兄様はいなくなってしまう。

 だから、待たなければならない。

 希望など、持っているわけではない。

 ただ、この身を捧げるのみ。

 

「苦しかったのだね、ゆう。辛いことを思い出してしまったのか。折角忘れていたのに、ミヤコへ連れて来てしまったから……僕のせいだね。ごめん」

 意識のないゆうの身体を抱き寄せた、やまとの目から涙が流れた。

「……牛鬼。僕の望みは、取り戻すことです。失った過去を、ではありません。僕は奪われた今を取り戻したい。それが」

 そっとゆうの体を床に横たえて立ちあがり、かつて神であった異形の存在と向き合う。

「言ノ葉遣い、やまとの望みです」

『……そうか。それが本心か。お前が理を守るのであれば、我は再び潜もう。天帝も、まだ時期が来ておらぬゆえ何もするまい。

 ……しかし、残念だぞ。お前なら、よもや壊してくれるかと思ったのだが。この世界もろとも……闇に囚われ、堕ちた愚かな神をも』

「牛鬼……」

 周囲の空気が、ゆらゆらと揺れ始めた。

 すべてが、夢か幻のように、曖昧になっていく。

『さらばだ、やまとよ』

 牛鬼の姿がやまとの視界の中でにじみ、掠れるように薄れていく。

「……良いのですか? 牛鬼様」

 どこかで、聞き覚えのある女の声がする。その声が、くうかんいてん、などと言うのが遠くで聞こえた。

 やまとの意識が遠のき、その空間から姿を消した。水の中にたゆたっていたさくらも、床に倒れていた、ゆうも。

 やまとと戦っていたのは牛鬼の傀儡……人間に姿を見せる時のための、言わばあやつり人形だ。神の力によって宙に浮き、まるで生きているように手足を動かすこともできれば、実際に言葉を発しているように見せかけることもできる。

 風鬼はぱたぱたと羽ばたき、傀儡の脇を過ぎて、壁に空いた小さな穴から隣の空間へ。そこが、本当の牛鬼の居場所である。

 石のように強固な素材で出来た巨大な浴槽があるだけで他には何もない、がらんとした場所。数十人は入れそうな巨大な浴槽は透明な水で満たされ、本物の牛鬼がそこに浸かっている……いや、潜っている、と言った方が正しいだろう。魚のように、水の中で生きているのだから。

 すうっ、と浴槽の中で姿勢を変え、牛鬼は大きな黒目だけの目で風鬼を見る。

『行ったか?』

「ええ。ちゃあんと送り返しました。あの貧乏ったらしい小屋も、式神に修復させておきましたので」

 風鬼は、納得のいかない表情のまま応える。

 牛鬼は水の中で四肢を伸ばす。つるりとした灰色の肌、手は足よりも長く、指の間には水かきが付いている。この体のせいで、水の外には長くいられない。だから神は、預言者を必要とするのだ。自分の言葉を伝える者を。

『そうか。それで良い。こちらから何もしなければ、あれは破戒者にはなるまい。だが不測の事態に備えて引き続き監視は続けよ。 ……隠形鬼を失ったのだったな。代わりのものは必要か?』

「いいえぇ。もう結構ですわ。ひとりで充分です」

 はっきりと、風鬼は断った。

 もう懲りごり。ひとりで好きにやるのが一番だわぁ……。


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