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五章「龍の角」

 おろちがミヤコに到着すると、少し詳しいことが分かってきた。

 あの雨雲は、農業地帯の一角だけに、激しい雨と雷を起こしていた。

 顔なじみや大通り沿いの商店の売り子に聞きながら、彼はその場へ駆けつけた。

 明らかに、周囲には水たまりやぬかるみなどの雨の痕跡が残っていた。

「刀兼! お前この辺にいたのか、どうなってんだこりゃあ?」

 農民らしき集団を捕縛する検非違使の中に若き隊長の姿を見つけ、声をかける。

 周囲には、結構な数の野次馬が見物している。

 まったく、暇な奴らだ。おろちは心中で毒づく。刀兼は顔を上げ、声の主を見つけた。

「……おろち。お主も気がついたのか」

 なにやら覇気がない。目の焦点が合っていないようだし、声にいつもの張りがない。

「どうした、何があった?」

 刀兼は精彩を欠いた様子で、事の顛末を語った。

「そりゃあ、ちと信じられねえような話だな」

 おろちは顎をさすりながら言う。

「嘘ではない! 幻でもないぞ! 我々検非違使だけでなく、あの者共も見ている」

 と、あたりの野次馬を指差す。それで何人かがそそくさとその場を離れていった。何か難癖でも付けられては敵わないと思ったのか。

「わかってら。別に疑ってるわけじゃねえよ。俺もあの雲見たから、ここに来たんだしな」

「……そうか。やはり、あれは幻術ではないのだな」

 気落ちしたように刀兼は言う。むしろ、あれがいつぞやの巨大鬼のように幻術でつくり出したものなら納得がいく。だが、野次馬を含めた不特定多数と、ミヤコの外に居たおろちにまで見える幻術など、あるわけがない。 

 幻術とは、人の心を惑わせてそこに無いものを見せる術だ。先刻の怪異は、現実に雨雲がわき、激しい雷雨をこの地にもたらしたのだ。

 少し乾き始めてきた水たまりをぼんやりと見つめる。

「陰ノ行者、っていったか。聞いたことねえな。そんな奴、影光寮に居たか?」

「拙者も初耳だ。あれ程の力を持つ者なら、名前くらいは聴こえてくるはずだが」

「だな。こりゃあ、なんだか不自然な気がしねえか?」

 含みを持った表情で、おろちが言う。

「ああ。 ……咲良の前様は無事だろうな? もしあの時の敵が黒幕なら、こちらに注意を引きつけて姫様を……!」

 刀兼は顔色を変えて言う。

「ああ、心配すんな。やまとがついて……って、おい! 何でお前がここに居る!」

 おろちも顔色を変えた。赤い帯におかっぱ頭の、座敷わらしもどきの姿を見つけたからである。

「何度も言わせないで下さいまし! ゆうは兄様の可愛い妹です! 兄様のあるところにゆうありです! 今後はこの言葉を格言として心に刻んでおきますよう」

 おいおい、じゃあつまり……

「おろち、刀兼! 二人も来ていたのですね! やはりこの辺りで怪異が……」

 二人に駆け寄ってくる少年言ノ葉遣い。

「……おい、姫様は今一人か!」

 刀兼がやまとに詰め寄る。

「え? い、いや、あけぼのさんがついてる。ちゃんと札と珠も渡してあるから……」

 やまとの言葉を最後まで聞かず、刀兼は走り出した。近くにとめておいた馬に飛び乗る。すぐにおろちもその後を追う。

「ま、待って下さい二人とも。さくらに危険が……?」

 慌てて追うやまと。

 ……そうでなければ良い。そうでなければ……。

 刀兼は心でつぶやいた。今までに信仰した事のない、神に祈るような気持ちで。


「やはり、にわかな気持ちでは通じぬな……」

 さくらの庵は、扉が大きく開け放たれ、火鉢の火が消えて冷え切った室内に、倒れたあけぼのの姿があるだけだった。

 幸い彼女は怪我もなく、すぐに目を覚ました。

「……わたくしが……。わたくしのせいで、姫様が!」

 あけぼのは、現状を把握すると泣き喚いた。

「落ち着くのだ。さらわれた時の状況、相手の情報など、とにかく全て語れ。それが姫様を救い出すためになる」

 刀兼は冷静に、取り乱す従者を説得する。

「……おい、やまと。大丈夫か?」

 おろちが、隣で顔色を失ったやまとに声をかける。

「僕のせいで、さくらが……」

「お前まで似たようなこと言ってんじゃねえよ。姫さんの事を気にしなきゃいけねえのに、ミヤコへ行っちまった俺も同罪だぜ。いや、むしろお前に任せっきりにしていた俺の方が悪ぃかもしんねえ」

 おろちの言葉にも、やまとは顔色を失い、うつろな視線を宙に漂わせたままだった。

「僕が……僕のせいだ……。言ノ葉遣いなんて、いい気になって」

「おい、やまと……」

 声を掛けようとするのに対し、

「おろち。今はやまとを気遣っている余裕はないぞ。まず拙者とお主の二人で動くが良かろう。父上にも相談して、何人か検非違使庁から人員を借りて情報収集にあたらせよう」

「あ、ああ……でもよ」

 さすがにそれは、と言いかけたおろちに、刀兼は毅然たる口調で言った。

「とにかく姫様を探すのだ。そして、救い出す。拙者が今考えているのは、それだけだ」

「ええ……そうしてください。僕なんて足手まといにしかなりません」

 うつむいたまま、やまとは弱々しく言う。

「な……貴様、そこまで」

 言いかける刀兼を横目に、おろちが無言のまま拳を振り上げた。

 がつっ、と鈍い音がして、やまとは尻餅をつく。まともに頬を殴られた。

「お、おろち……?」

「てめえ、それでも男か! うじうじと自分の殻に閉じこもってんじゃねえ! そうやって自分を守ってるうちに、さくらが殺されたらどうする! お前が助けてやれ! 力があるのに何もしねえのは、見殺しにするってことだぞ!」 

 その言葉に、やまとは顔をあげた。

「見殺し……そんな……僕は」

「お前ならできんだよ、やまと。下向いてんじゃねえ。目ぇ背けんじゃねえ。姫さんを助けてやろうぜ」

 倒れたままのやまとに手を差し出す。その手を握り、立ち上がる。

「……そうだ。僕が……僕が、さくらを助けます。絶対に、助けます」

 まだ表情は冴えないが、目に輝きが戻っている。やっと前向きになったようだ。

「そうだ。もう、逃げんじゃねえぞ」

 珍しく、やまとに対して厳しいことを言うおろち。ここで逃げてしまったら、やまとが完全に駄目になると思ったからだ。

「ごめんなさい。もう大丈夫です」

 やまとは吹っ切れた表情で、言った。

「よし。目が覚めたようだな。ではまず情報をあつめるぞ。あけぼの、姫がさらわれた時の事を教えてくれ」

 刀兼は、やまとにつられたか、先刻よりは顔色の良くなった従者に言う。

「はい! ……ですが、その」

 やまとが出て行ってから、さして時間は経っていない頃合だという。

 なんの前兆もなく。

「……目の前が真っ暗になって気ぃ失って、気がついたらこうなってた、と」

「はい……。申し訳ございません」

 頭を下げるが、謝ることでもない。

「要は、なんの情報もなし、ってことか」

 おろちの言葉に、あけぼのは更に申し訳なさそうにするが、ふと目を上げると、

「ですが……気を失う直前に、裏手に人の気配を感じた気がします。それと何やら……呪文のような声を耳にしたような」

 裏手、つまり一つきりの入口の反対側、ということだ。

 粗末な庵の裏側には、明かりとりの小さな窓があいている。

「やまと、庵は封印して行ったのか?」

 おろちの質問に、やまとは首をふる。

「札で、簡単に入口を封じただけです……。様子を見たらすぐに戻るつもりでしたし」

「って事ぁ、裏手は無防備だったわけか。窓から式神なんかを忍び込ませるのも簡単だな」

 呪術など能力のある者なら、あけぼのの意識を奪い、咲良の前をさらう事はさして難しくはなかった、という事だ。

「しかし、こりゃあ……」

 どういう状況だ、とおろちは思う。

 ミヤコで怪異が起こった。まずは農民たちの反乱。そこに怪異の兆しありとして刀兼が呼ばれた。次に、急な雷雨。ごく限られた場所だけに雨雲が集まるなど、これはあからさまな怪異だ。そしてそれを突然現れた謎の影光師が収めてしまい、続けて農民たちに憑いていたモノも祓ってしまったという。

 こうした一連の事が、さくらの拉致と関わりがあるのか否か。

 無関係とするのは出来すぎとも思えるが、賊は隙をうかがってずっと庵を見張っていたのかもしれない。

 もし関係がある……つまり、怪異は何者かが起こした、三人を咲良の前の庵から引き離すためのものであったとすれば。

 農民の反乱には、明らかに何かの力が働いていたという。検非違使の出動した事件で怪異となれば刀兼は現場に招集されるだろうし、それで手に負えなければ言ノ葉遣いの二人を呼んだかも知れない。

 だが実際には、すべてを祓ってしまった男が現れた。

「問題はその陰ノ行者が敵か味方か、ってこったな」

 怪異を起こしたのは何者かの陽動かもしれないが、それを鎮めた陰ノ行者の行動は、それも含めての作戦だったのか、それとも怪異を起こした何者かとは全くの無関係で、勤めとしてそれを祓っただけだったのか。

 状況から言えば、後者だ。

 天変地異のような怪異が長引けば、当然多くの人間の注意が惹きつけられるはずだ。もしそれを陰ノ行者が起こしたのなら、自ら鎮めるというのは筋が違う。

 だが、刀兼の話を聞くと、味方というわけでもなさそうだ。

「刀兼の印象からすると、どうなのです? その影光師は、僕らの敵であると?」

「ああ。拙者は絶対にそうだと思う。理屈ではなく、肌で感じたものだがな」

 自信を持って刀兼は応える。

「……すると、例の四鬼の他にも強敵出現、ってわけか。たまんねえな」

 おろちは悲観的に言う。

「でも、四鬼はミヤコにとって敵なのですから、影光寮もいざとなれば一緒に戦ってくれるのではないでしょうか」

 やまとは楽観的な意見を述べる。

「いや、あの男は例の連中の仲間かもしれん。ミヤコに怪異を起こして、それを自ら祓ってみせる事で自分の力を示し、内裏に対する発言力を強くするのが目的と考えることもできる」

 貴人の発想で刀兼が言う。

「……ま、わかんねえことはいくら考えてもわかんねえ。とにかく調べてみようぜ」

 考えるのに疲れたおろちは、行動を起こすべく立ち上がった。


 ……何なのだ、あの陰ノ行者という男は?

 影光師・阿比明聖は、その日何度目かの疑問を自らの心に浮かべた。

 影光寮の一室。彼は個人で使用する部屋を与えられている。

 昨日、急に通達があり、明聖は名も聞いたことのなかった男の部下として動くことを命じられたのだ。

 影光寮は、家柄や経歴、年齢などよりも本人の能力……つまり怪異を退治する力で優劣が決まる、完全な実力主義である。そもそも怪異に対する力というのは生まれつきのもので、ない者はいくら鍛えようと身につくことはない。持って生まれた能力を研ぎ澄まし、いかに巧く使うか。鍛錬はそこに集約する。

 明聖は、代々影光師を数多く輩出してきた阿比家の当代嫡男として、幼少よりその才を磨き、順当に影光寮に入寮して着実に実績をあげ、職位を上げてきた。

 現在、あと少しで『大属』に手が届きそうな頃合であり、彼の年齢としてそれは、大変な出世であった。

 だが、それをあの男は……。

 いきなり寮に入ってきた、素性もしかとはわからない男が『助』の役職に就いてしまったのである。そして、ミヤコの平穏が乱されようとしている、などという言葉で呼び出されたのが先刻の農業地帯での一件だ。

 一体、今日のあれは何だったのか。 

 明聖は思い返す。

 招集をかけられて出向いた先の農地では、雨雲が空を覆い雷雨が大地に降り注いでいた。

 あの男、陰ノ行者は先に来ていて、豪雨の中で仁王立ちしていた。

 振り返ると青空が見えた。ごく限られた、その場所にだけ雲が集まっていたのだ。

 桁はずれの能力を発揮して陰ノ行者はあっさりと怪異を鎮め、農民たちに憑いていたものも祓ってしまった。

 検非違使たちに喧嘩を売るような、恩を売るような、どちらともつかない態度で。

 いくら怪しかろうと、陰ノ行者がミヤコの怪異を祓い、平穏を守ったのは確かだ。であれば、かの者は影光師として立派な働きをしたということである。

 ……などと、殊勝に他人の功績を認めるような人間ではないのだ。阿比明聖という男は。

 あの男、陰ノ行者には、絶対に裏があるはずだ。

 大体、あんな呪文の遣い方で、呪力が発揮できるはずがないではないか。

 あんな、影光道の流儀を上っ面だけ聞きかじって真似したような……

 ……そうなのか?

 本当は呪文など必要のない能力使いであり、何らかの理由で『影光師のふり』をするために、わざと必要のない呪文の真似事をやってみせただけ……?

 そんな、まさか。そのような人間が存在するというのか? だとすれば一体、何者だ?

 結局、最初の疑問に戻る。何なのだ、あの男は?

「明聖様。陰ノ行者様がお呼びです」

 部下が室外より声をかけた。寮に阿比姓の者は多いので、下の名前で呼ばれるのが通例である。

「すぐに行く」

 短く答え、明聖は身支度を整えた。

 

「阿比明聖です。参上いたしました」

 陰ノ行者の執務室前で名乗ると、

「入りなさい」

 静かな口調で返事があった。

「失礼します」 

 室内は実に質素であり、大きさも明聖のそれよりも狭いくらいだ。

「お呼びでしょうか」

 言いながら、目だけで観察する。入寮したばかりとはいえ、ほとんど私物もなく、がらんとしていた。欲の薄さが現れているかのような部屋。

「実は近々、どこか広い場所に民衆を集めたいのです」

 上座に座る男は、何やら巻物状になった書物に目を落としたまま、ほとんど感情を出さずに淡々と言う。口調はていねいだが、相手に敬意などこれっぽっちも持っていないのがわかる。

「民衆……平民どもを、ですか」

 一体何のために。今日も周りにどこからか集まってきた野次馬どもが居たが、それをわざわざ集めようというのか?

 ええ、と室内でも黒ずくめの男は言い、

「そういった実務的な事は苦手でしてな。ぜひ、お骨折り頂きたい」

 口調はやはり丁寧で、目下の者に対してへりくだっているようでもあるが、影光師としての本領……憑き物祓いや呪術以外は苦手なので任せる、と言っているのである。

 名門、阿比家の次期当主に向かって!

「ええ。お任せ下さい。時期は、いつごろでしょうか? どれくらいの人数を」

 内心の屈辱はおくびにも出さず、明聖は言う。この程度の事を呑み込めないようでは組織の中で出世などできない。出世して、偉くなってから自分よりも下の者に威張れば良いのだ。鬱憤を晴らしてやれば良いのだ。

「なるべく早く、なるべく多く」

 簡単明瞭な答え。

「わかりました。お任せ下さい」

 明聖は平伏し、言った。

 陰ノ行者は、最後まで巻物から目を離さず、明聖を見もしなかった。


 咲良の前の庵周辺には、複数の人間の足跡があった。特に裏手に集中しており、どうやらおろちの見立て通り、ここの窓から何かをされたらしい。

 更に、山の麓で聞き込んでみた結果、人目を忍ぶように山道を登っていく者たちを見たという話が聞けた。時間から言って、その連中が姫をさらったと見て間違いなさそうだ。

 人数は四人か五人くらい、簡素な服装であったが、あきらかに平民ではなさそうだったという。影光師は歴とした貴族。わざと目立たぬ服装で庵に向かった、とすると筋が通る。やはり、影光寮は敵と見るべきか。問題は、そこに陰ノ行者が含まれるかどうか、だが。

「拙者はやはり、そうだと思うが」

 ほぼ確信に近い思いで刀兼は言う。

「やっぱり、その男が黒幕だと?」

 ああ、と頷く。なんと言われようと、刀兼にはそうとしか思われない。

「まあ、そう考えておいた方がいいのかもな」

 珍しく慎重に、おろちが言う。敵らしき謎の男の強さ、すでに咲良の前がさらわれてしまっている事など、慎重にならざるを得ない状況なのだ。

 ……怪我など、させられていないだろうか。やまとは心中で彼女の笑顔を思い出して無事を祈った。


「確かか?」

 阿比明聖は、部下の男に念を押すように言った。

 陰ノ行者の事を、なんでも良いから探り報告せよ、と信頼できる部下を数人選んで命じていたのに対し、翌日に早くも一人が聞き逃せない情報を持ってきたのだ。

 どこからか貴人の女性をさらってきて、自邸に閉じ込めている、という。

 しかも、その拉致には影光寮の人間が関与しているという。

「昨日、陰ノ行者からの内密の指令で若い女性をさらったと。実際にそこに居合わせた者が、酒の席でうっかりと口を滑らせまして」

 それは尼僧の格好をしていたが、あきらかに貴族の女性であったという。ちょうど、農民たちの事件のあった頃だ。

 その者は、酔いが醒めた後は一切知らぬ存ぜぬで口を閉ざしているらしい。

「ふむ……。怪しいが、それだけでは何とも言えぬな。本人に問いただしても素直に答えるはずもなし……」

 明聖は考え込むふりをしてみたが、一向に良い考えは浮かばなかった。何しろ相手は普通の術者ではない。

「何者だ? その、尼僧の格好の女というのは……」

 せめてそれだけでも知りたいと思ったが、あの男の自邸を探るのは躊躇される。

 何とかならないものか、と頭をひねってみたが何も浮かばない。下手に式神や呪術を遣えばこちらの身が危険だろう。

「くそっ。あからさまに怪しい男であるのに……口惜しい」

 結局、明聖は中途半端に情報を得て、余計に悔しがっているだけであった。

 更に腹ただしいことに、疑惑を向けている本人より命じられた任務により、今日も自分が人を集める場を探したり、その許可を申請したり、などと働いているのである。

 そうして相手の懐に潜り込んで油断させ、化けの皮をはがしてやる……などと妄想して自分を慰める明聖であった。

 

 その晩、陰ノ行者の屋敷にて。ミヤコの中では上等と言えない場所にあるが、敷地は広く、古いながらも大きく立派な家屋だ。記録には残っていないが、実は血腥い過去があり、その名残で半分地面に埋まるような構造の厳重な座敷牢がある。

「お姫様は、おとなしくしているのぉ?」

 屋敷の一室、一本の燭台がともるだけの薄暗い部屋で、風鬼は言った。

「ああ。食事も採っているようであるし、自害する気はなさそうだ」

 陰ノ行者と名乗り、修行僧のような黒ずくめに身を包んだ男に化けた隠形鬼は応じた。

「ふうん。じゃあ、生きる気になってるのねぇ……。どうするの? 牛鬼様の指示通り、言ノ葉遣い達と引き離したのは良いけど、絶望させて、自ら死んでもらわなくちゃならないのよ?」

「まあ待て。時機は、すぐに訪れる」

 こいつ、こうして人に化けてると割によく喋るのよね、と風鬼は思う。自分が主導者だったはずなのに、いつの間にか隠形鬼が仕切る形になっているのが気に食わない。

 大体、あの時だって……と、風鬼は思う。

 能力の限りを費やして、雨雲をミヤコの一角に集めたのは自分だ。いくら風を自在に操れるからと言って、気圧をむりやりに変動して雨雲を集中させるなど、完全な過負荷である。隠形鬼がもっともらしい演技で呪文を唱えるまで必死に雲を留めておいたせいで、そのあと半日、彼女は仮死状態になったのだ。

 確かに、農民と検非違使の全てに剣の攻撃が当たらない、という暗示をかけるのも大した労力だとは思う。しかも本人は人間に化け、それらしい演技をしながらその術を継続していたのだから。

 それにしたって、このあたしが脇役? 断じて納得がいかない。

「あらそう。じゃあ風鬼ちゃんは何もせずに大人しく待っていれば良いの?」

 空中に浮かんだ小さな娘は、唇を尖らせた。

「ああ、そうしてくれ。既に手は打ってあるのでな」

 隠形鬼は、影光寮の大物になりきった重々しい口調で、そう言った。


「ゆうが、居ないんです!」

 その翌朝、つまりさくらが失踪してから三日目の朝。やまとは、血相を変えておろちに訴えた。

「ああ?」

 あの、座敷わらしもどきが居なくなった?

「確かか? ……て言うより、いつからだ? 昨日の晩飯は……?」

 さくらがさらわれて以来ずっと動き通しで、考えてみれば二人とも、まともな食事などしていなかった。

「怪異のあった農地以来、姿を見ていないのです。気紛れだから、そのうち出てくるだろうと気にとめていなかったのですが……」

 その気持ちはわかる。だが、いかにも長すぎる。ゆうがそんなにも長い間姿を消していたことなど、今までになかった。何より、やまとが呼んでも出てこないなど。

「どうしよう……僕が、さくらの事ばかりで気づいてあげられなかったせいで、ゆうの身に何かあったのなら……」

 やまとは本気で心配しているが、おろちはあまり深刻にはなれなかった。

 そもそも、ゆうという存在自体が何なのか不明なのだ。

 おろちは何となく、妹を亡くしたやまとが無意識で作り出したものではないかと思っていた。要は、幻術のようなものだ。実際にゆうと接しているとそんな気はしないが、他の人間には見えず聞こえず、つまり存在しないのであるから、やまとが自分も含めた身内にだけ見せている幻、というのが最も納得できる答えなのである。

 自分の信用している相手にしか見えないから、傷つけられることも奪われることもない『妹』。

 そういう事なのではないかと思うが、それを本人に言うのはためらわれた。

 お前の妄想だよ、と言っているようなものだから。

 それに、おろち本人もその答えを心のどこかで否定しているのだ。

 ゆうが、ただの幻である、という事を。

「ま……まあ、あいつが居なくなるってのは、よくある事だしよ。それがちょっと長くなってるだけで……そうだ、動物みてえに冬眠してんのかも知んねえぞ? ミヤコに来てから特によく食ってたから、冬ごもりの準備だったのかも」

 我ながら苦しい仮説を披露するが、やはりその言葉は空々しく響いた。

「……そうですね。そうかも知れません。僕は兄なのに、ゆうの事は何も知らないのです」

 どうやら力づける事にも失敗したようだ。

「ま、まあ……とりあえず朝飯にしようぜ! 久しぶりにまともなもん食いに行くか? 食い意地の張ったあいつの事だ。うまい飯食ってたらひょっこり、匂いに釣られて出てくるかも知んねえし」

「……そう、ですね。そうしましょう。 ……すみません、僕がもっとしっかりしなくては。ゆうもさくらも、助け出せなくなってしまう」

 明らかに無理をして言うやまと。

「そうだぞ。人間ってのはな、ちゃんと食ってりゃあ力が出るし、それで何とかなるもんだ」

「はい」

 やまとは、小さく弱々しい笑顔を浮かべた。

「やまと、おろち、居るか?」

 刀兼だ。彼も検非違使の任務を極力減らしてもらい、、さくらの捜索に尽力している。

「あけぼのが、行方をくらました」

 板間に車座になって座るなり、そう言う。

「あけぼのさんが?」

 ミヤコからついて来ていたさくらの従者だ。やまとは目を丸くする。

「それ、どういう事でしょうか……? ご自分の責任を感じて?」

 そうなら良いがな、と刀兼は暗い目をする。

「どういう意味ですか」

 やまとは、認めたくなかった。だが、おろちは思い当たる節もあったようで、

「ま、思い返してみりゃ怪しい所もあったって事だ。責任感じてるなら、尻尾巻いて逃げ出すってぇのは筋が違うわな」

 やまとは、ひとつため息をついた。明瞭な言ノ葉にはしたくない。それでは、さくらはずっと一人だったのではないか。唯一信頼していた従者も裏切っていたなど……。

「だからこそ、俺たちが助けてやらなきゃな」

 おろちは優しい目をしてやまとの肩をたたいた。

 ここからが本題だ、と刀兼は言う。背すじの伸びた正座のまま。

「なんだ、まだあんのかよ」

「ああ。陰ノ行者が今日、何かをやるらしい」

「何か、って何だよ。そんなんじゃ手のうちようもねえ」

 おろちが不満の声をあげる。

「そう急くな。検非違使庁に警備の要請が来た。今日の昼、右京七条の西市広場にて、ミヤコに降りかかる災いの元を断つと、影光寮をあげてミヤコ中に触れ回っておるぞ。見物人を集めて、何かを企んでおるようだ」

「行きましょう。おろち、刀兼」

 思いつめた目をして立ち上がるやまと。

「ちょ、ちょっと待てって。今から行ったってまだ早すぎんだろうがよ!」

「ですが、影光寮が動いているのですよ? ひょっとするとさくらも……」

「落ち着けって。そんなんじゃ、相手の思う壷だぞ?」

「しかし……」

 押し問答しているところへ、更なる来客が。長教の僧の格好をしているが、実は出家などしていない、それでいて経典や呪文などはすべて修めている……その目的も、正体も、全てが謎の老人。

「じじ様!」

「おお、久しいのう、やまとよ。息災であったか?」

 天狗が、いつもの飄々とした表情で戸口に立っていた。

「ジジイ、良いところへ来た! やまとの奴がよ……」

 安堵の表情を浮かべるおろちを片手をあげて制し、

「いよいよじゃぞ。やまと、おろち……。おお、刀兼も久しいのぅ。立派になりおって」

 目を細める僧形の老人に、刀兼は覚えがない。

「覚えておらぬか。むかし五条川原で、河童に襲われておったのを助けたのだがの」

 その言葉で、刀兼の記憶に蘇る光景があった。

 そうだ、あの時……川から出てきた水かきの付いた手に足首をつかまれ、そのまま引きずり込まれそうになったのを助けてくれた、お坊様……。

「あの時の! ……そうでありましたか。では、ひょっとして父上に拙者の『視る力』のことを教えていただいたのも……?」

 まあそういう事じゃ、と天狗は視線を逸らす。

 やはりこの老人はずいぶんと前から裏で糸を引いていた。

 ……まあ、それでこそジジイだ。おろちは思う。

「おう、そうかそうか。それだけずっと前から動いてたんなら今度の事もある程度、分かってんだろ? ジジイ、そろそろ話してやらねえとやまとの奴、暴走しかねねぇぞ」

 若干の脅しも含めて言う。

「わかっとるわい。今まで、裏を探っとったんじゃ」

 よいせ、と板間に腰をおろす。

「今日はまた一段と冷えるのう。老体には堪えるわい。 ……安心せい、姫様は無事じゃ。陰ノ行者……隠形鬼に捕らえられておる。ただ、ゆうの事はわからぬがな。

 ……やまと、湯を一杯もらえぬか」

「あ、はい。じじ様」

 立ち上がるやまとの表情が少しだけ、明るくなっていた。

「すまんの。 ……ああ、温まるわ。さて」

 相変わらず真意の読めない表情で天狗は言う。

「姫様の『龍の角』は、龍を操る者の証じゃ」

「龍、だと?」

 唐突な言葉に、面食らった様子のおろちが言う。

「そんなもん……今でも居るのか? 神話の中にしか出てこねえモンだろうが」

 物の怪やあやかしの類とは訳が違う。龍は神の使いであり、神そのものでもあるのだ。

 だが、牛鬼という堕ちた神が敵として存在しているなら、龍もまた……?

「居るわい。神と同じく、龍も死なぬ。今は身を潜めて眠っているだけよ。そもそも、ミヤコ自体が龍を蘇らせるためのものでもあるしな」

「なんだ、そりゃあ?」

 天狗の言うことは突拍子もない内容になってきた。刀兼達も唖然として聞いている。

「問題は」

 茶碗の湯を飲み干し、天狗が言葉をつなぐ。

「まだ、龍が目覚める時ではない、という事じゃ。姫様が龍を起こしてしまうと、まずい事になる。下手をすると龍が完全に駄目になるかもしれん」

「おいおい。龍は死なねえんじゃなかったか?」

 苦笑交じりにおろちが言う。

「死にゃあせん。龍じゃからな。だが、目覚めが更に遠のくかもしれん、という事よ」

 ますます妙な具合に話が進む。

「じじ様。それで……さくらを救うには、どうすれば良いのですか? 今日行われる何か……ミヤコの災いを祓うというのは?」

 うむ、と天狗は首を振る。

「何かやらかすつもりじゃろう。だがな、奴らは姫様に危害を加えることは出来んのじゃ」

「どういう事ですか?」

「それを調べるのに時がかかったのじゃ。何せ、一番重要なところだからのう」

 思わせぶりに言う。わかったから続きを、とおろちが急かす。

「ふむ。やつら四鬼は牛鬼、つまり神のつくったモンじゃ。だから神には手が出せんようになっておる。それが、天帝の血をひく者にも通じておるということよ」

 それで……と、刀兼が口を開く。

「あの時、従者として間近に居たにも関わらず手を出さずに、拙者どもに姫を殺めさせようとしたのか」

 やっと、合点がいった。姫を自害させるか、誰かに殺させるしかなかったのだ。

「話を聞いてそうではないかと思っておったが、やはりそうであったわ。それに」

 と、天狗は意味もなく窓から外を見た。冬晴れの青空が広がっている。

「下手な殺め方も、できんのじゃ。姫様が生きたいと思い、目の前の危機を退けようとすると、それに反応して龍が目覚めてしまうかもしれんのでな。龍の角を持つ、自分の『主』を助けるために」

 龍だの角だの、そんな事どうやって調べたんだよ、とおろちが当然の疑問を口にする。

 そんなもん、神様にでも聞いてみなけりゃわからねえじゃねえか……。

「おいジジイ、まさか」

「蛇の道は蛇。それ以上詮索するでない。 ……やまと。もう一杯もらえぬか」

 天狗の言葉に、素直に従うやまと。

「ゆうの事は、ワシにもわからん。多分今回の事とは無関係ではないかと思うのじゃが」

 俺もそう思うぜ、とおろちも同意する。

「……そうですね。じじ様がそう言うなら、きっとそうなのでしょう。僕も、そんな気がします」

 やまともうなずく。きっと、そうなのだ。自分が目を離している隙に、何かがあった。

 理屈でなく、思った。ゆうが消えたのは本人の意志であると。

「……で、ご老体。具体的にどうすれば? 拙者はこたびの警備を任されることになるのですが」

 刀兼の言葉に、天狗はうなずく。

「それで良い。検非違使としての任務をまっとうするが良い」

 その言葉に、刀兼は拍子抜けする思いであった。最悪の場合、検非違使庁に楯突く事も覚悟していたのだ。

「その逆じゃ。お主は何があろうと検非違使であれ。 ……良いか。何があろうと、じゃぞ?」

 妙に念押しする。横で聞いているおろちは、何やら不穏な予感にとらわれる。

「おいジジイ。まさか俺たちを捨て駒にしようとか、そんな心づもりじゃねえだろうな? 俺はともかく、こいつらの命を危険に晒すような事ぁ……」

 天狗はさも心外そうな表情になる。

「おろちよ。そこまでワシが信用できんか? お前らに命を捨てさせる時には、ワシが先に死ぬわい。それでなくては浄土へも逝けなくなるわ」

「……信用はできねえが、とりあえずそういう事にしといてやらぁ。ま、そりゃ俺も一緒だ。こいつら二人が死ぬなら、俺が先だ」

 ちょっと、とやまとは穏やかな表情で言う。

「二人とも、やめて下さい。誰も死にません。ここにいる皆も、さくらも、ゆうも……」

「うむ。拙者も無駄死には絶対にせん。検非違使の命は、ミヤコの民のためにあるのだからな」

 全員を助ける、全員が助かる。四人に共通認識が生まれた。確かにそういう言ノ葉がその時、編まれたのだ。

「さて、それでは策を授けるぞ。ただし良いか、これはあくまでも予測に基づくものじゃ。相手の出方次第で、その場で変更していかなければならぬ。それはお前らに任せるしかないんじゃ。そのための判断基準を与えるようなものと思え。良いな?」

 三人はうなずく。よし、と天狗もうなずいた。

「まず、刀兼は先刻言ったとおりじゃ。何があろうと、検非違使としての任務を全うせい。そして二人は、何があろうと耐えるのじゃ。姫様がどのような目に遭っても……そして場合によっては刀兼やワシの事を見捨てても、絶対に行動を起こすな。ワシが合図するまで、何もしてはならぬ。奴らは姫様だけでなく、あわよくばお前らもまとめて始末するつもりじゃ。我慢できずに手を出したら負けと思え。

 ……できるか? できぬのであれば、この場にとどまり、目を閉ざせ。耳を塞げ。決してミヤコのことを知ろうとするな。そうでなければ、姫様はおろかミヤコが……いや、このクニが滅ぶかも知れぬ」

 おい、そりゃあいくらなんでも……

「大げさすぎねえか? それくらいの心づもりでいろ、ってぇ事なんだろうけどよ」

 おろちは言う。天狗は曖昧な表情になる。

「……まあ、そういう事じゃ。それ程に事態は切迫しておる。それは確かなことじゃ。信じてくれ。ともかく信じてもらわねば、ワシにもどうにもならぬ。本当じゃ」

 三人はそれぞれ、うなずいた。

「良いな? 続けるぞ」


 右京七条は、商店が多く軒を並べる商業地区である。

 毎月五のつく日には露店が並び、盛大な市が開かれる広場がある。中央に大きく場所をとっても、その周りに見物客が数百人収容できるほどの広さがあるため、市のない時には大道芸人が集まって見世物を披露したり、土俵が設置されて相撲大会が行なわれたり、平民のための祭りが行われる時には中央に神楽が組まれたりもする。

 そこで今日、影光寮が飢饉の続くミヤコの災いを祓うというのだ。それを多くの民衆に見せようと見物客を集めている。

 内裏からの正式な命令により、検非違使治安部隊の一番から三番隊までが警備に就く事になった。既に広場中央には木組みの大きな舞台が設置されている。

 その舞台を囲んで受け持ちが三等分され、刀兼の三番隊は南から西側の警備を任された。

「隊長。隊員の配備、完了しました」

「ご苦労」

 刀兼は言い、自らは会場内を一周してみることにした。広場は周囲に塀があるわけでもなく、どこからでも入ってこられる。まだ始まるまで時間があるが、広い会場には、既に三割程度を埋める見物客が集まっている。人手を見込んで物売りも来ていて、まるで祭りのような雰囲気だ。他の地域に比べれば、ミヤコはやはり裕福なのだ。

 天気は快晴、日差しのおかげで暖かくなってきた。

 隊員たちは舞台を背にしてぐるりと取り囲むように配置され、見物人に対して目を光らせる。

 広場に人が増え続けている。この様子では始まるまでにすっかり埋まってしまうのではないだろうか。果たしてそれが良いことなのかどうか、刀兼にはわからない。やまととおろちの二人は見物客に紛れて会場に入る手はずなので、あまり人が居ないとまずい、というのはあるだろうが……。

「いや、拙者はとにかく検非違使としての任務に徹するのだったな……ならば、監視対象は少ないほうが良いが……。まあ、そう都合良くは行くまい」

 時間が迫るにつれて増えてくる人の群れを見て、刀兼はひとりごちた。


 陽は中天に至り、刻限となった。舞台の周りは人でいっぱいになっている。警備の検非違使たちの緊張も高まる。影光寮が何をするつもりなのかは分からないが、彼らは歴とした貴族である。民衆の中によからぬ事を企む者がいて、舞台に乱入するなどの狼藉を働かれては、警備を受け持つ検非違使の面子が潰れる。

「お、来たぞ」

 観衆の何人かが目ざとく、何台かの牛車が近づいてくるのを見つけた。人ごみをかきわけて舞台へ向かう。その後ろには、人夫がひく荷車が続いていた。荷台には粗末な袋に入った荷物がいくつか載っている。

 先頭の牛車から、黒ずくめの男が降りてきた。

「おお、陰ノ行者様だ!」

 観衆の中から、感極まったような声があがる。

 舞台の最前列に陣取った一群、よく見ると農具を持って検非違使とにらみ合い、憑き物を祓われた男たちだ。あの後彼らは、大した咎めもなく解放された。陰ノ行者は彼らにとって恩人と言えよう。

 つられるようにして、あちらこちらから歓声が起こった。

 大した人気だ、と刀兼は苦々しく思う。

 同じく苦い思いで歓声を聞いていたのは、二番目の牛車から出てきた阿比明聖である。

 この場所を用意し、民草どもへの宣伝活動を仕切ったのは彼だが、今日、ここで何が行われるのかは知らされていない。例によって、ミヤコの災いの元を断つ、という思わせぶりな言葉だけである。もっとも、それは影光寮の全員がそうであり、そんな説明でよくも内裏が許可をしたものだと、驚くというより呆れるような思いであった。

 しかし実は明聖には含むところがあるのだ。今日この場で、あの男の正体を暴いてやる……。

 

 昨日の晩のことである。

 何者かが、明聖の寝所に忍び込んできた。

 名高い影光師である彼の屋敷に、それも本人の寝所へ忍び込むとは実に豪胆と言えるが、どうやら相手は並みの相手ではなかった。

「ごきげんよう、明聖さぁん?」

 いきなり就寝中に頭の上から声をかけられても、慌てふためくことはない。その程度の事で平常心を欠くほどに未熟ではないのだ。内心はどうあれ、表面上は平静を装って明聖は身を起こす。

「何者だ。あやかしか、もののけか……あるいは式神か?」

 枕元にいつも置いてある短刀に目をやる。それは今、ちょうど侵入者の足元にある。それで相手に切りかかろうというのではない。霊的な力をもった刃を依代にして呪力を発揮しやすくするためのものだ。

「あら。こんな物騒なものを置いてるのねぇ。これであたしを斬るの?」

 暗がりの中でも分かる程に、それは美しい女性であった。内裏でもあまり見られないような華美な着物を着、髪も化粧も綺麗に整っている。

「……いや、やめておこう。お主が妖怪変化の類であったとしても、女性の姿をしているものを斬るのは目覚めが悪い」

 そもそもそんな気もなかったのに、明聖は言った。相手より心理的に優位に立てるよう、なるべく余裕を感じさせるように。

「あらあ、お優しいのねぇ。あたしは好きよ、貴方みたいな」

 ……愚かな男はね。

「……でも、そうねぇ。阿比明聖さん。今、何か不満を抱えているのではなくって? あたしはその気持ちに応じてここへ現れたの。憎い、居なくなってもらいたい相手が居る、そんな暗い欲望があたしを呼んだのよぅ」

 ほう、と明聖は声をもらした。どうやらこれは、人を惑わすあやかしであるようだ。

「それで? お主はその望みを叶えてくれるというのか。影光師ですら適わぬ相手であっても?」

 あえて相手の話に乗ってやろうと、明聖は布団の上にあぐらをかいた。

「そうよぉ。あなたが真剣に望むのなら、ね」

 女は片目をつむり、明聖に笑いかけた。その美しさは明らかに、人のものを超えていた。

 ミイラ取りがミイラに……ということわざはこのクニにはないが、明聖はいつのまにか女の術中にはまっていた。理性が弱まり、自我を失いかけている。

「ああ……。あんな奴が影光寮に居て良い訳はないのだ。いっそミヤコから、いやこのクニから居なくなってしまえば良い……それが世のため人のため……いやむしろ私のためだ」

 それが、と女は嬉しそうに目を細めた。

「貴方の望みね? よろしい、叶えて差し上げるわぁ。ただし、ほんの少しだけ骨を折ってもらうけどねぇ」

 女は相手が完全に自分を失ったのを見てとり、本来の姿に戻った。

「憎い相手を破滅させてやれ。大丈夫、言う通りにすれば簡単なこと……」


 朝、目を覚ますと枕元に女からの置き手紙があった。その中には陰ノ行者の正体、彼の起こす奇跡のごとき現象の種明かしなどが暴露され、どうやって相手を破滅させるか、明聖のなすべき事が記されていた。陰ノ行者はとんでもない力の持ち主だが、確かにこれならできる。要は力の使いどころ、一点集中であればあの男が相手でも負けはしない……。


 明聖は他の影光師達と共に舞台に上がり、観衆を見下ろした。広場を埋め尽くす、人、人、人……まさに黒山の人だかりだ。軽く数百人は居るだろう。それぞれ好き勝手に、舞台に上がった影光師達を指さして何か言ったり、隣の者とこの場とは無関係そうな話題で笑い合っていたり、泣き叫ぶ幼子を抱いてあやしていたり……要は、烏合の衆の集まりである。しかし、よくもこれだけ集まったものだ。自分で宣伝活動をしておいて何だが、ミヤコの民は実に野次馬趣味の者が多い……。


 きいぃぃぃん。


 耳をひく、金属質の澄んだ音がした。陰ノ行者が手に持つ、細長い棒のような物がたてた音だ。その場の者どもが初めて聞く、奇妙な音色。

 その音は長く尾を引いた。余韻が少しずつ収まっていくと共に、広場に集まった群衆の意識が、舞台上の黒衣の男へ吸い寄せられるように集まっていく。

「皆の者」

 見物客を相手に、陰ノ行者が語りかけた。特に大声をあげたわけでもなく、ごく自然に発した声が、一瞬にして全員の耳を奪った。先程まで泣き喚いていた子供までもが泣きやみ、何事かと驚いた顔で周囲を窺っている。

「今、ミヤコは邪悪なモノに祟られておる。それは天からの雷や作物の成長を妨げる季節はずれの天候、そこかしこで起こる怪異として現れておるが、我々影光師は遂にその元凶……災いのもとを突き止めたのだ。それは」

 と、言葉を切り、観衆を見渡す。数え切れない程の人間の、目と耳と意識が自分の言葉に向けられているのを確認し、陰ノ行者は続けた。

「ミヤコの中に人の姿に化けて潜み、我々を呪っている」

 その言葉に、人々はざわめきだす。周囲の人を見渡して、もしやお前が、などと疑惑の声が漏れ、不穏な空気になりかける。

「案じるでない。既に我々はそれを捕らえておる」

 と言い、その視線を牛車の後ろに付いてきた荷車に移す。荷台には汚れた袋に包まれた三つの……どれも人ひとりが入っているくらいの大きさの荷物が。

「おい、まさかあれが……?」

 観衆の一人が言う。そうだ、今動いたぞ、などと騒ぎが大きくなっていく。

「皆の者、静まるが良い」

 その一言で再び広場に静寂が戻る。陰ノ行者は影光師の一人に合図し、荷物の口を開けた。その中から白い髪も髭も伸び放題の、一見してまともな生業や住処を持たない貧しい者とわかる男が出てきた。

「その者をここへ」

 陰ノ行者の言葉に従い、後ろ手に縛られて口に猿轡をされた男が舞台へあげられる。

 そいつが災いの元かと、観衆が騒ぎ出す。

「悪しきものには、その徴が身体のどこかにある。この男の徴は」

 言いながら懐から短刀を取り出し、男の粗末な衣服の胸元を切り裂いた。

「この、忌まわしき痣だ」

 男の胸には大きな痣があった。右肩から胸、そして臍のあたりまで青黒く広がっている。

「ふむ、これは単に憑かれただけの者じゃ」

 言うや、短刀を深々と男の右肩に突き刺し、そのまま下へ引き裂いた。

 男のふさがれた口から、くぐもった絶叫が漏れる。観衆からも悲鳴があがる。

 陰ノ行者の持つ短刀は痣を切り裂くように動き、引き抜かれた。すると次の瞬間、淡い光とともに男の体から傷が消え、それと共に痣もなくなっていた。

「悪しきものは今、この男の中から消え去った」

 戒めを解かれた男は、何が起きたのかわからない、といった表情で呆然としていたが、やがて陰ノ行者を拝み倒すようにして舞台を降りていった。

 そういう事か……。明聖は、合点がいった。真管道新の怨霊のことは内裏では誰もが知っているが、平民どもにはほとんど知られていないはずだ。内裏の勢力争いに恨みを呑んで死んでいった者の祟りが飢饉の原因だ、となれば民衆に不満が募る。他の原因をでっち上げてしまえ、という目的なのだ。だから内裏もすぐにここの使用許可を出した。

 そうして行われている公開憑き物祓いを、明聖は醒めた目で見ていた。今のは何かを祓ったわけでもないし、男の傷を奇跡の力で治したわけでもない。

 幻術、集団催眠である。陰ノ行者はまず、この広場に居る人間の目と耳、意識を舞台に集中させ、自分の声に聞き入るように演出した。

 そして言葉で意識を誘導し、あの男の体にありもしない痣があるように見せ、短刀で斬る真似をしただけだ。だが、見ている者は男の体から血が溢れ出すのをはっきりと目撃したし、男は自分の体が切り裂かれる痛みを味わった。

 今の幻術が成功したせいで、完全に広場にいる者全員が陰ノ行者の術中にはまった。彼の思うままに、どれほど不思議な事でも今この広場においては起こすことができる。そしてそれは、この場の者にとっては現実そのものだ。

 だが明聖は幻術にかかっていない。これも日頃の修練の賜物……というより、相手の手口を知り、疑いの気持ちを持ち続けていれば幻術にかかる事など、そうはないのだ。

 その手口が記された枕元の置き手紙には人型の紙……式神が同封されていた。それは今、懐に忍ばせてある。明聖は着物の上からそれに手を当てた。

「次の者を」

 続いて舞台にあげられたのは、中年の女だった。どこにでも居そうな、ありふれた女である。やはり腕を縛られ、口も塞がれている。

「この者の徴は」

 と、女の手を取って上にあげさせると、腕に大きなイボがあった。

「これは……少々厄介であるな。皆の者、我に力を貸してはもらえまいか」

 舞台から観衆へ呼びかける。

「この者も罪なき身であるのに、悪しきものにとりつかれておる。皆の力で浄めてやってもらいたいのだ」

 そこの者、それと、そこの、それと……

 次々と、七名の人間が指名され、舞台上へあげられた。警備にあたっている検非違使達は気がかりそうに舞台の上と観衆たちを交互に見やっているが、陰ノ行者はまるで構わずに、一人を選んで木の棒を手渡した。ちょうど片手で振るのに適した太さと長さの棍棒。

「これなる棒は我があらかじめ清めしもの。これで、あの者の中に宿る、悪しきものを追いやって欲しい」

 と、怯えた目で震えている女を指差す。

「これで、ですか?」

 舞台にあげられ、棒を持たされた男は、困惑するように陰ノ行者を見る。

「そうだ。思い切り、打ち据えるのだ。そしてあの女を救ってやって欲しい」

 恐る恐る、男は棒を手に女に近づく。女は怯えたように身じろぎするが、周りを影光師たちが囲み、逃げ場所はない。

 びしっ、と音がして木の棒が女の背中に打ちつけられた。

「加減をするでない! 情けはむしろ、その女の為にならぬ! 力いっぱいに打ち据えるのだ!」

 陰ノ行者の声に押されて男はもう一度、棒を振り下ろす。鈍い音がした。首か、頭か。どこかの骨に当たったようだ。女は悲鳴をあげて舞台を転がった。何人かの影光師が押さえつける。

「次! その女を救うのじゃ。思い切り打てい!」

 二番目の男は雄叫びのような声をあげて棒を振り下ろす。今度は横向きになった女の身体を打ち、肩のあたりに当たった。

「次! 早く悪しきものを祓い、楽にしてやれい!」

 そうして、七人に棒で打たれ、全身傷だらけで血まみれになり、ぐったりと横たわる女に陰ノ行者はゆっくりと近づいた。

「おお。皆の者、見るが良い。この女は今、浄化された」

 女の体を淡い光が包んだ。目を開けた彼女は信じられない、というように目を瞬いた。またしても、体の傷がすべて消えていた。そして、

「見よ!」

 女の腕のイボも、消え去っていたのである。

 明聖の目から見ると、男たちはありもしない棒を持ち、女を打つ真似をしていただけだ。他の人間たちが舞台の上で起こっている茶番劇に悲鳴をあげたり、興奮しているのも実に興ざめである。

 もちろん彼は、内心の思いを悟られぬように振舞っていた。

 まだだ。あの不思議な女が時機を伝えるまで、事を起こしてはならない。彼は懐中に潜ませた人型の紙に意識をやった。この式神の合図に、従うのだ。

「次!」

 続いて袋から現れたのは、尼僧の服装をした若い女性であった。

「さくら……!」

 観衆に混じって舞台を見つめていたやまとが小さく声をあげた。隣のおろちが彼の腕をつかみ、自制を促す。まだだ。まだ耐えなければならない。

 舞台にあげられ、衆目に晒されたさくらは血の気の引いた真っ青な顔に、はっきりとした怯えの表情を浮かべている。

 捕らえられて座敷牢に入れられても、彼女は自分を失わずに耐えていた。やまと達が、必ず助けに来てくれると信じていたから。

 どうやら影光寮が自分を拉致したようだ、というのはわかった。異能を操る者の集団であるから、そう簡単には救出に来られないだろう、と思っていた。

 それでも。

 自分の事を、この忌まわしい角も含めて受け入れてくれた彼らなら必ず、と信じていたのだ。

 ……だが、もう遅いのではないか?

 今朝、数人の男達に縛められ、荷物か屑のように袋に詰められ運ばれてきた、その場所は……

 地獄、とは言わない。

 もっと嫌な目も、恥ずかしい思いもしてきた。

 何度も、死のうとした。

 でも、今は違う。死にたくない。生きたい。ありのままの自分と向き合ってくれる彼ら、仲間と一緒に。

 しかし、この状況では……

 舞台を取り巻く無数の目が自分を注視している。憎しみと蔑みのこもった、恐ろしい目が。

 このままでは陰ノ行者に煽動された民衆によって、なぶり殺しにあうだろう。前の二人は『祓われた』らしいが、わたしはどうやら……


「くそっ、何てことしやがる……!」

 やまとを抑えるおろちも、きつく奥歯を噛み締めた。今、二人がさくらを助けに出ていけば、広場にいる数百人の人間全員が敵になってしまう。いくら言ノ葉の力を持っていても敵う相手ではない。

 舞台の上で陰ノ行者は、大げさな身振りで言う。

「何と! この者は僧の姿であるが内裏の貴人ではないか!」

 白々しい、と明聖は思いながら聞く。

「この者の徴は……おお、何ということだ。これこそが、災いの元凶であるぞ! 美しい姿をしているが人にあらず! このモノの正体は」

 乱暴にさくらの頭巾が取り払われる。

「鬼である!」

 さくらの黒髪の間にある、ちいさな角。天狗いわく『龍の角』が無数の人間の目に晒された。今までの彼女の人生を暗く、悲しいものにしてきた秘密がミヤコ中に暴露されたのだ。

 群衆から驚きの声があがる。実にわかりやすい、鬼の象徴を目にして興奮が高まる。

「皆の者! 再び力を貸して欲しい! 心を合わせ、この鬼めを退治するのじゃ! 浄め、ミヤコに平穏を取り戻さねば我々に明日はないぞ!」

 おおおおお、と観衆が声をあげる。熱狂がこの場を支配している。

 我も我も、と民衆は舞台に駆け寄り、ミヤコの災いの元である、ヒトに化けた鬼を退治せんと声をあげる。

「おお、何と頼もしいことか! 人は自らの手でその未来を掴まねばならぬ! そうだ、その手でこの鬼を打ち据えよ!」

 陰ノ行者の言葉で、熱狂に浮かされた人々が声をあげる。

「それでは、前から順に舞台に上がるが良い。 ……ああ、慌てるでない。皆の気持ちは充分に伝わっておる。順に、その心意気をこの棒に込めるが良いぞ」 

 先ほどとは違い、『明聖の目にも見える』棒を手渡す。

 最初に舞台にあがった、若い男はなんの迷いも見せずに、手に持った棒を力強く振り下ろした。

 それは、さくらの頭をまともに打ち、額を割って血を流させた。

「ふん。血の色は同じか。人のふりなどしおって図々しい。この」

 陰ノ行者は、憎々し気な目で舞台に倒れて血を流す、角の生えた娘を見て、言う。

「醜い、鬼子が!」

 その時、やまとの中の何かが壊れた。 ……いや、張り詰めていた糸のようなものが切れたのかもしれなかった。

「あぁぁぁぁァァぁぁぁ!」 

 言葉に……言ノ葉にならない叫び。やまとは今、失くしたはずの感情、怒りに支配されようとしていた。

 その怒りが、舞台の上で恥辱にまみれていた咲良の前に、はっきりと伝わった。彼女は心の内にはっきりと感じた。やまとが自分のために怒ってくれたことを。そしてそれは決して破ってはいけない封印を解いてしまう事だというのも。

「鬼が……! きさまらこそが真の鬼だ……!」

 やまとの目の色が違う。まずい。これはあの時の……

「おい、やまと! よせ、それじゃ全てが壊れちまう! 頼むから自分を取り戻してくれ」

 おろちは必死に叫び、肩をつかんで揺さぶる。


 ……駄目! やまと、自分を失ってはいけません。わたしは大丈夫です。絶対に、こんな事に負けたりはしません! だから……!


 急にやまとの体から力が抜けた。

「さ、さくら……?」

 目に正気が戻っている。

「やまと、大丈夫か。おい」

 呆気にとられながら、おろちは言う。

「ええ……。今、はっきりと聞こえたんです。さくらの声が。自分を失うな、わたしは大丈夫だからと、僕の頭に直接届きました」

「そうか……。あの角にはそんな力があんのかもしんねえな……にしても、ふざけやがって。あの野郎……!」

 舞台で、血にまみれたさくらが倒れている。そんな状況でやまとを止めてくれた彼女に、二人目の男が棒を手に近づいた。

「くそっ、ジジイまだかよ! いくら本人が大丈夫っつったって、何度もなぐられちゃ」

 その時、阿比明聖の懐の式神が告げた。


 今よぉん。やっちゃいなさぁい。


 明聖はその呪力の全てを陰ノ行者の前頭部に集中させた。周りに悟られぬように小声で呪文を詠み、密かに印を結ぶ。

 ……正体を見せよ! 貴様は影光寮にも、ミヤコにとっても害をなすものだ!

 その場の全てを支配していた黒衣の男の頭に、角が現れた。

 それはさくらよりも大きく、鋭く尖った禍々しいものであった。

「皆の者、見よ! 真の鬼は、その男である!」

 明聖はここが見せ場とばかりに叫んだ。一流の影光師である彼の声は、実によく通る。

 その瞬間、広場全体を支配していた陰ノ行者の術が薄れ、民衆は目を覚ました。

「おい、あれ……」

「陰ノ行者さまが……鬼?」

「どういう事だ! 騙していたのか」

「説明しろ! 陰ノ行者」

 騒ぎが広がる。明聖はただ、あの不思議な女が言うようにしただけだ。陰ノ行者の頭の一部にだけ呪力を集中して、そのまやかしを取り払え、と。

 騒ぎの中、舞台に駆けあがってくる姿があった。

「たった今、内裏より達しがあった! 陰ノ行者、貴様をミヤコに潜んで人心を惑わす妖しとして成敗するように、との命令だ!」

 検非違使庁治安部隊一番隊隊長、田座名だ。

「これはミカド直々の勅令。全ての事柄に優先する! 覚悟せよ、陰ノ行者……いや。ミヤコの闇に巣喰う鬼め!」

「人ごときが! 我を誰と心得る!」

 陰ノ行者が手に持った棒を振るうと、そこから白く輝く光の玉がいくつも飛び出した。

 玉は田座名たちの周りをぐるぐるとまわり、意識を遠のかせた。それは検非違使たちにだけ見せている幻なので、他の観衆から見ると、何も起きていないのに彼らが倒されていく、という不思議な現象となった。

「皆の者! 影光師ならば、見切ったな?」

 阿比明聖が声をあげる。おお、と他の影光師たちは声をあげる。

 今、陰ノ行者は完全な失態を犯した。広場の者すべてではなく、目の前に迫ってきた検非違使に対してだけ、幻術を遣ってしまったのだ。

 その、空々しい実態を目の当たりにしてしまえば術にとらわれる事はない。影光師達は陰ノ行者を取り囲み、呪術で自由を封じた。

「くそっ……。人が……人ごときが!」

 体が動かず、新たな幻術も遣えない。

「風鬼! 何をしておる! 援護を……」

 必死の声に、羽根付きの小人はなにも答えなかった。

「やまと、おろち。よく耐えた。もう良いぞ」

 いつの間にか、二人の後ろに立っていた天狗が静かな口調で言う。

「行くぞ、やまと!」

「はい!」

 おろちの言ノ葉で一気に人壁を飛び越え、二人は舞台に着地した。

 絶体絶命の陰ノ行者、真の名を隠形鬼。今はただ、為すすべもなく自らの用意した舞台の上で自由を奪われ、棒立ちになっている。

 その青ざめた顔を見て、おろちは思った。

 ざまあみやがれ。

「喰らえ!」

 おろちの連続攻撃。隠形鬼は諾々と攻撃を受ける。やまとが言ノ葉を編む。

「大いなる和のもとに命ずる! この悪しきものの正体を明かせ!」

 『明』の文字が青白く光り、隠形鬼の角へ吸い込まれる。

 人のかたちをした、ぼんやりとした存在が現れた。輪郭もぼやけて朧だが、頭に角があることはわかる。 

「影光師様! とどめを」

 やまとが言う。これも、全てをまるく収めるための天狗の策であった。

「よ……よし、下がっておれ!」

 これこそ、最大の見せ場である。今日の自分の活躍によって寮の中での立場……職位が一気に上がるのではないかと、期待に明聖の胸が踊る。

「ミヤコに仇なす鬼よ、我が力の前にひれ伏すが良い! ふるえゆらゆら ゆらゆらと ふるえ……臨 兵 闘 者 皆 陣 列 在 前!」

 明聖の呪術が朧な人影を照らし、その深い闇を祓った。

「ふう……。皆の者、安心するが良い! 諸悪の根源である鬼は今、この阿比明聖が退治したぞ!」

 おおおおっ、と群衆から歓声が上がる。他の影光師たちも、さすがは明聖様だ! などと口々に褒め称える。

 それを尻目に、やまとは手足を縛られて舞台に倒れるさくらに駆け寄ろうとした。

 だがそこに突如、何者かが立ちふさがった。

「オウ、なんとも見苦しいデース。インギョーキ、ルーザーのお前は四鬼失格! ……て、もう居ないのデシタ!」

 ひとりで大声でしゃべって額に手をやり、いかにも情けなさそうな表情で天をあおぐ。

 それは、金色に輝く大きな盾を持った大柄な青年だった。豊かに波打つ髪は金色に輝き、瞳は水色。このクニの者からすると、同じ人間とは思えないほどの違いがある外見だ。

 その男は、金色の盾でやまと達の進路を完全に塞いだ。盾のない場所を通ろうとしてもなぜか、前に進めないのだ。周囲の広い範囲に何らかの力が働いているようだ。

「ミス・風鬼! どこにいらっしゃるのデェスカ?」

 金髪碧眼の乱入者の言葉に応じて、ずっと広場の上空で高みの見物をしていた風鬼が姿を現した。

「はあい、可愛い風鬼ちゃんですよぅ」

 隠形鬼が、いけないのだ。あいつの言うとおり、あたしは何もせずに見ていただけ。敵の胡散臭い坊主が女の姿に化けて阿比明聖に取り入っているのも知っていたけど、黙って見ていた。

 だって、何もするなって言われたんだもん。

「ミス、ボスからの伝言オツタエシマース。方針変更、龍の角のプリンセスをお連れするようにとのコトデェス!」

 金鬼も、この胡散臭い口調さえなければ、外見は悪くないんだけどね……内心思いつつ、はいはいと頷く。

「ふぅん。それじゃ、あたしたちの住処へご招待しましょうか」

 ぱたぱたと羽を動かして空中に浮かぶ風鬼が言う。

「イエース。ボスから空間移転の術式をお借りしてキテマース。これなら楽チンなのでぇース! イーズィ、イーズィ。テイクイット・イーズィィィ!」

「させるかよ!」

 おろちが言ノ葉で攻撃する。

「甘いデース。まるでパイナップル……アンポンタンのコンコンチキデース」

 金色の盾は、いとも容易く言ノ葉を防いでしまった。

「じゃあねぇ。牛鬼様の命令だから、お姫様は連れて行くわぁ」

「シーユー。デッド・シーでお待ちしてまァす!」

 その言葉を残して、風鬼と金髪の男と共に、さくらの姿も消えた。

 文字通り、跡形もなく。

「くそっ! ふざけやがって。毎度毎度、何だってんだ畜生が!」

 おろちは無人になった空間にむかって悪態をつく。

「じじ様! さくらは?」

 いつの間にか舞台のすぐ下まで来ていた天狗は、はっきりと答えた。

「死海じゃ。死海に浮かぶ牛鬼神社。そこに堕ちた神、牛鬼がおる。姫はそこへ連れ去られたのじゃ。お前らを誘い出すためにの」

 あからさまな、罠。これみよがしに目の前で攫われてしまった。

「行きましょう。おろち、刀兼! 罠だろうが何だろうが、構いません!」

 やまとは仲間に呼びかける。

「ああ、行こうぜ。牛鬼だか死海だか知らねえが、今度こそぶっつぶしてやらぁ」

「……催しは終わった。これで警備の任務も終了だ。ここからは一人の剣士として、お主について行くぞ。やまと」

 三人の腹は決まった。

「門の外に、馬を用意してある。死海までの絵地図と、旅の用意も馬の荷に入っておるぞ」

 天狗は、珍しく感情のこもった声で言う。

「行ってこい。そして姫様と一緒に、必ず帰ってくるんじゃ」

「相変わらず、準備万端だな。こうなる事は予測済みかよ」

 おろちが舞台を飛び降り、言う。

「あのお方の言葉は、ほぼ全てがまこととなる。神のお告げじゃからな……。持っていけ」

 ずしりと重い袋を手渡す。中身は銀貨が詰まっている。

「おいおい、こんなにか?」

 三人が一年は遊んで暮らせそうな量だ。

「無事に帰ってきて、余っていたら返せ。良いな、絶対に帰ってくるんじゃぞ」

 その表情は切実で、まるで自分の孫を戦地に送り出す、ただの老人のようだった。

「おう。帰ってきたら、神のお告げがどうとか、その辺のことも詳しく教えてもらうぞ?」 

「ああ、わかった。その時は、話す」

「じじ様。必ず戻ります。さくらと一緒に」

 やまとの言葉に、目を細めて頷く老人。

「絵地図に、言ノ葉を宿らせよ。目的地まで導いてくれるはずじゃ……刀兼」

「はい、ご老体」

「お主の力は、二人を必ず救ってくれるはずじゃ。頼んだぞ」

 その言葉に、刀兼は力強くうなずく。

「では、行ってきます」

 三人は、死海を目指して旅立った。


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