幕間「死海」
ミヤコから北西に離れた、とある場所に『死海』という巨大な湖がある。他のクニを見渡しても、ここままでの大きさの湖はそうない。形は真ん中あたりがややくびれた楕円形。いくら大きいとは言え湖が海と呼ばれるのは、その水が塩分を含むからである。
それも、通常の海水の約十倍と言われる高濃度の塩水だ。そのため、死海には魚はおろか、水草や微生物すら存在しない。まさに死の海である。
なぜこのような内陸部に異様な塩分濃度の湖があるのか、知る者はいない。少なくとも、この時代の人間の中には。
さらに言うと、自然と水源の豊かなこのクニにあって、何故かこの地方にはほとんど雨が降らない。明らかに不自然な天候である。
死海には、いくつかの小さな浮島があり、その内の一つが牛鬼神社と呼ばれている。
湖のほとりに鳥居が立ち、そこから地元の人間は島を拝むのだ。
地元と言っても、かなり離れた所にある集落だ。
生物が周辺に存在しないので人間が住むには適さないのである。
死海は昔から、人が入ってはならないと言い伝えられている。神社に棲む牛鬼は、遠くから祀っている分には良いが、近づいてはならないのだ。死海に入る者には不幸が、更に神社のある島に近よる者には死が訪れるという。それは信仰というより、確実に起こる事として人々に信じられている。
神社とは言うものの、島には社殿も鳥居もなく、雨が降らないために干からびて草の一本も生えない、白茶けた岩場だけの死の島だ。
しかし、そこには神が棲んでいる。
天より下り、ミヤコの天帝に国譲りを求め、戦いの果てに力を失って牛鬼となった神が。
「……そうか。見破られたか」
牛鬼は浴槽に身を浸しながら、言った。
「ええ、申し訳ありません。計画どおり、姫が自ら死を望むように仕向けたのですが」
宙に浮かんだ風鬼が改まった口調で答える。
「その二人……言ノ葉遣い、と言ったな。言霊の力をそこまで操れる人間が現れたのか。それも進化といえるか……。やっかいな相手かもしれん」
「ええ。二人と一緒にいた剣士は、どうやら『視える』ようでした……それと、なにやら気配だけの存在も一匹」
どうやら失態を責められる事はなさそうだと安心して答える。
「……天帝が何を企んでいるのか気になるな……。風鬼、ミヤコに潜れ。むしろ相手の懐で事を起こした方が良いかも知れぬ」
「お任せを」
小さな娘は、空中で器用に身をかがめ、牛鬼に礼をした。
「隠形鬼と引き続き組むが良い。他には誰が必要だ?」
いいえ、と風鬼は首を振る。
「それだけで、充分です。金鬼と水鬼は死海の護りにお残しくださいまし」
特に気に食わない水鬼の顔を思い浮かべて言った。あんな、魚もどきに手柄を取られてたまるか。
「ならば、やってみよ。しかし良いか、侮るなよ。相手には天帝がついている。我と同じ神だ。しかも向こうには龍がある」
水中で、牛鬼は言った。
「龍など……今更生き返ることもないでしょう」
風鬼は一笑に付した。
「……だと良いがな」
牛鬼の言葉は、ひどく不安げな色を帯びていた。
何故そこまで警戒するのか……風鬼は納得がいかなかった。言ノ葉遣いだか知らないが、所詮相手の手駒は人間である。自分たちのような鬼ではない。
「では、これよりミヤコへ潜みます。隠形鬼と……そうですね、いくつか式神を遣わせて頂ければ」
牛鬼は無言でうなずく。
……さて。どう出る? 天帝よ……。