四章「怪異」
「やまと、歌を詠んでみましょう」
咲良の前は言った。
尼寺のある山、その中腹の庵……と言えば聞こえが良い、粗末な小屋でのことである。
巨大な鬼の一件から月日が経ち、季節は冬。すきま風は入るが、火鉢に火が入った狭い室内は意外に暖かい。
やまとと咲良の前は向き合って座り、穏やかな表情で語らっている。こうした日々が、しばらく続いていた。
部屋の隅で、あけぼのは二人を見守るように控えている。ミヤコにいた時から姫に仕えていた従者だ。本来、貴人が出家する時に従者は従う必要などない。従者はあくまでも貴人に仕えるものであり、個人に仕えるのではないのだから。
小屋の外の木々は葉を落とし、動物の数もめっきり減った。生命は冬ごもりの時期。咲良の前はそうした季節を歌に詠もう、と提案したのだ。
「さくら、僕は歌など詠めません。それは貴人さまのする事です」
すっかり打ち解けたやまとは、咲良の前の事をそう呼んだ。この時代の常識からすれば不敬な呼び方であるが、本人がそう望んだのだ。
ふふ、とさくらは微笑む。
「なにも、難しく考えることはないのです。その場の情景、景色、鳥や獣の声……、自分の中にうまれる言葉を五、七、五の音に揃えるだけ。それで良いのです。今まで、有名な歌はたくさん教えてあげたでしょう?」
おろちとやまとは山の麓に小屋を与えられ、そこから庵へ毎日やって来ている。もちろん護衛のためだ。夜は小屋を念入りに封じてから山を降りる。
刀兼は検非違使の隊長としての任務があり、いつまでも護衛に就いているわけにはいかないので、二人がその任を継いだのだ。
初めのうちは交代だったが、今はほぼ毎日やまとが来ている。あれからは敵襲もなく、平穏な日々が続いていた。
何をするでなく過ごす日々、やまとは昔の記憶がないので話題はすぐに尽きてしまい、それからは主にさくらが何かを教える事が多くなった。貴族であった彼女は教養が豊かで、様々なことを彼に教えてくれた。その中に、数々の名人たちの歌もあったのだ。
「そう言われても……」
そんな事では、とさくらは悪戯っぽい目をする。
「好きなひとに想いを伝えられませぬよ?」
まるで弟のように、彼女はこの少年を可愛がっているのだ。
「それならご心配なく! 兄様の気持ちはすでに伝わっておりますゆえ!」
ゆうである。既にさくらにも見えているし、声も聞こえている。
「そうね……。でも、考えてみて。やまとがゆうの為に素敵な歌を詠んでくれたら、嬉しいと思わない?」
それは……と、ゆうは空中で思案顔になる。
「嬉しいです! さあ兄様。遠慮なく、ゆうにその思いのたけを込めた歌を詠んでくださいまし! ……ええ。それがどんなにみっともない駄歌であっても、ゆうには玉石のごとき輝きに満ちたものでありましょう!」
胸の前に両手を合わせ、目を輝かせる。
「……ゆうの方が、歌詠みには向いているかも知れないわね」
「しき……。そう、言ったのじゃな? その小人は」
天狗が言う。山の麓の小屋にどこからともなくやってきた老人は、巨大鬼との戦いの顛末をおろちから聞いていた。昼間から茶碗酒をすすりながら板間にあぐらをかいて。
「ああ。四季、式……どんな字だか、知らねえが」
お前も飲むか、とすすめる酒を断る。嫌いではないが、昼間からこの老人と差し向かいで飲む気にはなれなかったのだ。
「その娘はふうき、と言ったんじゃな。……なら、四鬼じゃ。風鬼、金鬼、水鬼、隠形鬼の四鬼。牛鬼の懐刀、死海の四天王よ」
空になった茶碗に自ら酒を注ぐ。
「牛鬼……って、あの天帝に負けて鬼になった、ってぇあれか? じゃあ本物の神さまじゃねえか。そんなもんが今でも生きて、その死海って所に居るってのかよ?」
神は既に神話……歴史とも、おとぎ話ともつかない曖昧な領域での存在となっているのだ。このクニの始まりは神の物語として語られるが、その神が実際に存在したのか、そして今は神話の伝えるとおり、『お隠れになっている』のか。それとも死んでしまったのか。あまり真剣に考えたことはなかったが、おろちは何となく、大昔に神は居たんだろうが、もう居ないのだろうと思っていた。
死んだか、どっか遠く……それこそ天に還ったなりして……。
「牛鬼は、天帝と同じ『神』。不死の存在であるのは確かじゃ。今は力を失っていると言われとるが……。死海に潜み、未だこのクニを狙っておろう。そうか……最悪の相手に当たってしまったようじゃな」
「……何だか、とんでもねえ話になってきたな」
うんざりした顔でおろちは言う。
天狗は、苦い顔で茶碗の酒を一息に飲み干した。
「さあ兄様、可愛い妹に対する愛情を、存分にお示しなさいまし! ごう、しち、ごうとやらで歌をお詠みくださいまし!」
ろくに意味もわからないまま、ゆうはさかんにやまとを急かした。
「いや、そう言われても歌など、どうしたものか……」
本気で困惑しているやまとに、さくらが助け舟を出す。
「じゃあ、まずは形にとらわれずに外の景色を言葉で表してみましょう。言ノ葉なら得意でしょう?」
そう言って、小さな窓から外を見る。冬の山中、枯れた木々と青空。
「ええ……。これを、言ノ葉で表わす……」
やまとは、とにかく口にしてみることにした。
「枯れた木々…… 身を切る空気…… 音もなし……」
あら、とさくらは目を丸くする。
「歌に、なってるじゃない! でも、それだと目の前の景色そのまま過ぎるから、もう少し自分の気持ちや、歌を贈る相手のことも入れて……」
やまとを褒めて伸ばそうと、やや大げさに驚いて導こうとする。
「贈る、相手……」
横でゆうが盛んに自分の鼻先を指差している。
だが、やまとの視線はさくらに向いた。
「ええ。練習相手として最初は、わたしでも良いですよ」
初めて会った時と比べて、さくらは別人のように明るくなった。
まさに、憑き物が落ちたかのように。
相変わらず尼僧の服装をし、頭巾で頭を隠しているが、以前のように死にたがることもなく、頭の角もさほど気にしている様子もない。
すっかり、やまと達を信頼しているようだ。時折姿を見せる刀兼とも親しくしている。
やまとは今、幸せな時を過ごしていると思った。
家族のようなゆう、おろちと一緒に過ごす日々。天狗には滅多に会えないが、新たな友の刀兼、そして、姉のようなさくらが居る。
自分の記憶にある短い人生において、最良の時であるように思っているのだ。
「なぜ、さくらなのです! 兄様はゆうに歌を贈ってくれると言ったではありませぬか!」
言った記憶はないな、とやまとは思った。
「ゆう。まずはわたしが練習として歌を受け取ります。そうしたら、もっとこうしよう、と助言ができます。それで上手になったら本番としてゆうに贈る。これでどう? やまとも、なるべく良い歌を妹に贈りたいと思っているのよ?」
さくらが取りなす。
「……そうですか。では、早く練習を済ませて下さいまし。そしてゆうに素晴らしい歌を、お待ち申しております……」
言い残し、ふうっ、と姿を消す。
……ああ、昼食時だから。
「隊長! 出動命令です。右京九条にて、人傷沙汰との報せ!」
検非違使庁の隊長室に駆け込んできた隊員が告げる。刀兼は素早く頭を巡らせた。
「今日は確か、一番隊が巡回に当たっているはずではないか?」
「はい。その一番隊からの応援要請であります! 怪異の疑いあり、三番隊に助力願いたい、とのことであります!」
刀兼は、ひとつうなずいた。
彼がこの若さで検非違使という、歴とした内裏の組織の中で隊長の職に就いているのは、父親が長官であるという、その血筋だけが理由ではない。
剣術や部下の統制力、戦術など、彼よりも優れた者は多く居る。
だが、他の人間にはない、誰しも認めざるを得ない能力が刀兼にはある。それが、怪異を『視る』力だ。
このミヤコで起こる事件は、全てが人間によるものではない。
物の怪の仕業であったり、何かに取り憑かれた人の起こす事件もある。
そうした時、従来ならば検非違使は影光寮へ協力を頼まなければならなかった。
それを、同じ検非違使に『視る』ことができる者が居るというのは非常に大きい。
いわゆる縦割り構造で、他の組織に頼んで借りをつくるよりは、自分たちで事を解決したいというのが本音だ。
それを、ある程度可能にしてくれるのが刀兼の能力なのだ。
だから水無藻刀兼は隊長であり、こうして怪異の疑いがある事件の際には出動要請が来るのである。
「では、出動する! 三番隊より、二名ほど拙者につけ。装備は標準で良い。準備が出来次第出立する」
「……なんだ? 農民か」
三番隊隊員の一人が怪訝な顔をした。刀兼の部下の中でも一番に若い剣士である。
怪異の疑いあり、とされた事件の現場はミヤコの農業地区であった。田畑が広がり、民家がその隙間に点在するような場所である。
そこで、農民の蜂起が起きていた。
「検非違使が、また来おったか! わしら農民をなんだと思っとる! 自分らの食い扶持まで奪われては生きていけんわ!」
鍬や鋤などの農具を武器にして、十数人の男たちが固まっていた。
それを検非違使庁一番隊の隊員六名が、刀を手に取り囲んでいるのだ。
ミヤコの中の農地はすべて『天領』と呼ばれる直轄地である。荘園化する事は許されず、小作人が耕し、その収穫の一部が報酬として残されたあとは直接、内裏へ召し上げられる。
ミヤコの地は何故か非常に肥沃であり、他の土地よりも収穫量が多い。その為、他所から農業をするために移り住んでくる者もいる程だ。
だがこの年は、天候不順や雷を伴う突発的な大雨などにより、収穫高が激減している。それでも通常通りの量を納めよと内裏は言う。しわ寄せはすべて、実際に田畑を耕した者に行くのだ。
「刀兼殿、待っておったぞ!」
一番隊隊長・田座名壮勇が駆け寄ってくる。簡易な鎧姿で、腕に血の滲んだ布を巻いている。誠実な人柄の剣士で、自分の息子ほどの年齢の刀兼に対しても偉ぶったりするところがない。
「田座名殿! お怪我を」
む、と彼は自分の腕を見やり、
「これしきは怪我に入らぬ。それより刀兼殿、見ての通りの農民の群れ。それだけのはずなのだが……」
表情を曇らせる。数人いる彼の部隊の隊員は、よく見るとどこかしら負傷している。それなのに、農民たちには怪我をしている者が一人もいない。
これは、奇妙だ。
いくら農民が多勢であったとしても、検非違使は全員が毎日の厳しい鍛錬によって鍛えられた猛者ばかりである。しかも、一番隊と言えば選りすぐりの剣士ばかりが集まっている隊だ。素人相手なら、一人で十人は相手にできる、と言っても誇張にはならない。
「あの者どもに、剣が……届かぬのだ」
苦悶の表情を浮かべ、言葉を搾り出すように田座名は言った。
「届かぬ……と、申しますと?」
刀兼の言葉に応えるようにひとつ頷き、声をあげる。
「一番隊、構え!」
手負いの剣士達は剣を構え、農民の群れに向き合う。
「かかれっ!」
隊長の号令と共に、全員が気合とともに斬り込む。
鋭い剣が振るわれ、農民は農具を盾にするように防ぐ。
「…………!」
明らかに不自然だった。検非違使の剣は、農具に当たりもせずに弾き返されたのだ。
まるで……
「言ノ葉……?」
剣が農民たちの直前ではじかれる瞬間、白い光が見えたのだ。
それは言ノ葉の輝きに、少し似ていた。
「何か、視え申したか! 刀兼殿?」
田座名が期待を込めて問う。
「ええ……光のようなものが。田座名殿には?」
彼は首を横に振る。するとあれは、ただの光ではないということになる。
「そうやって、わしらから散々搾り取った挙句、最後は殺すのか! 貴人だけが人間でねえぞ! わしらも、食わねば死ぬんじゃ! なぜ、それがわからぬ」
農民の中の指導者らしき男が大声をあげる。
「その方が長か!」
抜刀せずに刀兼が前に出る。
三番隊の隊員たちが前に出ようとするのを手で制し、一人で農民たちと向き合う。
「何じゃお前は! 小僧のくせに!」
農民の中から声が上がる。明らかに、刀兼は年若い。
「検非違使は何も、お前たちを殺そうというのではない。他の民に危険がないよう、お前たちの暴動を止めたいだけだ」
刀兼は徒手のまま言う。
「嘘つけ!」
鍬を前に突き出すようにして農民の一人が言う。
「そうやって油断させて、皆殺しだろう! 内裏のやつらなんざ、信用できるか!」
「ならば」
刀兼は腰の刀を地面に捨て、鎧も脱ぎ、完全に無防備な格好になった。
「これでどうだ? お前がその鍬をふるえば、拙者に防ぐ術はない。どうとでも好きにすれば良いぞ。拙者を殺して気が済むのならな」
明らかに、農民たちは気勢をそがれた。
「話し合わぬか? 農民も人間なら、内裏の貴人も人間。わかりあえない事もなかろう」
この時代の常識とはかけ離れた言葉に、農民たちは呆気にとられた。貴人と民草を同等に捉えるなど、とんでもないことだ。
少し前なら、刀兼もこんな事を思いつきもしなかったであろう。
だが、官位がなくとも優れた者は居るのだ。共に力を合わせて戦うことも、出来るのだ。
それがわかったからこそ、言えた言葉であった。
意表を突かれ、場の空気が緩みかけた。
その時だった。
冬晴れの青空に、急に暗雲が垂れこめ、激しい雨が降り出した。
厚い雲から稲妻が走り、腹に響く音を轟かせた。
「な……何だ! 急に……まさか、怨霊」
検非違使の隊員の一人が口にした。とたんにその場の者の心に不安がさした。
「馬鹿者! 慌てるでない。ただの雨、ただの雷だ! 急に降り出したのならすぐに止むはずだ!」
田座名が隊員と、農民たちにも言い聞かせるように声をあげた。
しかし、その言葉をあざ笑うように一筋の光が天より、農民の一人が持つ鍬におちた。
一瞬の事だった。
落雷を受けた男は、衝撃で息の根を止めた。
「に……逃げ……」
その場の全員が逃げ腰になった、その時。
臨 兵 闘 者 皆 陣 列 在 前
耳をつんざく雷鳴や激しい風雨の音の中でも、なぜかはっきりと聞こえた、呪文のような声。
「悪しき心に依りて導かれし天の災いを祓え。急急如律令!」
瞬間、暗雲はかき消えるように失くなり、空は晴天を取り戻した。
「な、何が……」
あたりを見回す。濡れた地面。いくつも水たまりができている。
検非違使も農民も、濡れねずみだ。そして落雷によって命を落とした者が一人。
「ミヤコの怪異は我らが影光寮の領分。検非違使は、刀で斬れるものだけ相手にしておればよろしい」
刀兼がその時見たもの。
それは、修行僧のような黒ずくめの服装の男。
その後ろに何人か、顔見知りの影光師たちが従っていた。彼らは華美な着物に烏帽子を被った貴人の服装である。見た目からして明らかに異質だが、黒衣の男も影光師なのか。
鋭い、などという言い方ではまるで足りない、冥界の果てまで見てきたような闇を抱えた目で、その男は刀兼を見た。
「視えておるのだろう? わかっていて、何故わざわざ身を危険に晒す? あの民草どもは憑かれておる。人の言葉など、聞きはしまい」
悠然と歩み寄り、刀兼の捨てた刀を拾いあげる。
「ほう、これは業物……このようなものを容易く捨ててしまうとは、見所のある」
鞘より抜いた刃を見て、その人物は言う。
「な……」
唖然とする刀兼をあざ笑うかのように男は、
「捨て置いた刀、お借りする」
と、刀を手に農民達に向き合う。
のうまく さうまんだ ばさらだん かん そわか
刀兼の刀が、真っ白い光を発した。
黒衣の人物は、片手で刀を持ち、頭上に掲げると、そのまま無造作に振り下ろした。
ぶんっ
という音とともに、刀から何かの力が放たれ、農民の集団に飛んだ。
……そして、次の瞬間。集団は、ただの農夫の集まりになっていた。
刀兼には、はっきりとわかる。先刻までの、何かがつきまとっていた彼らとは違う、武器の代わりの農具を手に、追い詰められて権力者に逆らっただけの、ただの群れ。
「検非違使庁の、この場の責任者はどなたかな」
よく通る声の問いかけに田座名が応じる。
「拙者だ。治安部隊一番隊長、田座名と申す」
「田座名殿。見ていただいてわかったと思うが、あの者共は皆、憑かれておった。自分たちの意思で内裏に逆らったわけではないのだという事を、ご理解いただきたい」
有無を言わせぬ口調で言う。
「あ、ああ……確かに、憑き物では仕方なし……。憑かれていた者のせいにはできぬな」
ご理解いただけたようで有難い、と黒衣の男は余裕ある態度でうなずく。
「ご安心召されよ。この者たちは既に無害な身。なにも脅威などはございませぬぞ。それは影光寮が保証いたそう。それゆえ、何とぞ寛大な処分を」
「うむ……。貴殿が、そう仰るのなら」
思わず田座名はそう答えた。相手の態度や雰囲気に呑まれた、と言える。
その言葉に農民たちも、周りで事態を見守っていた野次馬連中も明るい表情を浮かべた。
感謝致す、と男。
「……お返しする。実に、良き刀。大事になされ」
男は刀兼に刀を手渡し、そのまま立ち去ろうとする。
「待て!」
刀兼は刀を抜き払い、両手で構えて黒ずくめの後ろ姿に叫んだ。
なんなのだ。
貴様は?
拙者は?
何もできなかった!
怪異の全てを、いとも容易く消し去った貴様は……
「何者だ!」
ゆっくりと、謎の人物は振り返る。
「申したはずですがな。影光寮の者であると」
うそぶくその人物に、刀兼はまっすぐに刃を向けた。
今すぐ、叩き切りたい。
もしこの場で問答無用で斬りこんだとしても、その刃が届く気もしないのだが、それでも……いや、だからこそ。自分の全てをこめて一太刀浴びせたい……自分の中から湧き上がる衝動に身を焦がしそうになりながら、刀兼は相手を睨みつけた。
「我が名は、陰ノ行者」
「いんの、ぎょうじゃ……」
刀兼は、ただ相手の名を繰り返した。そうすることしか、できなかった。
「我は、影光寮の影光師。貴殿のような中途半端な存在とは違う、怪異を退治する事を天命とする者なり」
「……まくらことば、ですか?」
刀兼が農地に出向いている頃、庵ではやまとがさくらと歌を詠む練習をしていた。
「ええ。歌の始まりに置かれることが多いのだけれど、そのあとに続く言葉を導くものよ」
「導く……? どういうことですか?」
「例えば……そうね。『あしひきの』という詞の後には必ず『やま』が来るの。そういう決まりごとがあるのです。他には……あっ」
さくらは、何かを思いついたようだ。
「貴方に最適な枕詞があるわ。『白妙の』よ」
「しろたへの……? それは、どんな」
その時。
地を揺るがすような低い音が鳴り響いた。
「雷鳴? ……かなり近い」
さくらは不安そうな声をあげる。
「姫さま、あれを!」
あけぼのの声に小さな窓から外を見ると、異様な光景がひろがっていた。
ミヤコの中の一部にだけ、厚い雨雲がかかっていたのだ。
「な……何だあれは? あそこだけ天候が違うなんて、そんな事が」
その雲は、遠目にもわかるくらいの大雨を降らせて雷光を大地に走らせている。
それなのに、他の場所は青空が広がっているのだ。
どう考えても、おかしい。
やまととさくらが呆然と見守るうち、ミヤコの奇妙な雲は掻き消えるようになくなった。
「何だ、あれは……」
やまとは、繰り返しつぶやいた。
何なのかはわからない。だが、
「きっと、新たな災厄の始まりだ」
やまとは確信を持ってそう言った。
「さくら、僕はミヤコへ行きます。すぐに戻りますので待っていて下さい。あけぼのさん、留守を頼みます。あの御札は持っていますね」
後ろに控える従者に言う。彼女は懐から札を取り出し、掲げてみせた。
「はい、ここに。それに石も」
あけぼのが手にした札には『護』の言ノ葉が宿っている。そして、青い光を放つ石には、『弾』の言ノ葉が。天狗の用意した特別な札と珠で、能力の無い者でも、持っているだけである程度の効果が発揮できる。万一の時のために渡したものだ。
「お願いします」
「わかりました。姫様の身は、わたくしの命に代えても」
「もう。あけぼのはまた……。わたしの事は心配しないで。やまとの方こそ気をつけて」
「はい……。行ってきます」
口から自然と出た言葉が、妙に心地よく感じられた。
「行ってらっしゃい」
さくらは微笑んだ。
きっと今が……一番幸せな時なんだ。改めて、やまとは思った。
そして幸せは、長く続かない。
心のどこかで、わかっていた。
同じ頃。山の麓の小屋で話し合っていたおろちと天狗も、ミヤコの異常に気がついた。
「何でえ、ありゃあ……」
小屋から出てミヤコの異常を見たおろちのつぶやきに、天狗は無言のままだった。
「ジジイ、ありゃあ一体……?」
「おろち。姫様は?」
天狗は短く問うた。
「あ、ああ……。やまとがついてる。従者の娘には札と珠、持たせてあるぜ」
そうか、とつぶやくように言い、天狗は暗い色の目を背けた。
「……おろち。行ってくるが良かろう。明らかな怪異が起きておるのじゃ」
全て謎だらけとは言え、付き合いの長いおろちは、天狗の態度に不自然なものを感じた。 こういう時の老人は、何かを隠しているのだ。
「そうだな。じゃあ、行ってくらあ」
そしてこういう時は、何がどうあっても天狗は本音を明かさないのだ。
「ああ。行ってこい。ワシも、もう行かねばならん」
そうして二人は小屋を出た。その後、無人になった小屋の前をやまとが通ったことは、当然知る由もない。